第4話

次の日。

いつも以上にテンションが低い状態でバイトに出掛けた。

すると、着くや否や塾長に呼ばれ、事務所に行くと


「土地の所有者が亡くなってね。この場所が売りに出される事になったんだよ。それで、駅の貸店舗に12月に移転する事、決定しちゃってさぁ。屋嘉比さんそっちの方に来れない?」


塾長は困った様に“頼むよ”と両手を合わせた。


「え、駅、の方…ですか…」


「そう。駅の方だからこことは正反対の場所になっちゃうんだよね。…正直、来るにも時間がかかっちゃうから無理だったら断ってくれていいから」


「……………」


塾長の言う通り駅は鮎川の家と正反対の上、自転車で行くには時間が掛かり過ぎる。

バスに乗って行けば自転車よりは半分以下の時間で行く事は出来るが、ラッシュ時のバスは見るのも無理。

そんなバスに乗る勇気は智風に持ち合わせていない。

どう頑張っても智風には首を縦に振る事は出来ず、小さい声で『申し訳ないですが…』と断りを入れた。


「そっか…。屋嘉比さんは仕事っぷりがいいから来てくれると本当は助かるんだけどね。あ、ごめん、ごめん!これ、移転先の住所が載ってるから、もし、来る気になったら連絡頂戴」


塾長は智風の仕事っぷりを買ってくれていたようで少し、嬉しくなってしまう。


「残念だけど11月末まで…、それまでお願いね」


無理に引き留めようとはせず、智風の意を汲み取って話を切った。




困った…。

智風は新しい住所の載ったB4の茶封筒を眺め、考えていた。

ここの塾は先生の伝だった為、どうにかやって来れたが…。

また、先生にお願いするか、それか、コンビニやファーストフードとかでバイトをしてみるか。

いやいや、絶対に無理だ。100パーセント無理。

人前に立つのが苦手で、会話も碌に出来ない人間が、…こんな自分が出来たバイトでは無い。

テストの問題を作り、採点し、解答を作るこの作業が好きで仕方がない。

出来ればそんなバイトがいいのだ。


バイトをどうしよう、と悩んでいる智風に、またしても困った事が水曜日に起きた。

小テストで登校して来た鮎川だったが、担任からプリントを受け取らずに帰って行ってしまったのだ。

帰りのホームルームが終わり、帰宅準備をしていると担任から職員室へ来るように言われ、行ってみるとプリントを手渡された。

何故、持って帰らなかったのか、智風には理解出来ず助けを求める顔でプリントと担任の顔を交互に見た。

のだが、担任に“見ざる”を決め込まれてしまい、やはり何も言えないままプリントを持って職員室を後にした。


鮎川とは学校に来ても話をする事も無いし、土曜日まで時間があると思っていたので、またもや頭を抱える事になった。


会いたいけど、会いたくない。

本当にどんな顔して行けばいいのか。


「そうだ、ポストに入れて帰ればいいんだ…」


昨日貰った塾の茶封筒にプリントを入れた。




10月に入り、暗くなるのが気持ち早くなってきた。

そして、顔に当たる風も幾分冷たい。


ーーー17時55分。

鮎川の家に到着。

後はポストに入れるだけ。


…が、盲点が一つ。


ポストは玄関の戸の横に設置されている。

半年も通っていてどうして気付かなかったのか、とため息を吐いた。


“玄関まで行く勇気が無いし…、門に挟んでおけば帰って来たご両親が気付くはず。…あ、でも風で飛ばされたりしないかな…って!ダメダメ!早く挟んで塾に行こう!誰も見ていない隙に…”


辺りを見回しても、誰も居ない。

今なら大丈夫、と封筒を二つ折りにして門に挟もうとした。

すると、急に頭上から聞き慣れた声が。


「ねぇ。今日は直に渡してくれないの?」


見上げれば何時からそこに居るのか、鮎川が2階の窓から顔を出し(正確に言えば身を乗り出し)智風をジッと見ている。


「ひっ!」


心臓が止まるのではないかと思うくらい、驚いた。

見られていた、というより、行動を読まれている、という事に智風は驚いた。

驚きの余り飛び跳ねてしまい、封筒を地面に落としている。


「あ……」


智風が封筒に気を取られていると


「ちょっと待ってて」


鮎川は窓を閉めたと思ったら、すぐに玄関が開いた。

封筒を拾い鮎川に視線をやれば、ゆっくりと智風の方に歩いて来ている。

そして、鮎川は無言のまま門を開け、籠からカバンを取ると智風の手を引いて玄関に向かう。


「夕飯は牛のたたきのサラダ仕立て。それとハマグリの吸い物と炊き込みご飯」


「あ、鮎川君!て、っ手!」


手を払おうと必死に鮎川の手を掴むが、決してそれを許そうとはしない。

あの日、自分は何か仕出かしたのか。

真っ直ぐ前を見る鮎川の瞳は何時も見せる柔らかいモノではない。

苛立っているように感じる。

…どうして、鮎川はこんなにも苛立っているのか。

逃げれない事を悟り、黙って玄関に入って行く。

それでも手は放して貰えず、智風はスリッパを履くと何時もの場所に座らせられた。

鮎川は相変わらず無言のまま台所に立ち、食事の用意を始める。


自分なりに時間をずらして、鮎川の家に行ったつもりだった。

毎回決めた時間に行っていたので、遅く行った方が出くわす確率が高い。

なら早い時間に行って、こっそりポストに入れて塾の荷物置き場で時間を潰せばいい。

そう思って時間をずらしたのに、鮎川には行動を読まれていたのだ。


「……柚子、大丈夫?」


「え?あ、大丈夫…、だけど、ご飯頂けない…から、その…作らないで、下さい…」


必死に訴えるが、鮎川は智風を見ようともしないし、それ以上口を開かず黙々と夕飯の準備を続ける。


“ど、どうしよう…帰るにもカバンは鮎川君が持ってるし…”


下を向きテーブルを見つめていると、鮎川が食器を運んで来た。

先程聞いた献立通りの物が並べられて行く。

目の前に並べられると急に空腹感を感じ、ゴクリと生唾を飲み込んでしまう。


「ご飯、食べてから話しよ。いただきます」


手を合わせて鮎川は無言で食べ始めるので、気まずいが仕方なく智風も箸を持った。


しかし、どうしてこんなに料理が上手いのか。

そして、智風が食べ終えるタイミングを見計らい、今度は焼きリンゴのアイスクリーム添えとコーヒーが出て来て、目を丸くした。

こんな物迄作れるのか。


「アイスと一緒に食べて。美味しいから」


「…鮎川君、あ、あの…ありがとう…。いただきます」


そう言って智風はリンゴを頬張った。






鮎川が口を開いたのは食器を片づけを済ませ、イスに腰掛けてからだった。


「ごめん…」


歯切れが悪く、それも急に謝られ、鮎川が何に対して謝りを入れているのか分からず、智風はキョトンとしていた。


「その、ボクが無神経過ぎだった。屋嘉比さんが怒ったって仕方が無い事をボクは無神経に聞いてしまって。だから、その…謝る切っ掛けが欲しくてワザとプリントも貰わずに帰って…。本当にごめん!」


と鮎川に深々と頭を下げられ、智風は慌てて首を振った。


「そ!そんな事しないで!あたし、別に怒って無いし!」


「え?…怒ってない?ボクの事嫌いになって無い?」


今度は顔を上げた鮎川の方がキョトンとした顔をしている。

そんな顔をしたら男前が台無しだ。

智風は思わず困った顔をしてしまう。


「お…怒って無いし、きら…いになんて、ならない…です。…あの、だって、恥ずかしくって…。その、大泣きして…苛められてた過去こと話して…、恥ずかしくって」


「…ボクは、凄く嬉しかったんだ。屋嘉比さんの事知れて。あの日、本当の屋嘉比さんを見せて貰えたみたいで」


その言葉に思わず耳を疑い、息が止まる。

その言葉が嘘でも、偽りでも。

裏切られる可能性が高いのに、鮎川のその言葉を信じたい。

それと、鮎川はクラスメイトと言う枠から、友達という存在に換わっているのだと思った。

泣きそうで、涙声になりながら


「……ありがとう、鮎川君」


智風は心の底からお礼を述べた。

しかし、こんな時はどんな顔をしたらいいのだろうか。

もっと気の利いた言葉を出せたらいいのに。

もっと上手に話をしてあげれたらいいのに。

もどかしくて堪らなかった。


「あ、これプリント」


今の空気がもどかしく、封筒に手を伸ばし鮎川に手渡す。


「ありがと。…あれ?塾、移転するの?」


印刷された部分を見つめ、鮎川は智風に問い掛けた。


「え?う、うん。駅に移転が決まっちゃって…」


「じゃあ、そっちまで行く事になるの?」


「…無理かな、って断って来たの。…正直に言うとね、自転車で行くには時間掛かっちゃうし、それに、…バスに乗って行く勇気は無いし…。11月いっぱいでバイト終わりだから、何処か、新しいバイト先を探さなきゃいけなくって…」


智風は肩を竦め、苦笑いを浮かべる。

すると、鮎川はチラリと時計に目をやり


「まだ、時間大丈夫だよね?ちょっとだけ待てて!」


急いで2階に上がって行った。


鮎川の後姿を見送り、温くなったコーヒーを黙って飲んでいると、暫くして彼はニコニコしながら戻って来た。


「屋嘉比さん、塾のテストとか答案作るバイトあるって言ったらどうする?」


少し、鮎川の頬が赤い気がする。

それに、息も弾んでいるというか…。


しかし、そんな事を気にしている余裕は無く、智風は椅子から立ち上がると


「紹介して欲しい!」


鮎川の服の裾を掴んでいた。


「本当に?」


「本当に!」


「なら、テストで勝負しない?勝負してくれたらバイト紹介する」


「え…?しょ、勝負?」


「そ。勝負」


「あ、鮎川君?ちょ、ちょっと待って?あ、あの、」


「ボクね、屋嘉比さんの処女が欲しいんだ。だからね、勝負しよう!屋嘉比さんはバイトを紹介してもらえるしちゃんとメリットもあるでしょ?」


満面の笑みで見返してくる鮎川。

智風は思考が追い付かず、またまたフリーズ。


数秒フリーズしていたが、ハッと我に帰り慌てて自分に“落ち着け!”と言い聞かせた。

聞き間違いだと、智風は引き攣る顔で鮎川の顔を見上げ


「え…っと、ご、ごめん、その、…よく聞こえ、なかった…かな…?」


首を傾げた。

相変わらずニコニコ顔の鮎川は更に嬉しそうに


「バイト紹介するから、テストの点数で賭けをしようよ。で、もしも屋嘉比さんが負ければ、ボクに君の処女を頂戴」


ポンっと智風の肩に手を置いた。

彼は宇宙人とでも会話しているんだろうか…。

唖然…としてしまい、口を莫迦みたいに開けている智風を他所に、鮎川は話を続けて行く。


「だってさ、こんなチャンスを|無料(タダ)で紹介するのって勿体無い!それに、万年1位の屋嘉比さんが負ける訳無いよ、ね?ボクもそれ位のご褒美が無いとやる気起きないしさ。あ、冗談とかじゃないからね。ボク本気だから覚悟して。で、何時のテストにする?小テストじゃ面白く無いよね〜。ん〜〜〜なら、学期末テストにしようか。11月の末からだったよね?よし、それで決定。はい、屋嘉比さん指きり」


智風の小指に鮎川は自分の小指を絡め、“楽しみだな”と呟いた。


そこから急に鮎川が真顔に、いや、男の顔に。

目の前に居る人が急変した。

悪い冗談を言い。


全くもって笑えない顔で智風を見ている。


「あ、あ、あ、鮎川く、ん、あの…せっ…せい、せい、」


「せい?」


「せ、性処理は、他の人に頼んで下さい!!!」


智風は力いっぱい鮎川を突き飛ばすと、カウンターに置かれた自分のカバンを取り、脱兎の如く逃げ出した。


“あの人は羊の皮を被ったオオカミ!いや、悪魔だ!”


バイト先の塾に着くと荷物置き場に飛び込み、暫くの間、体育座りをして過ごした。

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