第2話

ーーー18時20分。


鮎川家の前に到着。

家は周りと同じくらいの大きさなのだが、手入れされている広い庭に智風は思わず見とれていた。

その広々とした庭を見ているとバーベキューが出来るのではないか、と自分の家でもないのにいろいろ妄想が広がるのだ。

自転車を門の横に置き、ソーラーパネル付きのライトが置かれている門を開けると綺麗にカットされている芝生の中に敷き詰められている煉瓦の道を進み、玄関に向かう。

玄関前に立つと、ブロンズの猫二匹がwelcomeのボードを持って出迎える。

そんな些細な風景が見慣れた風景になってきているのが嬉しくてたまらなかった。


“よ、よし!”


すぅ…っと大きく深呼吸をし、智風は心臓を高鳴らせながらプルプルと震える指でチャイムを鳴らした。

何時も、チャイムを鳴らすのに勇気がいってしまう。

智風自身も分かっているのだが、今日もチャイムを鳴らすのに5分程の時間を要した。


ピンポ〜ン、と少し高めのチャイムが内側から聞こえる。

そして、数秒もしないうちに


「はいは〜い」


鮎川が返事をしながら、玄関のドアを開けた。

何処となく少年さが残るあどけない笑顔に、余計、指先が震える。


“うぅ、この笑顔…、心臓に悪い”


「こ、ここ、っ…こんにちは、鮎川君。っ、あ、こ、これプリントとノート。あの、た、た、体調、その…壊してない、…ですか?」


震えながらクリアファイルとノートを鮎川に差し出せば、彼の細くて長い指がそれを受け取る。

バクバクと五月蝿い程、鳴り続ける心臓を落ち着かせようと智風は胸元で両手を固く握りしめた。


“顔を、鮎川君の顔を見て、話をしをしなきゃ…”


しかし、なかなか出来たものでは無く、只、髪の毛の間からチラ見するので精一杯。

そして、事務的な会話しか出来ないそんな自分に嫌気すら感じ始めていた。

特に、鮎川の前では…。

他の子と同じ様に話をしてくれるのだから、それに見合った態度を取らなければ失礼に当たるのに。


“どうして、自分はこうなんだろう”


悲しくなって来る。


そんな事を思っていると鮎川が智風から受け取ったノートを開き、ページを捲って長い指でその文字を追っていた。

男の人とは思えない程、長くて綺麗な指。

躰の線も細いのだが、腕は父親のようにしっかりと筋肉がついている。

しかし、今日もいつもと変らない半袖のパーカーにジーンズなのだが、長身の彼が着るとどうしてこう、格好良くなるものなのか。

本当に不思議だ。

そして、その姿を動作を無意識に目で追ってしまう。

そんな不思議な魅力が彼にはある。


不意に何かが智風の頭の上に乗り、軽く2回撫でられた。

何が起きたか理解できずに、機械の様にカクカクと首を上げると


「うん、屋嘉比さん。相変わらず元気だよ。…あ、今日何か用事あったりする?」


ふんわりと笑い、鮎川は首を稼げた。

当たり前のように智風の頭を撫でている。

その姿に攣られ、頭を撫でられている事も忘れて彼の手を頭に乗せながら首を傾げ


「あ、えっと、あの、20時からば、バイトが…」


馬鹿正直に予定を答えていた。

自分でも情けなくなるが、聞かれると上手く喋れないくせに、何でも答えてしまう。


「それまでなら、暇?さっきねピザ取ったんだけど、親が急に仕事出来たからボク一人でさ。どう?何時もプリントとノート持って来てくれるお礼に。Lサイズ2枚頼んでしまっちゃって流石に一人で食べきれないし」


“ピ…ピザ!?Lサイズ、に、2枚ってす、凄いっ”


クラスの女子が“王子様”と称する彼と食事だなんて願っても無い棚ぼたな話だが、一人で食べるのに慣れてしまっている智風は、困惑の余り冷や汗を掻く。

他の女の子だったら喜んで受けるところだろうが、自分は少し違うのだ。

だが、生まれてこの方Lサイズのピザ等食べた事が無い。


“断るのってどういう風に言えばいいの!?で、でも、Lサイズのピザ…食べてみたい…っで、でもでもでもでもっ、クラスメイトの家にお呼ばれした事なんてないしっえ?あ、あ、ど、どうしようっ!”


あわあわ、と狼狽えていると断るより早く“ぐぐぐ〜”と、お腹が元気よく返事をした。

言い訳も思いつかず、真っ赤な顔して下を向く。


“ひい!恥ずかしい!ど、どうしよう!”


恥ずかしさの余り、泣いてしまいそうだ。

しかし、鮎川の態度は変わる事無く


「食事ってさ一人で食べるのって美味しくないでしょ?だから、屋嘉比さんが一緒に食べてくれると嬉しいんだ」


ニッコリと笑って頭に乗せていた手を離すと、玄関の戸を締め、智風の前にスリッパを出した。

余りにも手際がよく、驚いている暇がない。


「で、でも…」


顔をあげると、鮎川は無垢な顔でニコニコと笑い“おいで”と手招きをしている。

流石にここで帰ると言うのは失礼になるのだろう。


意を決して


「お…お邪魔…します」


おずおずと靴を脱ぎ、出されたスリッパを履いて彼の後を着いて行った。




玄関真横に台所。

対面キッチンに大きめの冷蔵庫と真っ白な水屋。

その中には綺麗に並べられた食器。

モデルルームの様で、思わず


「わぁ…!素敵…」


と声を出していた。


「トイレはそこのドアの前。行きたくなったら勝手に行っていいからね」


「あ、は、はい…」


綺麗に掃除させた室内。

チリ一つ落ちて無さそうだ。


“お母さんが綺麗好きなんだろうな”


そんな事を思っていると、対面キッチンの前にある3人掛けのダイニングテーブルに腰掛ける様に促された。


「もう少しで届くと思うからちょっと待っててね。あ、飲み物は何にする?ミネラルウォーター?コカコーラーゼロ?カルピス?お茶?オレンジ?ジンジャーエール?アイスコーヒー?ホットコーヒー?それともビール?ハイボール?白ワイン?赤ワイン?清酒もあるけど」


鮎川は大きなシルバーの冷蔵庫を開け、次から次へと飲み物を出してくる。

その手際の良い事。

智風は何が何だか分からず、それを唖然と見ていたが、慌て声を立てた。


「お、お酒なんて!駄目だし!あ、…あ、あのゼ、ゼロ、でお願いします…」


そんな智風を見て、鮎川はポカン…とした顔をしていたが、ククっと笑う。

鮎川が自分の事で笑っている。

可笑しな女だと思われても、莫迦にして笑っていても。

何でも良い。

嬉しくて、嬉しくて、天にも昇る気持ちだった。


「屋嘉比さんって真面目すぎて面白いね」


鮎川がグラスと一緒に飲み物を持ち、テーブルに置くと同時、ピザが届いた。








***

温かいピザは格別美味しく、Lサイズ2枚のピザは、あっという間に無くなっていった。

ここ2年、ピザなんて食べて無かったので、余計に美味しい。

大満足の智風は、満面の笑みで手拭きを取る。


「美味しかった…。鮎川君って痩せの大食いなのね」


「そういう屋嘉比さんだって、女の子にしては良く食べるよね」


ケラケラと笑われ、智風はまた、下を向く。


「ご、ごめんなさいっ…あ、あの、あたし、」


確かに“遠慮”という言葉を忘れていた。

自分でも大食らいだと思う。

学校では周りに見られ、絡まれない様に程々の量にしているのに、ここで地を出してしまうとは…。


“完全に、気持ち悪がられる”


ぎゅ…とスカートを掴み、罵られる言葉を待った。

しかし、彼の口から出たのは全く予期して無い言葉。


「何で謝るの?っていうか、謝る事でもないよ。それに残っても仕方なくない?猫被って小食のフリされるのはハッキリ言って好きじゃない。しっかり食べてくれるヒトの方が見てて気持ち良くない?そんなヒトの方が好きかな。ボクは」


耳を疑った。

驚いて顔を上げると、鮎川は頬杖を付いて微笑んでいる。

何故にさらりとカッコいい事を言ってくれるのか。

それとも、只のフォローなのか。


鮎川は片づけをする為、立ち上がる。


「屋嘉比さん、ホットコーヒー飲む?」


「あ、は、はい!」


2年で同じクラスになり、鮎川に届け出して半年。

こんなに話をした事も無ければ、笑った顔など見た事も無かった。

少し仲良くなれ、なんだか嬉しく頬に赤みがさす。


「屋嘉比さん、バイトって何してるの?」


「あ、あの、塾の講師……って言っても、雑用だけど……」


「でも、うちの学校の校則でバイトは禁止されてない?」


「え、っと…高校入学式の日に両親が事故で他界して………」


出されたホットコーヒーにミルクと少しの砂糖を入れ、スプーンでクルクル混ぜる。

ブラックでも飲めるが、甘くして飲みたい気分だった。


「だ、だから、特別に許可貰って……」


少し、いやかなり無理して笑ってみせるが、笑顔にならない。

すると、気のせいか、少し鮎川の表情が曇った様に見えた。


「バイトって何時間?平日、今からだとたいした時間、出来なくない?」


鮎川はコーヒーを口に運び、何時もの様に笑って聞いて来た。


“あ……気を使ってくれたんだ”


同情をされても気が滅入るだけなので、鮎川が親の話を避けてくれたのはありがたかった。

気遣いなんてされたのは親の葬式以来。

その時だけ来てくれた父の兄弟夫婦が色々としてくれた。

しかし、それ以来何も音沙汰は無いし、三回忌も1人納骨堂に行って供養してもらったくらいだ。


そんな自分の胸に空いていた穴に、温かい風が通り抜けて行く。

心がほっこりとする。

それに応える様に顔を上げて、鮎川に話しをした。


「えっと、平日は20時から22時まで。土日は昼の15時から20時まで…」


「毎日やってんの?」


「うん。1年の夏休みから」


「凄いね。ボクだったら半月も持たないかも!」


「え、で、でも、そんなに大変な仕事とかないから」


それからは自分でも信じられないくらい鮎川と喋る事が出来、色々な事を話した。





コーヒーを飲み干し、時計を確認すると19時40分。

ここから、自転車で10分なので丁度良い時間になった。

楽しい時間というのはどうしてこんなに早く過ぎるのか。

まだ話していたいが、そうはいかずカバンに手を伸ばした。


「今日は本当にご馳走様でした。あたし、そろそろ行かなきゃ」


椅子を引くと、カバンが何かに引っかかっている様な衝撃を受けた。

そこに視線を落とすと、鮎川の長い指がカバンを掴んでいる。

一体、何が起こったのか。

何故鮎川がカバンを掴んでいるのか理解できず、智風は動けずにいた。


「土曜日、ここで飯食べて行ってよ」


鮎川の言葉に耳を疑った。


「……え?」


“食事に誘ってる?あたしを?土曜日も?”


「え、あ、でも……」


「もしかして、何か用事でもある?」


困惑を隠せない。

と言うより、理解出来ないが、智風は慌てて首を横に振った。


「な、無いけど、そ、その、……そう、ファ、ファミレス、で済ませるから、つ、続けてなんて、悪いよっ、」


必死に一人で行った事も無いファミレスを使って断ろうと試みた。


「そぅ。じゃあボクも一緒にファミレス行く。それが嫌なら家で食べて。屋嘉比さんがリクエスト言ってくれたら、飯用意しとくし。…ねぇ、どっちが良い?」


にっこり、と笑ってはいるが、カバンを掴んでいる手はそうは語っていない。


「………」


強引な鮎川に、智風は言葉を無くした。

選択肢は鮎川の家で食べるか、ファミレスに2人で行くか、という事らしい。

もしも、他の生徒に見られ、噂を立てられたり、根掘り葉掘り聞かれたらどうしたら…。

これを切っ掛けにまた虐めが再開されても困る。


いや、そもそも、ピザをご馳走して貰っていて土曜日も?


頭の中が混乱し、言葉が出ずにいると鮎川は


「勉強で解らない処があってさ…、ついでにね教えて欲しいんだ。…駄目かなぁ?」


眉毛をハの字にして智風を見上げた。

子犬が母親に甘える様な縋る様な目で見つめてくるのは反則だ。


「だ、駄目じゃ無いけど……ほ、本当にご飯いいの?」


「良いよ。もっと屋嘉比さんと話したいし。ね?」


その言葉と笑顔にノックアウト寸前だ。

もう鮎川の顔を見る事は出来ず、俯いたまま答えた。


「ご、ご両親に了解得て欲しい、ですっ…」


「うん!うん!なら決まり!リクエストある?」


「え…っと、……チキン南蛮……」


「OK♪任せといて。ほら、バイト遅くなるよ」


鮎川はカバンを掴んでいた手を放すと、ささっと立ち上がり、今度は智風の背を押す。

背後に立たれるのが怖いのに、その手が凄く心地好く顔がふやけてしまう。

背を押され、智風は玄関に着き靴を履くと、深々と頭を下げる。


「ほ、本当に、ご馳走様でした」


「気付けて」


鮎川が手を振っている。

そして、パタン…と小さな音を立てて戸が閉まった。




ふわふわした足取りで門を出ると、自転車に鍵を挿す。

鮎川と急接近してしまった事に少し戸惑いもあったが、一人で食べる食事をしなくて良い時間があるだけで、嬉しくなってしまう。

しかし、人気者である鮎川匠馬がこんな地味で、苛めにあっていた女にそんな事を言うのか。


『同情』


その二文字が頭の中に浮かぶ。

そう、自分は友達もいない可哀想な子なのだ。

鮎川はそんな可哀想な子に同情しているだけかもしれない。


嬉しいと有頂天になっていたのに、奈落の底に落とされる。


唇をきゅっと噛みしめて智風は自転車を漕ぎ、急ぐように閑静な住宅街を後にした。

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