第871話

 普段なら魔法札の解除を全く失敗しない二人も、動揺のせいか、それぞれ一度目は失敗していた。けれど二度目ではきちんと成功した。

 封が溶けるように消えた後、中に入っていた紙が光り始める。同時にアキラの傷も仄かな光を帯びた。レナは状況を察して即座に身体を屈め、傷を注視する。

「徐々に傷が塞がっています!」

 まだ試作段階の魔法札であり、初めての使用ということもあってナディア達も不安だったが。正しく機能しているようだ。二人は手元に集中しながらも、微かに安堵した。

「治癒は内部からされているようなので、外まで塞がれば問題ないと思います」

 数秒間そのまま見守った後、冷静な声でレナが呟く。遅れて、モニカや周囲の者らも状況を理解し、小さく息を吐いた。

「レナ、そのまま傷とアキラ様の容態の観察をお願いします。必要なものがあれば私達に言ってください」

 医学知識を持つのは、この村でレナだけだ。女の子達が持つ札で正しく回復するのかどうか、最後まで彼女の目で見てもらわなければ判断できない。

 モニカの言葉に頷いたレナは、幾つかの指示を村人に告げ、この治療を見守る為の準備を始めた。

 魔法札は、アキラを助けられる唯一の希望だった。しかしそれを握り締め、使用しているナディアとリコットの表情が、徐々に険しさを増す。

「……カンナ、札、出せる?」

 札から目を離さず、やや苦し気な声でリコットが問う。

 アキラの傍で泣き続けているカンナは顔を上げ、呼吸を震わせた。

「札、はい、……ふだ、を」

 視線が彷徨う。おそらく求められていることは分かったのだろうが、収納空間が開かれる様子が無い。先程のリコット同様、感情の揺れが酷く、魔力が整わないのだ。リコットは唇を噛み締めた。

「ルーイ、ラターシャ! 回復の魔法札、使える!?」

 次は少し声を張った。二人はまだやや遠い位置でへたり込んだままだった。村人が二人を気遣って寄り添ってくれているが、落ち着いた状態とは言い難い。返らない反応に、リコットが一度、喉を震わせる。泣き出しそうに見えた。

「この札だけじゃ多分足りない、お願い、誰か出して!」

 切羽詰まったリコットの言葉に、場の緊張が高まる。アキラの傷は回復している。だが、二人が使っているものだけでは助けられない。静まり返った場に、ナディアの小さな呼吸が落ちる。

「私とリコットは、おそらく続けて使えないわ。アキラが説明していた通り、この札に精神力を使っているのでしょうね、今の時点で、かなりの疲労感があるの」

 いつになく静かで冷静な声だった。おそらくナディアも、リコットと同じだけ焦っている。だが感情的な声を出さないようにと意識して、余計に声量が落ちているようだ。

「札を同じ場所に並行して使った場合、二倍の威力があるかを確認する余裕は無いから、私達が使い終えたらすぐに続けて使ってほしいの」

「それを使い終えるまで、どれくらいの時間が残っているか分かりますか?」

 未だ反応が無いカンナと子供達を軽く見やった後、モニカが冷静な声で問う。ナディアはその問いに困った顔をした。

「いえ、時間は……ただ、札はおそらく、今で四割近く、力を使っています」

「私も同じ感覚です」

「ではあと五分足らずですね」

 ナディア達は測定魔法が使えない為、札の使用開始から何分経っているかが分かっていなかった。一方モニカは当たり前のように測定が可能であり、偶々、経過時間を見ていたから把握できた。むしろこの状況でナディア達が時間を把握しているはずがなかったのに、難しい問いをしてしまった。それでも彼女らが上手く答えを返してくれたことに謝罪と礼を述べたいところだったが――今はそのような場合でもない。飲み込み、モニカは五分間で出来ることを考えて短く沈黙した。

「出せる、出せる……」

 そこへ、くぐもった、小さい声が入り込む。ラターシャが両手で自身の顔を覆い、その手の中へ呟いていた。手を取り払っても彼女の目と頬は未だ涙に濡れていたが、瞳は確かに、強い光を宿していた。

「出した! 次、私が使うから」

「……ありがとう、ラターシャ」

 噛み締めるようにリコットが呟く。ラターシャはその声に応えるように頷いてから、隣のルーイの肩を強く抱いた。

「ルーイならできるよ。私よりもずっと魔法、上手だから」

 腕の中でルーイがすすり泣いている。

「大丈夫、私達で、アキラちゃん助けよう」

 ラターシャの言葉に、ルーイは涙声で「うん」と応え、服の袖で懸命に涙を拭っていた。そして収納空間を開こようと試み始めた。失敗しても「大丈夫」とラターシャが繰り返し励ます。開きかけてはいるようだ。きっとすぐに開けられるようになるだろう。

 問題はカンナの方だった。何度も収納空間を開こうとしているものの、今のルーイ以上に開く気配が無い。失敗するほど更にパニック状態に陥って魔力が乱れていることが、近くに居るリコットにもはっきりと感じ取れた。

 そんな彼女を気にしてやや集中を乱している二人を、モニカは軽く手で制して、カンナの傍に膝を付く。

「カンナさん」

 背中を撫でるが、カンナは苦し気な呼吸を繰り返すだけで顔を上げない。時折、助けを求めるように「アキラ様」と小さく呟く。普段は誰よりも礼儀正しい彼女にはあり得ない態度だ。状態の悪さを改めて感じ、周囲は不安に覆われていく。それを感じながらも、モニカは表情を変えなかった。

「収納空間は、魔法指南を行っても他者によって開くことが出来ない、特殊な生活魔法です。ですからカンナさんがご自身で開く必要があるのです」

 優しい声ではなかった。何処か厳しさを纏い、冷たくも感じられる。周囲はハラハラとその様子を見守った。

「アキラ様を助けたい想いはありますね?」

「当然です! アキラ様はっ、アキラ様が、いな、いなく……なってしまったら、私は……」

 勢いよく顔を上げたものの、言葉半ばで新しく大粒の涙を溢れさせ、カンナは続きが言えない。喉を震わせ、身体を震わせ、子供のように泣いている。

「居なくなりません」

 叱り付けるように、モニカが強く言った。

「温かなまま、此処にいらっしゃいます。まだ生きていて、生きようとされています」

 その言葉はカンナだけではなく、此処に居る全員の心を震わせた。

「救うことだけに集中するのです。魔力を安定させるお手伝いなら可能です。さあ」

 返答を待たずにモニカは自らの魔力を注ぎ、酷く揺れているカンナの魔力を支えた。代わりに空間を『開く』ことは出来ないが、魔法指南の要領で、魔力を『支える』ことだけは可能だった。補助でしかないものの、魔力の乱れで魔法を使えなくなっているカンナにとっては大きな助けだ。

 カンナの動揺は収まっていない。しかし、言葉は確かに届いている。口を噤んだカンナは繰り返し頷いて、収納空間を開くことを試みた。

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