第831話_戻れない
「……ナディ姉、本当に大丈夫かな」
ぽつりとリコットが呟く。馬車移動の話で、次の行き先であるクオマロウを思い出してしまったようだ。
「行ってみないことには、分からないね」
本人すら分っていないことが私達に分かるはずもない。ナディアは確か十四の時に娼館に売られていて、現在二十一歳。私は勿論のことリコットですら、知らないナディアの方がずっと長い。特に彼女は自らのことを多く語りたがらないから、察する為の情報が少ない。
「いや~、でも本当に悪いことをした。気を遣って別の場所を選ばれるのもナディは嫌みたいだし。私がそもそも言い出さなければねぇ~」
長く息を吐いて項垂れる。『西』と何気なく零した彼女の言葉を、どうしてもっと重要視できなかったのか。故郷には彼女を傷付けた過去を持つ父親が居る。その事実を私は知っていたのだから、すぐに紐付けられていたら遠ざけることが出来たのに。完全に私の失態だった。
「ルーイが気付かなかったら、教えてすらくれなかったかもしれないなぁ」
「ナディ姉なら、うーん、ありそう」
憂いを籠めた表情で小さく唸った後、リコットも溜息を吐いた。ナディアが心配で仕方がない様子だ。
「リコは、故郷に戻ってみたい?」
確かこの子の故郷は、東の方の内陸部だと言っていたかな。リコットから漏れ聞く家族の話に、虐待などの理不尽は今のところ無い。小さい頃から炊事は手伝わされていたようだし、女の子は必ず娼館に売られるというのは理不尽でしかないものの、家族から敵意を向けられた結果の話ではない。もう居場所がないとしても、顔を見たくはならないだろうか。
そんな考えはやっぱり、恵まれて生まれた私の甘さなのだろう。リコットは少し口元を歪め、不器用に笑った。
「……ううん。戻れないよ。怖くて、絶対に行きたくない」
その言葉の意味が、私には分からなかった。ただ、リコットが苦しそうだったから、彼女の肩を抱く力を強めた。
「お母さんもお父さんも、別に恋しいとかはないよ。厳しくて冷たい人達だったし。優しくしてくれたお姉ちゃん達は、私より先に娼館に行った。……誰より寄り添ってくれたミレイお姉ちゃんは、もう、何処にも居ない」
娼館に一緒に売られて、亡くしてしまったお姉さんはミレイさんというらしい。名前は初耳だったけど、リコットの言葉を止めるほどのことではないので、ただ肩を撫でながら相槌を打つ。
「妹達も、きっともう売られた。弟達は、どうしてるかな。分からないけど」
男は働き手として残されるとは聞いていたが、故郷を離れたリコットに現状など分かりようはない。妹達もリコットが「きっと売られた」と言うのであれば、もう年頃を過ぎているのだろう。
「気分が良くなる光景があるとは思えない。私は、優しくないから」
声が感情的になってきて、窺うように少し首を傾けたけれど。リコットが一層俯いてしまって表情は見えなかった。
「故郷に行ったら、アキラちゃんに『全部壊して』ってお願いしちゃいそう……」
消え入りそうな小さな声で、リコットが呟いた。声は、泣いているみたいに震えていた。
「憎いわけじゃないのに、何もかも、もう見たくないから壊してって。……いや、分かんない。本当は、憎いのかな。ミレイお姉ちゃんは死んだのにまだ生きてる他の家族が。私達を踏み台にして、故郷に残っている誰かが」
ぎゅっと強く、リコットの肩を抱く。少し驚いた様子でリコットが言葉を止めた。
「それで良くない? 何か悪いの?」
私の言葉に、リコットが顔を上げる。殊更にっこりと微笑んだ。目が笑っていたかは分からない。
「憎い方が自然でしょ。壊せるんだから壊しちゃおうよ。初めからそこに何にも無かったみたいに。家も畑も人も全部、欠片も残さないで」
リコットは、私の言葉にたじろぎ、瞳に少し怯えを見せる。
可愛いリコットを苦しめ、大切なお姉さんを死に追いやった原因とも言えるその家族のことが、正直に言って私も憎い。娼館に送った後のことなんてきっと何も知らず、ミレイさんが死んだことも、リコットが麻薬組織に買われて地獄を味わったことも何一つ知らず、のうのうと生きているなら。それを憎み、今得た力で復讐することの何が悪いんだ。
そう思う一方で、冷静に考える私も居た。
リコットはいつも自分自身を「優しくない」と言うが。その言葉こそが、彼女の性根の優しさを映し出している。
誰かを憎んでしまう自分を『悲しい』と思う人が、優しくないはずがない。
だから、一切の躊躇なく憎しみを表し、彼女を上回る攻撃性を見せることで、リコットを『止める側』にしたい。悪はリコットではなくて私だ。私の方がずっと酷薄で、本当に『優しくない』ってのはこういうことだ。決して、心優しい君みたいな人のことじゃないんだよ。
それでも、もし私の提案さえも受け入れるほど家族が憎いなら。――果たすべきだ。私はこの子の為ならどんな風にでもこの手を汚せる。
だけど。
心優しいこの子はやっぱり、私の袖を震える手で強く握って、首を振った。
「いらない。今、みんなと居て幸せだから。もういい」
また声が少し震えている。怯えさせ過ぎたかなぁ。慰めるように、後頭部をそっと撫でた。
「そっか。ふむ、君がそう言うなら、見逃してやらなくもない」
「あはは」
声を緩めたら、ホッとした様子でリコットが笑う。もう少しだけ慰めよう。腕に抱いて、後頭部や背中をのんびりと撫でた。リコットは私に甘えるみたいに寄り添った。
ただ、……ナディアについて、実はずっと気になっていることがあって。今夜リコットに話そうか迷っていたんだけど。この話を聞いた今、言うべきではないと思った。
何度かナディアから『ろくでなしの父』の話を聞いた。その内容を聞いて憤る私を、穏やかに宥めて「もういい」と彼女は言っていた。たったそれだけの事実であれば、今のリコットと変わらない。
しかし、私はまだ一度もナディアから、父親に対する憎しみの言葉を聞いていない。
その言葉を切っ掛けに私が行動を起こしてしまうことを懸念したが故の措置ならばいい。……そうであったら、どれだけいいか。
私はあの目を、元の世界でも見た覚えがある。記憶と重なるほどに、苦い思いが胸の奥から湧き上がった。
――おそらくナディアはまだ父親のことを、愛している。
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