2−5

 翌日、わたしは保育園を終えて、家に帰らず、手紙の指令を実行した。

いつも、子分(九亮)を引き連れていたから気にならなかったが、やはり一人で出歩くのはかなり緊張するものだったし、怖かった。

 セブンイレブンに到着した。階段もある。これまでたいして気にも留めなかった。建物のあいだにあって、先は暗い。暗い場所ばかりだ、と思った。

 壁にポストが連なっていた。

 203と書かれたボックスは階段をのぼればなんとか手が届く。ひらくとざっと手紙や広告が落ちた。拾う前に、ボックスの底に手をつけてみると、たしかにガムテープの肌触りがした。角をこすって取り除くと、鍵がひっついていた。

 わたしは地面のものを拾い上げ、階段をあがった。

 203号室は建物の奥だった。さっきの鍵をドアノブの穴に入れた。ノックとか、チャイムを押すとかするべきなのかもしれない、と思った。

 突然知らない子供が入ってきたら。

 あるいは中には悪いやつがいるかも。武器がいる?

 ちょうど手すりに薄汚れたビニール傘がかかっていた。

 これを持って……。鍵を回すと、かちゃ、と音がした。わたしは自分で鍵をかけることをしなかったから、家に練習した。母は、「急にどうしたの?」と不思議そうに言った。しかし、九亮がいなくなったことを勘づき、自衛を心がけたのかも、と思ったらしく、丁寧に教えてくれた。

 ドアをあけた。

「九亮?」

 声をかける。

 右手にはビニール傘、左手にはこの部屋の住人の郵便物。襲いかかってきたらまず郵便物を投げて、ビニール傘で……と役に立たないシュミレーションをした。部屋は、甘ったるい腐ったような匂いをしていて、奥のカーテンの隙間から光が一筋あった。靴も脱がずにわたしは奥の部屋に入ると、そこに、猿ぐつわをされて縛られている九亮が、床に倒れていた。

 わたしはその異様な光景にびっくりした。混乱してしまい、どうしたらいいのかわからない。怖い。

 部屋の匂いと湿った空気が、余計にこのシチュエーションを恐ろしくしていた。

 九亮のほうはというと、ただじっとしている。

 そうだ、助けなきゃ。わたしはむりやり、九亮の口の猿轡をずらした。手に九亮のよだれがついた。

「……遅い」

 九亮の口から漏れた声は、いつもの甘ったれたものではなかった。大人びた低いものだった。「手を」

 後手に縛られた紐を、なんとかして外そうとすると、

「痛い、もうちょっと考えてやってくれ」

 と九亮が言った。

 やっとのことで外すと、九亮は自分でさっきまで口にかけられていた手拭いを取り、自分の足を縛っていた紐を外した。

「だ、大丈夫?」

 わたしは九亮に言った。

 とにかくここから逃げなくちゃいけない。

「大丈夫なわけないだろう。愚問だよ。きみは見かけによらず、人の数倍早熟だが、やはり餓鬼だな、知識と他者を思いやる気持ちがない」

 九亮が首を回した。

「あんた、誰?」

 わたしは九亮に言った。

 その口ぶり、どう考えても、違う。

「話は後だ。これから十二分後、笹岡奈緒美が到着する」

「九亮は?」

「これだから未成熟な動物は困る。人の話を聞くことより自己主張を優先する。西村九亮はいま、眠らせている。さすがにこの状況を体験させることは忍びないからな。それに、ぼくもまだ制御ができていなかった。こんなにも他者に影響を与えることになるとは思わなかった。今後は抑えることにする。笹岡奈緒美の前にも、看護師や婦人警官からも同様の迫害を受けたしな」

「……だから九亮は」

「だから、『眠らせている』。幼児が経験するにはかなり倫理的にも今後の成長にも問題をきたすから。安心しろ。なにはともあれ、早急にぼくらはここから撤退する。そして、次の手を放つ。笹岡奈緒美が自主的に、我々の前から消え去るようにな」

「なに言ってるの? 九亮? どうしたの?」

「これだから……きみがこの西村九亮に関する記憶を正確に覚えておけるよう、すでにアップデートしている。頭の容量の限界で、そこまで記憶力は向上しなかったが彼に関してだけはね。あとでいくらでも反芻すればいい。まずはここから立ち去ろう」

 九亮が立ち上がった。そしてさっさと部屋から出て行こうとする。

「え、待ってよ」

 なにわたしを置いて出て行こうとしてんだよ。

「ああ、せっかくだから、彼女に敬意を称してやろうかな」

 九亮の足取りは堂々としていた。いままでのおぼつかないものではなかった。

 わたしはまったくわからず、まるでなにか化け物の封印でも解いてしまったのではないか、と怯えた。震えていた。九亮は、九亮ではなかった。

 九亮は奥の窓を開けた。

 風が吹いた。

 そして、鳩が一羽入ってきた。

 鳩は部屋の中央にとまり、あたりを見回している。お寺でもよくいる、普通の。

「西村九亮と親和性が高い動物だな。人間にはだいたい、人間以外の生き物が守護しているものだが、鳥類とはな」

 九亮が鳩の首を掴んだ。

「え、ちょっと」

 いつだって、鳩を、こわいこわいと怯えていたのだ。しかも鳩は首を握られているというのに、暴れもしない。むしろ、九亮のほうを見て、かわいい鳴き声をあげている。

 九亮は、鳩の首を両手で抱き、そして、思い切りタオル絞るように締めた。

「なにやってんの!」

「飛べない鳥を閉じ込め、暗い欲望をぶつけてきたんだ。見立ててやろう。じき、西村九亮もこんなふうに殺すつもりだったんだから」

 びくびくと鳩が蠢いた。そして、九亮は床に落とした。

「傷つけて血まみれにしたほうがいい?」

 九亮はわたしを見た。

「なに言ってんの?」

「きみは他より知能が高く、成熟している。だから他者と軋轢を起こす。幼少期の経験はあとにひく。しかしちょうどよかった。西村九亮の仮初の保護者として、きみには協力してもらわなくては」

 さあ、行くぞ、と死にかけの鳩とわたしを残し、九亮がさっさとは裸足のまま出ていく。

「待って、待ってよ」

 わたしは九亮を追いかけるなんて初めてだ、と思いながら出た。

「西村九亮が消えてから二十七時間が経過している。よって、なんとか辻褄を合わせるため、寺の本堂奥、宝物を収納している蔵に身をひそめる。中にあるのはたいしたものじゃないがな。縁起にあるように、鎌倉時代に当時あった川底から神仏が出てきたとあるが、あれはそんなものではない。騙された気持ちでそれが本当であったとしても、奥にあるのはせいぜい二百年ほど前のものだ。盗まれ、いたしかたなく新しく作り直したのだろう。仏像崇拝なぞとくに意味はないというのにな」

 九亮は歩きながらぺらぺらと話した。道に人はいなかった。

「なので、きみは一時間後、西村九亮の声がする、と適当な大人に言ってくれ。で、以前一緒に探検したから探したとか適当なことを言ってくれたらいい。幼児にそこまで理由や因果を聞くこともないだろう。以前のショックで夢遊病になった、と医師に判断されるよう、逆算しておく。しばらくよけいに規制がかかるが仕方あるまい」

 それと……。

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