第三話


僕は、まだこの街の恐ろしさを知っていませんでした。それは後ろから迫って来る脅威に気付いていなかったからです。後ろからざぶんざぶんという音がします。振り返ると、僕は見てしまいました。下水を泳ぐ黒い塊を。ワニでしょうか? 飛び散った水滴は宙に舞うとコンクリート片と化して飛び散っていました。僕は狙われたのです。ワニは、今まで忘れていた、僕の最も憎む人間の形をしていました。僕はワニが追いかけてくる理由を必死に考えていました、ポケットにしまっていた罪悪感を遠くへ放り投げましたが、それでもヤツは追ってきます。どうやら僕に染み付いた罪の匂いに反応しているのだと思われます。穢れているのです。僕は逃げました。曼荼羅模様シミの付いたトンネルをくぐり抜けて。体を必死に拭いましたが、僕の体はぴりぴりと打ち震えてしました。鼓動はずっと高鳴ったままで、それもワニは見透かしているのでしょう。


そしてついに追いつかれ、何度も攻撃されました。僕は巨大なワニ用ガムと化したのです。ワニは僕から出たあらゆるものを吸い尽くしました。もうなにも出ないぐらいに。ワニは貯水タンクのようなものに潜りました。僕が涙を流すたびワニは咀嚼しました。もう僕に気力はありません。諦観と自責。身を委ねても止まらない苦痛。その時、カチリと何かの方向性が切り替わる感覚がしました。

気力を振り絞る必要もありませんでした。ワニが水面から顔を出した瞬間、ワニの口から飛び出しました。ぐにょぐにょとガム化し僕はワニに向かって指を突き刺して、高らかに、


お前を食ってやる!


 と宣言しました。僕は近くにあった鉄パイプを拾いました。僕はその鉄パイプでこちらに向かってくるワニを、何度も、何度も強打しました。ワニが動かなくなっても叩き続けました。ワニはピクリとも動かなくなりました。僕は勝ち誇りました。盛大に雄叫びを上げました。心臓がうるさくはねています。これで僕が僕のヒーロー。僕はワニを解体しました。ワニをちぎりました。夢中で食べました。


元居た場所に戻りたいという感情はもはやありませんでした。渦巻く罪悪感。混乱。手を染めてしまったという達成感。僕はついに力を手に入れたのです。脳の奥は冬の冷えた空気のように澄んでいました。


一段落したところで、呼吸が苦しくなってきました。まるで水の中にいるように息ができなくなりました。僕は酸欠で浮遊感を覚えました。これは夢なのでしょうか……。

足元にあった水たまりを覗き込むと、見たこともない怪物が映っていました。僕が僕じゃないみたいでした。僕の体はゾンビのようにボロボロで、生きているのが信じられない程です。しかし、僕の耳から出ている触手だけは生き生きと蠢いていて、触手に乗っ取られてしまっているようでした。胃が裏返って吐きそうになりましたが吐けません。自然と涙が溜まってきました。涙が落ちて、水面に波紋ができて、僕の姿は歪みました。肘と肋骨より下の感覚はとっくに無くなって、その下にはカーテンのようなぼんやりとした認識が広がっていました。それは幽霊、あるいは軟体生物のようでした。


病院への近くへと繋がる梯子を僕は登りました。マンホールの隙間から少し光が漏れていました。僕は最初来た時には無かった自信を少しだけ手に入れることが出来たのです。地上に近づくにつれ、微かに波の音が聞こえてきました。


地上の月明かりは思っていた数倍眩しいものでした。意識が朦朧としている中、とぼとぼと病院への道を歩いていると、ばったり亀有くんと遭遇してしまいました。僕はとっさに岩陰に隠れました。パニックで手がわなわなと震えていました。

「その声は、岐路根、岐路根なんだな?」

亀有くんは驚き、岩越しに問い掛けてきます。

「そこにいるんだろう? 君、一体どこに行っていたんだ」

亀有くんが言うには、僕はで見つかった自転車を最後の手がかりに、八年前から行方不明になっていて、僕は今浦島太郎状態になっているということが分かりました。

「帰ろう、」

放っておいてくれ! と僕は叫んだ。引き留めようとするのか、その後どうなろうと知らないくせにな。勝手に、後先考えず始められた人生だ。こんな形で投げ捨てたっていいだろ? 何が人生は楽しむ為にある、だ。何の為に社会はあるんだ。嘘をつくのをやめろ! 僕は頭を掻きむしった。


僕はその場から走り去りました。僕は見つけたのです。救いを。居場所を。それは現実世界ではなく、空想の中に、そして底の世界にあると。死ぬ瞬間に空想するのです。自分が最高に幸せだった世界線を。僕が覗く窓からは安心しきった顔の僕が見える。僕は幸せになった世界線の僕を見ている。あそこの僕が羨ましい。僕はあの僕だ。僕は今とてつもなく幸せなんだ。そうだ。強い暗示が必要なんだ。その幸福を夢見て、飛び込むのに必要なのは覚悟じゃなくて、自分にかける暗示。現世の僕にはもうなにもいらない。だから僕が今日死ぬとしたら、すべきことは、気力の限りをつくして幸せを思い描くことかもしれない。


先程までのゴツゴツした地面は段々と砂の道に変わっていきました。砂が僅かに光っています。僕は天の川をあるいているようでした。道の途中に、【横断注意】と書かれた看板がありました。この先だ。僕はそう確信しました。

触手の影響か、はたまたワニの影響か、僕の記憶はだんだんと薄らいで、幸福を感じました。きっと今通っている道も二度と通らないのでしょう。もうすぐエンドロール。達成感でいっぱいになりました。ここまでよく頑張りました。ふわりと宙に舞える程に足取りは軽く、まるで足が溶けているようでした。


 辿り着いたのは✕✕耳鼻科で、受付には係員も含めだれもいませんでした。診察室と書かれた看板の順路通りに、暗い廊下を裸足でひたひたと歩きました。【診察室】と書かれた灰色のドアをドンドンと叩く。

「はい、どうぞ。患者さんですね。ドレドレ、覗いてみようじゃないですか。ホラ、そこに座って」

 センセーの頭についている光は、チョウチンアンコウのようでした。

僕は示された通り、診察台に座りました。大きな椅子で、ラフレシアのようにゴワゴワしていました。僕はくすんだ色のスモッグを着させられました。先生が壁に並んだボタンを押すと、天井が開いて機械の腕が伸びてきました。その腕の先端には頭がすっぽりと入る程の金属の輪がついており、僕はそれを装着させられたかと思うと、それをボルトできつく固定されました。頭蓋骨を削られる音がはっきりと聞こえました。これでもう逃げることも自由に動かすことも出来ません。逃げたりはしませんが。センセーはゴソゴソと何かを用意しています。

「サアサ、シンサツしますからね」

 カチッとスイッチを押す音。ゴーグルを着けたセンセーは僕の耳をライトで照らしました。中に引っ込んでいた触手が反応したのが分かりました。センセーは舐め回すように僕を見ています。そして本当に舐め回されているようなじっとりした空気が部屋に籠もっていました。

「おやおや、大分進行していますねこれは」

センセーは僕の耳をピンセットで拡げました。気付けば両耳それぞれにピンセットを五本ずつ入れられていました。奥に引っ込む触手をほじくり出しています。センセーは独り言をブツブツ言いながら引っ張り出そうとしていたのですが、

「取れませんね。それで、本当に治療していいのかね?」

はい、覚悟は決まっています。と答える。

「大丈夫です。心配することは何も無いのですよ」

 センセーは重いベルトで僕を椅子に固定しました。足も、腕も、首も。目隠しもされたので目の前は真っ暗です。

「この、君の耳をすっぽり覆う位の棒をね。君の耳に叩きつけて、触手を脳ごと摘出します。それで手術は終わります。もう少しですから」

 どうやらその棒は結構重いらしく、持ち上がるのに時間がかかっていました。

「振り子の原理を応用して、お寺の鐘を叩くように助走を付けます」

「ハハハ」

 センセーが笑ったので、

「ハハハ」

 僕も笑い返しました。

「いきますよ」

それからは無音が続いた。

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