紺碧の中で


 ―――エルナさん

 歌うような、澄んだ声がした。

 目の前は真っ暗で、身体はまるで宙に浮いているかのようだ。

 ―――エルナさん、目を開けて

 目を開ける?

 そうか、暗いのは瞼が閉じているからだ。

 エルナはそっと、瞳を開けた。

 目の前に居たのは、空色の瞳の少女だった。

「エルナさん、どうして…」

 ニナは綺麗な白いドレスを身体にまとっているが、裾がふわふわ、まるで波に揺られるようになびいている。

 …いや違う、本当に波に揺られていた。

 ここは紛れもなく海の中だった。

「えっ…なんで…私…」

 エルナは辺りを見回すが、深い紺碧の水が上から下まで広がっていて、妙な浮遊感が全身を包んでいた。

「息が、出来る…水も触れてないみたい…」

 手を動かして見るが、その感触はただ少し水の抵抗を感じるだけで、あとは陸上に居るのと同じ感覚である。

「…私と一緒にいるからですね、きっと」

 エルナの問いに、ニナは答えた。その美しい声で。

 そうなのか、ニナと一緒に居ると…

 て、え?

「ニ、ナさん…声が」

「…」

 困ったように笑うと、ニナはそっと僅かにエルナから身体を離し、美しくお辞儀をした。

「申し遅れました。私、ニナ・クロイア・ハヴフルーと申します」

「ハヴフルー…」

 ニナの言を追いかけるように呟く。

 そうだ、聞いたことがある。

 海の中には美しい人々が居て、それを人間はこう呼んでいた。

「デン・リレ・ハヴフルー……あなた、人魚姫だったのね」

 ニナは小さく頷いた。

 信じられない衝撃の事実だが、何よりも今の現状が、それが嘘ではないと物語っている。

 試しにニナから身体を大きく離してみると、一気に海水が口と鼻を襲って息が出来なくなる。

「エルナさん!」

「…っごほ、ごめんなさい、本当ね」

 人魚であるニナの近くに居れば、息が出来る。

 どんな仕組みなのかは知らないが、それは頭に入れて置かなければならない事実のようだ。

「……なんで、エルナさん、海に……」

 エルナに寄り添いながら、ニナはそう呟く。

 その言葉にエルナは答えを返そうとするが、なぜと問われても自分でもわからないので

「なんでかしらね」

としか答えられない。

 現実に絶望し、救いを見出したアーベルとニナの仲も、実は自分自身が足枷になっていたと知った。

 会いたいと、笑わせたい、笑っていてほしいと、そう思う人とは朝が来ればいつもお別れで、果たして本当に隣国の王子なのかなんて確かめる術もない。

 ただ、この世界に本当の愛があるのだと、知りたかっただけなのに。

「…ニナさん、アーベルさまを海で救けたのはあなたね」

 人魚だと知った今、先程のアーベルの夢の話も合点がいく。人魚ならば嵐の海も、人間よりは動きが取りやすいだろう。

 ニナは、自分の両手を握りしめ、胸にあてて小さく頷いた。

「…あの日、アーベルさまに恋をしました。そして、救けた…」

 ニナは俯いて絞り出すように話す。

「傍に居たかったから…魔女に頼んで人間にしてもらいました。声はその時…代償としました」

 ただ傍に居れるなら声を失っても構わない。

 何となく今のエルナには、その気持ちが判る気がした。

 ただ傍に居られるなら。

 朝が来なくても、ずっと眠り続けたままでも、寝たきりで人間としての生活を捨てても、構わない。

「でも、どうしても陸は身体が重くて、脚もどんどん耐えられなくなっていきました…それに…」

 ニナはちらりとエルナを見て、すぐに目を逸らす。

「エルナさんが、とても素敵な方だったから…」

 そうだ、ニナは勘違いをしていたのだ、エルナとアーベルがきちんとした『夫婦』になるのだと。

「貴女が、ひどい人だったら良かった。そしたらまた違う結末だったかもしれない…」

 ニナが先程から握りしめている手にぎゅ、と力を込めて、その手がより一層白くなる。同時にこぽりと、ひとつだけ気泡が、ゆっくりと生まれて上へ昇っていく。

 きっと、ニナにとってエルナの存在は、心の底から苦しかった筈だ。

「姉たちに、アーベルさまを殺して帰ってこいと言われたんです…」

 ニナの瞳から涙が溢れ、海水に滲んでいく。

 その言葉でエルナは先程蹴飛ばした、不思議な紋様のナイフを思い出した。あれは、アーベルを殺そうと…。

「けど、そんなこと……っ、できなかった……」

 ニナが両手で顔を覆う。その反動か、またひとつふたつと、気泡が生まれていく。

「…エルナさん」

「……」

「アーベルさまを、幸せにしてあげてください」

 顔を隠したまま、ニナがそう、言う。

 泡が、また生まれる。

 ――それは違うわハヴフルー。

 彼を支えられるのは、消して私なんかじゃない。

 ――そして、私を支えてくれるのも、きっと彼じゃない。

「エルナさん、どうか、幸せにな…」

 顔を上げてエルナを見つめたニナの視線が、言葉の途中で急にエルナの後方に切り替わった。

 そして驚愕の表情に変わる。

 え? 思わず後ろを振り返ろうとした瞬間、

「ニナ、それは困る」

そんな台詞と共に、エルナは後ろから強く抱きしめられた。

「お兄様!どうして…」

「ニナ、悪いけどエルナを、あの王子のところに帰すわけにはいかないんだ」

 この声、この腕。

 エルナは息をのんだ。

 焦がれたものに、まさかここで再び触れられるなんて。

「…オ、ト…」

「驚きましたか、エルナ」

 そんなの当たり前である。

 なぜ、オトが、ここに。

 まさかこれは夢? 森が海に変わったのだろうか?

「な、んで……」

「俺の名前は、オト・クラーツ・ハヴフルー…人魚族の第一王子です」

 耳元で聞こえるその言葉に、エルナは開いた口が塞がらない。

 隣国の王子じゃなくて、人魚の王子だった?

 首に回された腕に、そっと自分の手を添える。

 温かい、良く知った腕だ。

「本物…?」

「本物ですよ」

 ぎゅ、と、より強く、抱き締められる。

「やっと、触れられた…」

 そのオトの切なげな声を聞いて、エルナの目から涙が零れた。零れた側から紺碧に溶けだしていく。

「本当に、人魚、なの…」

「本当です」

「…人魚にも、男性が居たのね」

「当たり前でしょう、どうやって子孫残してると思ってるんですか」

「しっ子孫って…」

 後ろから抱きしめられたまま、そんな会話をするもんだから唐突にエルナは恥ずかしくなる。

 でも、もうこの手を離したくない。恥ずかしくても、絶対に、離したくない。

 首に回された腕のシャツを、ぎゅっと強く握る。

 それに反応したのか、オトがエルナの首筋に額を押し付けてきた。エルナの心臓は激しく拍動する。

「ふ、服も、着るのね、人魚って」

 誤魔化すようにそう問うと、オトはその体勢のままクスリと笑って答えてくれる。

「人魚族は流行に敏感なんですよ、色んな国の文化を海から見守ってますからね」

 ちなみに足も、魚なんかじゃなく二本足ですよと、エルナの脚をに自分のそれを巻き付けてきて心臓が更なる早鐘を打つ。

「海底や室内は歩きますからね」

 わかっているのかいないのか、身体の触れ合う密度を高めながら、オトはごちゃごちゃ後ろで言っているが、エルナの頭には入ってきているようでいない。

 ただ、こうしてしっかりと触れ合えている。

 それだけで、溢れる愛しさが涙に変わる。

 しばらくそうして触れ合っていたが、一際大きな泡の弾ける音が響いて、思わずその音のする方へ目を向けた。オトも首を持ち上げたようで髪が頬にあたる。

 目線の先には、少し離れてニナがいた。

 エルナはニナがいることをすっかり忘れて、オトと何やら恥ずかしいやりとりをしてしまったことに気づく。そうだった、今はそれどころでは…――待て、ニナの様子がなんだかおかしい。

「…お兄様、だめです…エルナさんはアーベルさまの…」

 ニナが伸ばしてくる手に、先程よりもたくさんの気泡がへばりついていた。

 というよりかは、ニナの全身から、気泡が次々と生まれているような……。

「ニナ、待て、お前もしかして…」

「もう時間が無いの、お兄様お願い、エルナさんを離して…っ」

 アーベルさま…、と、ニナの声が聞こえた気がしたが、一気に立ちのぼる泡の大群の音で掻き消える。

「待て、ニナ!まさかお前、代償を――」

「きゃ!」

 溢れる泡が、エルナとオトを襲うように弾けた。



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