痛むのは心

 珍しく、出迎えはアーベル1人だった。いつもならアーベルの側には必ずニナが居るはずなのに。

 陽がもうそろそろ傾きかけるという頃、一週間ぶりにエルナは第三王子宅に赴いていた。

 いつものようにノーラの手を借り馬車を降りる。メイドが両開きのドアを開ければ、エルナとアーベルの「形だけの逢瀬」が始まるのだ。

「ごきげんよう、アーベルさま。…ニナさんは今日はいらっしゃらないのですか?」

 出会い頭に気になった事項を訊ねる。

 アーベルは何事もないかのようにあっけらかんとしていた。

「一日中べったりという訳では無いからね、時々彼女は姿を消す」

 まさしく常時べったりなのだと邪推していた事を突かれ、なんとなく萎縮する。

 へぇ、だなんて間の抜けた返事をすると、

「おや、妬いてくださったのですか、マイレディ」

 案の定からかわれた。彼が敬語になるときは大抵からかいを含んだ時だ。

 申し訳なさで俯いていた顔が、恥ずかしさで赤く染まる。やられた、と思うと同時に、これが彼の少しの優しさだということに気付いて悲しくなった。こっちが負い目なんて感じさせる暇を無くす。

 政略婚に少しでも希望を見いだしたくなった自分に、呆れた溜め息が出た。首を振ってそんな考えは押し出す。

「そうですよ」

 エルナの言葉に、アーベルは少し驚いた顔をした。してやったりだわ。

「私だってニナさんと仲良くしたいんですから」

 認めたやきもちの方向は、もちろんアーベルが言った方ではない。

 ニナを探すようにその場を去れば、背中の向こうでアーベルが声を上げて笑うのが聞こえた。

 いい奥さんだ、だなんて、あんたには言われたくないわよ。吐きそうになった恨み言は、死んでも第三王子には言えやしなかった。



 アーベルからは初謁見の日に、すでにこの形だけの結婚についてお願いをされていた。

「突然の婚約で驚いているだろうし、この邸宅内の様子を見て軽蔑もしているだろうと思う」

 挨拶もほどほどに発された言葉は忌憚ない言葉だった。

「…僕には、どうしても守ってやりたい子がいてね。ただ立場上、公にすることが出来ない」

 アーベルの表情は苦悶に満ちたもので、心からエルナに対し申し訳なさを含んでいるように見えた。

「…殿下、発言をお許しいただけますか」

「もちろんだよエルナ嬢、何でも気兼ねなく発してくれ。それと、ここではアーベルで良い」

 王子然とした言動に、エルナは逆に一気に緊張をほどいて頷く。

「つまりアーベルさまは、その子との関係の隠れ蓑として、私を輿入れさせたということですか?」

 思ったより素が出てしまったが少しだけ許してほしい。

 一瞬アーベルが傷ついたような顔をした。待て待て傷ついてるのはこっちだとエルナは半眼する。

「歯に衣着せずに言うと…そうだな」

 認めたよ。エルナは少し目を見開いた。

「ただこれだけは誓う。君を妻として最大限尊重はする。不自由もさせない。人間として君を愛する、絶対に」

 アーベルは今度は王子らしくなくエルナに頭を下げた。一瞬エルナは戸惑ったが、この部屋には二人以外誰もいない上、その行為でアーベルの気が少しでも楽になるならまあいいかと、止めることはせずただただ嘆息した。

「でも、女性として愛するのはあのニナさんという少女、ということですね」

 アーベルは何も言わずこうべを垂れたままだが、その無言が彼の本気を裏付けていた。

 所詮、貴族の結婚なんて、何処かしら政略的思惑があるのは判っていた。貴族の家に生まれたからにはその覚悟はもちろん出来ていたし、何ならたかがいち男爵家の娘が王太子妃になるだなんて家にとっては最高レベルの光栄であることも良く理解している。

「…大丈夫ですよ、アーベルさま。私は覚悟を以てお受けしたのです。お飾りの妻であろうと、光栄なことでございますわ」

 哀しみが全くないわけではない。もしかするとだなんて甘い夢を見ていた瞬間もないわけではない。だが現実はいつだって無情だということも知っていた。

 だから、こんな状況をエルナは主体的に受け入れたのだ。



 エルナは出会った時のことを思い返しながら、先ほどアーベルに投げた言葉の通り、件の少女を探していた。

 いつも見かけていた部屋にニナの姿は無い。もしや裏庭にでも居るのだろうか。

 裏庭ではたくさんの草花が剪定されていて、その庭の奥側で邸宅をぐるっと囲んだ壁の向こう側からは波の音が聞こえてくる。この邸宅は切り立った崖の上に建っているため、壁を乗り越えると眼下には夕焼けで赤く染まった北海が広がっている。

 エルナはニナを探しながら、今度は夢の中の青年・オトについて思いを馳せた。先程のちょっとからかった様子のアーベルと、やはり少し似ている。

 顔が似ているのではなく、雰囲気と言葉の選び方がそっくりなのだ。

 エルナがニナを探す体でアーベルと離れたのも、前回の夢で妙な別れ方をしたオトを思い出してしまったから、というのも理由のひとつだった。

 裏庭をきょろきょろしながら歩いていると、その奥の奥、まだ花の咲いていない木の横に、小さくしゃがみこんだニナの背中をようやく見つける。

 頭からオトの存在を掻き消して、エルナはそっと近付いた。

「ニナさん?」

 突然の呼び掛けに驚いて、ニナは肩を震わせた。

 驚くほど蒼白な顔がゆっくりと振り返って、逆にこちらが肝を冷やしてしまう。

「ど、どうしたの…?」

 よくよく見れば足を両手で押さえていて、その様子から足を痛めたのだと気付く。無言でその手を外して見たが、腫れてもいないし青くもなっていない。

「痛いの?大丈夫?ひねったのかしら」

 聞いてもニナは首を横に振るばかりだ。ひねった訳ではないのなら、成長期の及ぼす関節痛の可能性も脳裏に浮かべる。彼女は15歳だ。これから背も伸びて、綺麗になるに違いない容姿でもある。

「アーベルさま、呼んでこようか?」

 咄嗟に思い付き、最善の選択だとエルナはそう提案したが、しかしニナは頑なに首を横に振った。

「え、いいの?」

 次は縦に振る。

 そこでエルナは先程のアーベルの言葉を唐突に思い出す。時々彼女は姿を消す。彼はそう言っていた、ということは。

「もしかして持病とか? 我慢、してるの?」

 その質問には、彼女は鈍い反応だった。それで図星なのだと理解する。

 その顔色を見ればわかる。取り繕えないほどの痛みなのだろう。

 この家でニナが一番信用しているのは、事情に疎いエルナにも一目瞭然でアーベルだった。それでもニナは、自分の苦痛をアーベルには言わない。

 それは「言えない」ではなく「言わない」なのだ。

 その真意は当然、「心配させたくない」「迷惑を掛けたくない」だろう。

 そんな風に、誰かを想って何かを耐える覚悟を、エルナはまだ知らない。

「そっか、…判った」

 その言葉で、ニナの表情は一気に安堵に変わる。それでも蒼白なのは変わらない。

「その代わり、私が居るときはいつでも頼って」

 何も出来ないかも知れないけど。

 ささやかに付け加えたそれに、ニナははにかんだような笑みをエルナに向けた。

 確かに傍から見れば恋敵なのかもしれない。けれど、どうしてもエルナにはこの健気な少女を嫌うことが出来なかった。


 夜が確実に更けて行く中、エルナはまだ第三王子の邸宅に居た。

 アーベル宅の執事には友人のニナと話がしたいと伝え、ノーラには野暮だから探るなとかなり濁した。ノーラから報告が行き、父親はもはや大喜びだろう、心配することはない。

 本音は、ニナとおしゃべりすれば眠る時間を遅く出来る、と思い至ったからである。

 例の夢は、いつもエルナが第三王子宅を訪問した夜に見ると決まっていた。

 前回夢を見てから一週間ほど訪問も控えていたのでオトに会うことも無かったが、今夜眠ってしまえば、きっとまたあの森だ。

 気まずさが先に立つのはこちらに負い目があるからである。

 今更額にキスされたからって、平手打ちはないだろう、初心な少女でもあるまいしと、自分でも思い返せば恥ずかしくなる。

 それでも過去は消せない訳で、だからエルナは諦め悪く執行猶予を伸ばしていた。

 ニナの部屋と化した客室のバルコニーから、エルナは一人眼下の海を見ていた。

 直下には裏庭が見える。

 ニナは先程までベッドに腰掛けエルナの話に嬉しそうに耳を傾けていたのだが、うっかり話の合間でぼーっとしていたエルナは、心ここに在らず状態から戻って来てはっと気付く。

 振り返ればニナの頭はしっかりと項垂れていた。

「ニナさん、ごめん、眠くなっちゃった?」

 先程までアーベルへの想いをひたすら一方的に問い詰めていたが(ニナは困惑しながらも素直に反応してくれる)、さすがに付き合わせ過ぎたようだ。とうとう船を漕ぎ出していたニナに申し訳ない気持ちが今更湧く。

「ごめんなさい、こんなに付き合わせてしまって」

 そろそろタイムアップだろう、自分も眠気を感じて、ニナに何度も謝罪しながらその客室を出る。

 エルナの客室はニナのそれの向かい側に誂えてもらった。夢に旅立つ覚悟を決めて、自分の客室のドアノブに手をかける。

 しかしその隙を狙ったように、廊下の先から聞き慣れた声がエルナを止めた。

「パジャマパーティーはお開きですか」

 誰かなんて、確認しなくても判る。

 こんなからかいの含まれた声を発する人など、現実には一人だけだ。

「…少し夜更かししてしまいましたわ」

 自分に宛がわれた客室のドアを開けながら答える。

 早く去ってくれ、という無言の主張だ。

「おや、今夜は僕と一夜を共にしたいと聞いていたけど」

 うっかり前のめりに倒れそうな程動揺してしまった。

 そこでそれを引っ張り出すのもどうなのか、全く信じてもいないくせに。

「…アーベルさま」

「冗談だよ」

 当たり前だ。

 王子はゆっくりこちらに近寄って、まずニナの客室をノックした。そっとドアを開けて二言三言何かを言うと、さらりと閉めてエルナに向き直る。

「おやすみ、良い夢を」

 手を取り軽く口付けてくるが、ニナに会いに来たことが明白なだけにエルナの心は萎む。颯爽と去ってゆく背中は一流の身のこなしで結局文句も何も言えやしない。

 さっさと寝てしまえと半ば自暴自棄になったエルナは、客室に入るなり溜め息と一緒にドアを閉めた。




*****



 森の中では頬を押さえたオトが憮然と立ち尽くしていた。

「こんばんは、エルナ嬢」

「こんばんは、ミスター」

 気まずいとは思っていたが、まさかここまで不機嫌を引きずっているとは。

 苦笑いで挨拶を返すと、つかつかと無遠慮に近寄って来る。オトは当然のようにエルナの手を取り、ワルツの体勢を整えた。

「頬、二日は痛かったですよ」

 踊りながら責められるのは、なまじ距離が近いだけにいたたまれない。

「ごめんなさい…」

「赤くもなったし」

「返す言葉も…」

「瞬間消えるし」

「それは私も驚きで」

「やり逃げですか、ずるいひとですねぇ」

「い、一応、不可抗力で…」

「お詫びに口づけ、はい」

「はい……って、え!?」

 恐縮モードに入ったせいで、咄嗟に言葉が理解出来なかった。

 目の前ではオトが、平手打ちを食らった側の頬を突き出している。

「口づけ、お詫びに下さい」

「なな何言ってるのよっ」

 思わず敬語も無くし必死でエルナは顔を逸らすが、オトは頬でそれを追いかける。

 しばらく読んで字のごとく押し問答が続いたが、結局はオトが降りてその話は終息した。

「まぁ、額に口づけされただけでああです。頬にするだなんて、今度は往復でもされかねない、我慢しましょう」

 なんだその折れ処は。不本意な言い分に膨れながらも、あながち間違いでも無いので言い返せない。

「それよりも、」

 ぎゅ、と腰に回された手が少し強くなる。

「今日は来ないかと思っていました」

 そう言った瞳は何故か曇っていた。

「まぁ…本当はよっぽど眠らないで居ようかと思いましたけ」

「今夜は、王子と一夜を共にするおつもりなのかと」

 恨み言を言おうとした口が、開いたまま止まった。

「…え…」

 自然とワルツの足も止まる。

 王子って、アーベルのことだろうか。何故オトが、夢の中のオトが、現実のエルナの許嫁を知っているのだ。

「知っていますよ、王子のことも、…あなたが王子に見せる姿も、」

「見せる、姿…?」

「王子の前では、おとなしく振る舞って、そんな態度じゃまるで媚びてるみたいだ。あなたには似合わない」

 ひどい言われように閉口する。

 いやいや私の何を知ってるの、どこまで知ってるの、

 あなたは、何者なの

「知っていますよ。政略結婚の分際で、淡い希望をまだ抱いていることも」

 その言葉に、―――何かが切れた。

「あっ…あなたに関係無いじゃない!」

 こんな至近距離で怒鳴るのも馬鹿げている。だけどもう止まれなかった。

「所詮道具みたいなもんだって割り切ったって、そんなの無理に決まってるわ!…私だって、夢くらい、」

 だめだ、

 そう思った時には既に涙腺は決壊していた。

「…俺と王子が似てるだなんて、あなたがそんな残酷な事言うからだ」

「…え…?」

 自分の嗚咽に紛れて聞こえなかったその呟きを、もう一度聞き直そうとしたけれど上手く流された。

「王子を俺だと思えばいいんですよ。王族で年も一緒だ、あなただって似てると言ったでしょう。俺だと思ってあの第三王子に、そのあけすけな態度で接してみればいい」

 冷たく浴びせられた言葉に思考が止まる。何故そこまで言われているのかも判らなくて、ただただしょっぱい水が目から溢れ出ていた。

 しかし、何か重要な情報が提示された気がして、数瞬ののちふと冷静になる。

 ゆっくりと、たった今吐かれた台詞を思い返す。

「…王族で、年も一緒…?」

 エルナが呟くと、オトの表情は明らかに「しまった」ものになった。

 つまりオトも、「19歳の王子」だということ…?

「あなた…も、王子、なの…?」

 腰に回された腕はいっそう力強く、繋いだ手もしっかりと握られた。

 必要以上に密着して、今更ながら心拍数は急上昇する。

「…だから、言いたくなかったんだ」

「い、言いたくなかったって…何を…」

「…あなたがあの王子に愛を求めているなら、それは無駄なことです」

 近かった距離が、より近付いてきた。

 オトの空色の目がぐんぐん迫って、呼吸すら感じる程に…

 ―――気付けばエルナは、全身の力を込めてオトを突き飛ばしていた。

「あっあなたは、確かにアーベルさまに似てるけどっ」

 また暴走している、冷静な意識が俯瞰で見ているが心と口は止まれない。

「彼の方が優しくて…好きだわ…っ」

 言ってから後悔した。

 オトの表情を見てしまったから。

 何でそんな、傷付いたみたいな顔、


 オトの姿がだんだん遠くなって白く濁る。

 また夜が明けるのだとなんとなく理解した。


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