第904話 思い通りにならない

「エスピラ様。ご決断を」


 髪をかき上げるように額に手を移し、それから鼻の頭に人差し指の付け根がくるまで下ろす。


「少しだけ、時間をくれ」


 此処にいてくれて構わない。すぐに戻る。

 そう言い残し、エスピラは一度席を発った。


 さほどマシディリのためにもならないわがままだとは理解している。マシディリを想い、べルティーナを想い、ラエテルを想い。メルアも喜ぶ部分はあるだろう。

 同時に、まだ幼いラエテル以外はエスピラの考えに不服なところもあるはずだ。ラエテルも成長すればどう思うのか。


 マシディリの遠征が成功すれば、間違いなく。


 ウェラテヌスは、押しも押されもせぬアレッシア第一の家門となるのだから。


(わがままか)


 アグニッシモに申し訳ないことをさせた気質は、私のモノだな、と自嘲して。

 近づいてくる足音に目を向けた。


「エスピラ様」

 膝を着いたのはジャンパオロ。


「余計なことかもしれませんが、ヴィンド様が生きておられれば事はもっと簡単に運んだのでしょう。いえ。それどころか此処での決定を元老院での決定とし、その実績を積み重ねてエスピラ様に権力を集中させることも出来たのかもしれません」


 私にそのような力があれば。

 そう言っているようにも感じられ。


「かもな」

 エスピラは軽く言い、肩に手を置いた。


「でも、故人は越えられない。もう想像の中にしかいないからね。ヴィンドはヴィンド。ジャンパオロはジャンパオロだ。ヴィンドには先遣隊を任せる決断は下せないが、ジャンパオロになら頼める。たぶんルカッチャーノも着いてくるが、マシディリを頼んだぞ」


 言葉にしてしまえば、もう決定だ。

 短く息を吐き、新鮮な空気に入れ替える。


「さあ。行こうか」

 力強いまなざしと共に室内に戻り。


 ただ、元老院では、『これまでの作戦通り』である相手の力を削り一気に片を付ける戦略を提案するところから始めることに取り決めた。


 先んじて招集をかけ、正式な伝令が来る前に五門の裁量権分割案を通す。それから、正式な伝令が到着した。


 詳報が分かるまでは軍団の招集準備と祈祷に当てる。

 ただし、最高神祇官であるエスピラは一足早く知っていたので手際よく祈祷を行えた。追悼も決意表明も同様に。


 それこそ、アスピデアウス派よりも本気を感じられると噂されるほどだ。


 ただ、思い通りに行かないのはエスピラも同じこと。

 最善手として用意していたエリポスまで引き込む戦術も、敵の疲弊を待つ手も強くは主張できないのだ。


 エリポスからの反発が、と言う意見に対してはそもそも想定内。イペロス・タラッティアの交通上の優位性を捨てるよりは堅守する方が、四方を囲まれる形で籠城されると兵の士気が、と言う点についても第二軍団への信頼から説き伏せられる自信はあった。


 最悪なのは、あまりにもイパリオンが鮮やかに勝ってしまったこと。

 そして、撤退戦で発揮されたティツィアーノの腕もまた現地で称賛されていると言うこと。


 前者については、エスピラが東方に作ったイパリオンの入口への拠点ボワーバゲチトに残って抵抗しているアレッシア兵がいるかどうかが不明なのだ。ボワーバゲチトに至る道は使われているらしいので厳しい状況に変わりは無い。イパリオンとしても陥落させたいだろう。


 だが、イパリオンの主力は騎兵。歩兵を使うなら東方諸部族から巻き上げる必要がある。

 そう考えるに、今も助けが来ると信じて夜を過ごしている可能性が高いのだ。


 それを見捨てることはできない。


 後者、ティツィアーノについては敗残兵が「ティツィアーノ様の下で反撃を」と息巻いているのである。当然、彼らは元老院の状況は知らない。エスピラの練った戦略を新たに聞いても耳を貸さないだろう。むしろ下らない政争からと考えかねないのである。


 それに、ティツィアーノが左目を失ったのは撤退中の反転攻勢でとのことだ。ユクルセーダからの話では、その攻撃でイパリオンにある二派の内、マルハイマナを撃破した若い派閥の二番手と三番手を城門に飾ることに成功したらしい。


 一転攻勢に移れなかったのは、ティツィアーノも深手を負ったことと単純な兵力不足。しかし、その底力は一部の東方諸部族をアレッシアに留めておくことに役立ったのだ。


 だからこそ、アレッシアは援軍を送らざるを得ないのである。


(詳報が分かるにつれ)


 即座に援軍を送るしかなくなってくる。

 しかも、熱狂は第二軍団にも確実に伝播しているのだから。


 左目を失ったのは、正確には三番手を殺した後で。それでも止まらず、ティツィアーノはそのまま頭目に迫り、守りに入った二番手をその手で殺したのだとはスクトゥムからの手紙で聞いている。文字の乱れや大きさ、間隔からも熱狂は十分に伝わってきた。


(二派の天秤が戻った、か)


 削る形で、だったことを幸運に思うしかない、と切り替える。


 息を吐きだした先では、激論を交わしていたルカッチャーノとサルトゥーラが互いに一歩離れたところだった。エスピラ側も最初はカンクロ、反対派もクニクルスから始まった論戦は、首魁の一歩手前で何とか結論までたどり着いてくれたのである。


「当人にその意思があるのかを確認したいのですが、よろしいですね?」


 サルトゥーラがエスピラに向けて言って来た。


「構わないよ」


 マシディリを呼んできてくれ。奴隷に、そう告げる。


 何故サルトゥーラがマシディリの召喚を求めたのか。

 それは、マシディリが形式上であれ遠慮の姿勢を見せれば、それに乗じるためだ。認めてもマシディリ自身が慣例破りを望んだと言う状態を作り、元老院全体が後ろ盾になったわけでは無いと言うためでもある。


 それを理解しているからか、ルカッチャーノは油断なく顎を引いたまま最善列に腰を落ち着けていた。開始から最前列にいたジャンパオロも指を組んだ状態でじっと目を閉じている。その横に、いつも後方に座っているアダットが移動した。


 息子の危機。


 一番難しいのは、サジェッツァか。


 監察官として元老院議員を残しすぎれば、援軍の到着が遅れかねない。

 監察官として元老院議員を飛ばし過ぎれば、余計な反感から弱い軍団が編成されかねない。


 なるほど。

 思うに、サルトゥーラは優秀な二番手だ。

 絶対にサジェッツァを引っ張り出させないと言う強い意志があり、実行できるだけの力があり、嫌われ役だと知っていても突き進めるだけの強さがある。


(もっと早くに知っていればなあ)


 それでも、その頃はまだ公私ともにサジェッツァと仲が良かったから、同じようにアスピデアウスに組み込まれるだけか、とも思いつつ。


「マシディリ様が到着されました」


 シニストラが入場を許可する旨を宣言する。


 伝令が礼を取り下がった。少し遅れて愛息が堂々と入ってくる。アルビタが木の束ファスケス持った護衛として。もう一人、ヴィルフェットも秘書のような立場で入ってきた。


 春先から議長に任じられたヌンツィオがマシディリに経緯を改めて説明する。


 随分な老齢であり、武と違い文に於いては特段優れた業績は無いがそれでも代えの聞かない優秀な人材だ。明確にサジェッツァやエスピラのどちらかについている訳でも無いのも良い。むしろ、格で言えば同じだ。


 少なくとも、エスピラはそう思っているからこそ議長に推薦したのである。


 そのヌンツィオが説明を終えた。

 マシディリも、自身を援軍を率いるための軍事命令権保有者にと言う議論になっていることは聞いているだろう。誰かから漏れていても不思議ではないし、議論の経過をかいつまんで説明されている可能性も高い。


 質問が無かった理由はそのあたりだろう。


 ヌンツィオに説明の礼をとったマシディリが、そのままヌンツィオを見据えながら、口を開く。


「エスヴァンネ様は妻を可愛がってくださっていたこともあり、個人的に親しくしておりました。生き残った者、残念ながら帰ってこられなかった者。いずれにせよ、軍団兵とも親交を結ばせてもらっております。


 何より、期待に応えずしてどうしてウェラテヌスの父祖に顔を向けられましょうか。


 その命、謹んで拝命する所存でございます。

 ですが、一つ」


 一拍、マシディリが区切った。

 注意がより一層マシディリに集まる。

 マシディリに、硬くなった様子は無い。


「私の懸念を元老院が解消してくだされば、と言う条件を付けさせていただきます」


 マシディリに、一切の臆した様子も無かった。

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