第3話 2004年6月 ③


 僕が閉鎖病棟でまずい昼飯を食っている間、家族たちは女医から今の状態を説明されていた。


「幸助くんは境界性人格障害です」


 結衣と数カ月間、深夜までケンカしていたこと、自傷行為、自殺をほのめかす……などの話を聞いただけでその医師は一発で診断名をくだした。


 今思えば、早すぎる決断だったと思う。


 慎重で精神障害に詳しい医師ならば、もう少し時間をかけて診断するはずだ。


 別にやぶ医者だと言いたいわけではないが、僕にあった当日で下すのはどうかと思う。


 お袋は聞きなれない病名に困惑し、また普段はいい子だった僕が結衣と付き合ってから豹変したことに「憑りつかれたようだった」と表現したらしい。

 だから

「息子は精神分裂病ではないのですか?」

 と疑ったらしい。

 今でいう統合失調症のことだ。


 医師はそれはないと断言し、

「幸助くんの場合は恋愛から発症した境界性人格障害です」

 

 つまり結衣という大切な恋人を失ってしまうという自信のなさ、見捨てられ不安などから症状が悪化し、境界性人格障害になったと説明されたのだ。


 この説明の時は結衣はいなかったらしい。


 ただ結衣とも面談した医師はこう言った。


「あなた、幸助くんによく耐えられたわね。すごいわよ」


 この言葉で結衣は救われたという。


 これは何年も経って聞いた言葉だったが、僕からしたら人格否定そのものだった。

 確かに結衣をなんども暴言を吐き、泣かせたことは事実だ。

 だがそこに至るまでのプロセスを医師はしらない。


 どれだけ苦しい思いをしたのかも知らない。


 未だに誰もわかってもらえないことだが、そもそも僕が壊れた理由は一年前にさかのぼる。


 結衣と付き合うまで僕は誰とも付き合ったことがなかった。

 もちろん結衣もだ。

 お互いに恋愛に不慣れで、また家庭環境も複雑で人とのコミュニケーションが苦手だった。


 高校の入学式で結衣を見かけてからずっと片思いだった。

 それを結衣は知るわけはないのだが。


 卒業する前に僕は結衣に振り向いてほしいためにルックスを一から変えていき、当時の流行りのファッションや髪型にした。

 

 すると結衣が振り向きだしてくれた。

 それでも僕はまだ結衣に告白する勇気がなかった。

 

 男友達からも「幸助、最近輝いているな」と言われるぐらいで、今まで話さなかった人とも交流する機会が増えた。

 それは男だけでなく、女もだ。


 一人の後輩の女子に積極的にアタックされ、僕はどうしていいかわからず、その子と付き合うことを承諾してしまった。

 結衣のことが好きだったけど、僕は自信がなかったので、半ば諦めていたこともある。

 だがどうしても結衣のことが忘れることができず、一週間でその子を振った。


 僕の人生で最大の汚点だった。

 自分のことを好いてくれる女の子を傷つけるのが怖くて、一度は「付き合う」といったのに、更に追い打ちをかけてしまったのだから。


 また良くないことにその後輩は結衣と仲が良かった。

 そのため、僕はその子が結衣にバラすのでは? とひやひやしていた。

 僕が彼女を振って以来、彼女は高校にあまり姿を見せなくなった。

 当然、責任を感じていた。


 その間、僕は自分自身をだましだまし一日を過ごしていた。

 心が、良心が壊れかけていた。


 それから時は少し経って、卒業間近で僕は結衣と仲良くすることができ、有頂天だった。

 でも、振った後輩の子のことは忘れてない。罪悪感で押しつぶされそう。


 友達以上彼女未満のとき、卒業旅行にいくことになった。

 と言っても男は僕だけあとは女生徒のみ。

 その中に例の後輩の子もいて、僕は怖かった。


 結衣とは数回デートし、あともう少しで告白する寸前だった。

 そんな中、ある晩、大学のサークルの飲み会に参加していると結衣からメールが来た。


『幸助とあの子との一連のことを知っているんだけど……』


 僕は心底、震えあがった。


『だから旅行中は私たちは他人のふりをしよう』


 そう提案された。


 結衣は元々、気の強い一面がある。

 だがそれは僕にだけだ。 

 他者には平和を求め、時には自分を捨ててまで周囲の人々と関係を維持する。

 金を使ったり、物を贈ったり、貢ぐといったほうが早い。


 僕にもそういう一面がある。

 これは人とのコミュニケーションが下手くそだから、物で人を釣っているにすぎない。

 だからお互いに上辺だけの関係で本音を話せないのが僕たちだ。


 結衣は後輩の女の子のことは直接聞いたわけではなく、後輩が相談していた友達から間接的に聞いたという。

 ようはまた聞きで、当事者である僕とその子の関係性はちゃんとは知らない。


 僕はとにかく結衣にそのことを知られたのがショックだった。

 墓場まで持っていきたい自分の罪だったから。


 当然、反論した。

 これから付き合うのだからいずれバレるだろうと。

「それはおかしいよ、結衣」

 すると結衣は激怒する。

「なんで? あの子が知ったら傷つくんだよ?」

 それを聞いたとき、僕は天秤にかけられたと思った。

 つまり結衣は恋人になろうとしている僕よりそんなに仲の良くない友人をとったと思ったからだ。


 二重苦だ。

 そう思った。


 ひびの入った壊れかけのハートが音を立てて割れていく感覚を覚えた。


 あとのまつりだ。

 旅行中は結衣に無視され、女子たちはもちろん一連の話はバレていて、それを知らないのは結衣だけだった。

 僕だけハブられた。

 旅行先は沖縄。

 無人島にいったが、僕は一人で海を見ていた。

 あの日の冷たい潮風とやけに透き通った海を忘れない。


 それが僕の発症した日だ。

 

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