第八話の8

 なぜ、こんなにも自分は弱いのか。敬愛すべき家父を見殺しにして、生き残った里の人間たちを見捨て、今ひとりで逃げ出している。幼くして里一番の戦士と呼ばれ、次期家父と認められ、獣を狩り、里を守り、英霊アキノバに見いだされ神獣と闘う試練を与えられ。それがこの体たらくだった。

 そう、全ては神獣だとイャノバは空を睨めつけた。あの神獣が里を焼いたから、里を捨てて逃げなければならなくなってしまった。ただそれだけのためにみんな死ぬことになってしまった。

 それはなぜか? 自分が、弱かったからだ。

 イャノバの吐く吐息は今、火炎の如き熱を持っていた。

 ウボクもイャソクも、死ぬことはなかった。自分がもっと強ければ、逃げ出すようなやつでさえなければ、全ての理不尽を平らげるような力を持っていれば。

 ウタカはその夜、目を覚ました。雨はやんでいて、風だけがあった。イャノバは燃えるような熱気に包まれ、その目ははるか遠くの浜の里を見ているのだと、ウタカは気付いた。イャノバの尊厳は深く傷つき、自らの存在の確たるものを失い、今彼が立ち直るためにはもう一度神獣と闘う必要があるのだと。

 イャノバはウタカに多くを語らなかった。ウタカもイャノバに聞くことはなかった。ふたりは静かに森を過ぎ去り、二日後には浜の里があるところまで戻って来た。

 森は広く焼かれ、もぎ木のように炭化した立ち木がそこかしこにあった。白い巨人と神獣はなお戦い続けながら少しずつ移動していたが、森の残骸をたどって行けば自ずと二体の争う戦場へたどり着くことができた。

 イャノバはウタカを置いて、その戦いの中に入っていった。やがてアキノバが彼に気づき、折を見て現界を解くと、イャノバはその小さな人形に――自分と同じ形の傷が頬に入っている人形に言った。

「おれにもう一度戦わせてくれ」




 レッドカイザーは突然帰ってきたイャノバに驚き、ハンバスの攻撃をわざと身に受けて吹き飛ばされながら、距離を離し現界を解いた。

『なぜ、帰ってきた』

 レッドカイザーは答えが分かっていた。それ以外に、イャノバが帰ってくる理由などなかった。イャノバは怪我などは一つもないように見えたが、明らかに普通の状態ではなかった。里の人間から離れ、ひとりで帰ってきたということが何を意味するのか。

「おれは里で一番の戦士だった。大人の戦士が何人もかかって狩るような野獣をひとりで狩ったことがあるし、里を襲ってくる別の里の戦士も、哨戒中に何人も見つけて返り討ちにしたことがあった。おれのもとにアキノバが来て、嬉しかった。おれは選ばれたんだと、認められたんだと思った。だけど、おれにはそんな資格はなかったんだ……おれは、弱かった。神獣の攻撃に耐えられずに、逃げ出した。逃げた先で蛮族どもに襲われて、おれはまた逃げ出した!」

 イャノバはしゃがれた声で言いながら、涙を止めることができないようだった。

「アキノバ、おれはもう逃げない。だから頼む、もう一度おれに闘う力を貸してくれ! あいつにもう一度だけ、立ち向かわせてくれ。そうじゃないと、おれは、もう……」

 レッドカイザーはじっと聞いていた。イャノバの願いは最もだった。物質界の戦士でありながら、守るべきものを守れなかったのだから、そのような激情を抱くことにはなんの不思議もなかった。力に誇りを持ちながら、ついに敗北を喫した戦士が挽回するのに、それは必要な儀式であるとレッドカイザーは理解していた。

 ただ、その上で迷っていた。

 ハンバスに勝つには、炎の力を使うしかない。炎を降ろしてしまえば、ハンバスにはこの下位世界を守ろうと奮闘する戦士の正体がレッドカイザーだと間違いなく露見されてしまう。エーテル界が下位世界侵攻に踏み切ったのは、王ヴルゥが割れつつあるエーテル生命の志を一つにするためだ。そこに旧王、かつて宇宙を灼き尽くし一つに平定した真の統一者であるレッドカイザーが界面下で反旗を翻していたとなれば、エーテル宇宙は確実に分断されてしまう。ヴルゥ派と、レッドカイザー派に。

 だが、イャノバの願いを聞かないという選択肢も、レッドカイザーに捨てきれなかった。彼はたしかに大切なものを失い、今自らの尊厳を取り戻そうとしていて、自分にはそれが可能なのだ。ここまで来るのに、どれほどの困難があったのか。葛藤があったのか。後悔と絶望の中を通って戦場に戻ってきた有限なる生命の戦士の懇願なのだ。

『今度こそ、死ぬかも知れんぞ』

「いい。逃げるくらいなら、おれはここで死ぬ」

 レッドカイザーはエーテル界と物質界、二つの宇宙の均衡のために闘うと決めた。しかし、ついにこの小さな戦士の願いを蔑ろにすることはできなかった。

 エーテル界にある己の炎が、この戦士の覚悟を望んでいたように猛った。宇宙を灼く強大な力の奔流、その本質をイャノバの中に見出したように。

 イャノバは人形を持ち上げた。目をつむり、その時を待つ。

 覚悟がいるのは、レッドカイザーの方だった。それも、じきに固まった。

 レッドカイザーは炎を降ろした。それがこの物質界を灼いてしまわないよう、器の力も同時に降ろし鎧のように纏う。イャノバと人形の質量に流し込めるエーテルの総量は変わりないはずだった。それでも、エーテル界で最も強力なエーテルはイャノバの意識を焼失させ、その存在根拠たるものを喰らい尽くしていく。力はかつてないほど漲り、この星の二つある月まで容易に焼滅させられるだろうと直感した。

 今、炎の巨人がゆらりと大地に立ち上がった。人形の炎が白い鎧を纏ったような姿で、わずかな“器”のエーテルで無理やり抑えつけた炎が時折関節から溢れ出る。

 見るもの全てが己を灰へ変えると確信する力の化身を前に、ハンバスは立ち尽くした。

『れ、レッドカイザーさま……なぜ……』

 レッドカイザーはしばらく無言だった。肘や膝から伸びる炎が長く尾を引き、天へ届こうとしている。大きく、緩やかに炎は伸び上がり、その力の真価が開放される瞬間を――対峙するもの、目に見えるものすべてを灼き尽くすときを静かに待っていた。

(ハンバス、すまない)

 心の中で謝罪しながら、かつて共に戦った戦士に力の一端を向けることをして、自らの過ちを自ら断罪しようとレッドカイザーは決めた。体面など気にせず、ヴルゥに忠告すべきだったと。せめて将軍たちには、自分が何をしているのかを知らせるべきだったと。そのためにイャノバは、愛すべきものを失ってしまったのだ。

 これは自分への罰のつもりだった。

 だから、レッドカイザーはこう言おうとした。

 私はアキノバだ。来い、戦士よ――と。

『私は、アキノバだ――』

 そう言った途端、レッドカイザーは自分の中の何かが崩れていくのを感じた。静かにうつろっていた炎が乱れて狂う。

 そこに、なにかがあった。自分がはるかな昔に忘れたものだ。炎はそれを覚えている。あるいは、レッドカイザーから灼き消してしまったのだ。レッドカイザーは胸を抑え、自分の正体を見据えようとした。どこまでも深い闇の中に手探りで、形あるものを見つけようと腕を伸ばす。

 分からない、なんだ? これは。私は、レッドカイザーでは……れっど、かいざ……? それは、私ではない、だれか、べつの……。いや、違う、違う!

『レッドカイザーさま!』

『来るな!』

 レッドカイザーはハンバスに手を向けて制した。炎が手のひらに集まっていき、巨大な火球が今にもハンバスを撃ち貫こうとする。ハンバスが臨戦態勢をとったところで、レッドカイザーは火球を握りつぶした。

『レッドカイザーさま』

『帰れ。帰るのだ』

 レッドカイザーは力なくそう言って、炎をエーテル界へ戻し始めた。炎の巨人は力なく腕を垂れ、立ち尽くし、徐々にその体が小さく細く痩せていく。

 ハンバスは混乱のうちに、しかし命じられたまま自らのエーテルを上位世界へ戻し始めた。神獣の巨体が土塊へと変わっていき、自重に崩れて焼かれた森のあとに丘を作り出した。

 レッドカイザーは人形に戻り、傍らにはイャノバが横たわっていた。生きているが、目覚めることはない。その意識は炎の力によって灼き尽くされてしまったのだ。その命を貰い受けながら、結果的にハンバスを倒すことすらできなかった。レッドカイザーは申し訳なく思うと同時に、それどころではない考えで心がいっぱいだった。

 私は、何者なのか。アキノバとは何なのか。

 しばらくすると、ウタカが走ってきた。

「イャノバ!」

 ウタカが一緒だったのかとレッドカイザーが思う前で、ウタカはイャノバの頭を抱きかかえた。

 イャノバの目がゆっくりと開かれていく。

(なにっ)

 ウタカはイャノバの名前を何度も呼んで、彼をきつく抱擁した。イャノバも、体に力が戻ると同じ用にし返した。そのイャノバの中に、炎が見えた。レッドカイザーの、上位世界の、始まりの炎が、火種のように小さく燃えている。それは命の炎に見え、少年を脅かす破滅の前兆にも見えた。

 違う。私ではないのだ。

 レッドカイザーは思い至った。

 この炎の正体こそが、最も知らねばならないことなのだ、と。

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