第八話の6

 イャノバはひとりで歩きはじめた。オルカムはイャノバを乗せていた巨大な葉を捨てず、丸めてたたみ脇に抱えた。だいぶ擦れてしまったが、腐るにはまだ時間がかかるはずだった。これから先負傷者が出ればそれで運ぶことができる。浜の里は輸送手段が乏しい。人にしろ物にしろ、運ぶことを効率化しては来なかった。里の創立当時は異邦人アキノバの知恵によって簡単な荷車のようなものが作られ、その製法は巫女や里長が代々受け継いだものの、里全体には片手で数えられるほどしかなかった。それまではその数で十分だったし、大義なくして森の木を刈ることは禁止されていたからだった。

 イャノバは与えられた短槍を三本目の足にして泥を歩いた。体が奇妙に重かったが、ウタカが歩くのを手伝うと言ったのは断っていた。

 醜く踏みにじられぬかるんだ地面に目を落としていると、水たまりに自分の顔が写った。イャノバはそこに槍の柄底を突き入れ、踏みつけた。ぽたぽたと髪や鼻先から水が滴る。

 家の誰も、それどころか里の誰ひとり、イャノバを攻めることはなかった。心のうちでは違うかも知れないが、その不満を口に出すものはいない。イャノバはまだ子供で、小柄だが、大人の戦士でも勝つことは難しい勇猛な戦士だった。イャノバをして神獣が倒せないとなれば、里長は潔く里を捨て領民を生きながらえさせることこそを自らの使命とした。もとより、幾度となく出現した神獣に、里長は浜の里を去ることを考えていたと言うのだ。いくらアキノバがうまく戦おうと、里が壊滅的な被害を受けるのは時間の問題だろうと里長たちは考えていた。

 目下、それに最も不満をいだいたのが他でもないイャノバだった。里をあっさりと捨てたのにも納得がいかなかったし、負けた自分を甘やかすような家父や仲間の態度も気に入らなかった。イャノバは強くなるために、獣と死闘を演じてきた。負ければ死あるのみだと思い、事実家父との稽古以外では負けたことなどなかった。それも最近はイャノバが凌駕しつつあったのだ。

 これはイャノバにとって初めての挫折だった。負けてなお生き延び、仲間を、ウタカを守るという大義を与えられてしまった。イャノバは自分で自分を罰することも許されなかった。

 イャノバは最低限、水を飲み干し肉を噛む以外は何も腹に入れなかった。そのほんの少しの食事でさえも、イャノバにとっては屈辱的だった。

 おれは負けた、おれは逃げ出したのだ。アキノバに見捨てられ、里を失い、それでなおのうのうと生き延びている。戦士とはなんだ? 笑わせてくれる。負けてはいけないところで負けてしまえば、なんの意味もないのだ。

 イャノバは来た道を振り返った。

 あっちに里がある。アキノバが戦っている。おれが行くべきは、あっちなのに。

「イャノバ」

 ウタカに促されて、イャノバはまた歩き出した。一歩のたびに里から離れる。アキノバから遠のく。その実感が足から腰へ、体へのしかかる。泥に足が沈むのが、どんどん深くなっているように思われた。そこから足を引っ張り出すのに余分な力が必要で、イャノバは息を荒くしていった。

 木立の間の暗い下生えが、音を立てて揺れた。周囲の数人が警戒してそちらを見た。と、すかさず短槍が一本真っ直ぐに飛んで、草陰に分け入った。槍を投げたのはイャノバだった。イャノバは口元を手の甲で拭うように隠しながら、オルカムの槍を借りた。慎重に草むらへ寄っていき、その中から腹に槍の突き刺さった小さな獣をとってきた。

「すごいなあ、イャノバ」

 オルカムに死骸と槍を渡し、イャノバは小さく返事をした。イャノバが震えているのに気付いたのはウタカだけだった。イャノバが、草むらの大きさとその揺れ具合から、どんな獣が潜んでいるか分からないはずがないと、ウタカは知っていた。その草食の、臆病な獣を、普段のイャノバが恐れることは決してないと。

 夜が来た。

 イャノバは眠れなかった。目と耳を凝らして、異界であるこの森の僅かな異変も見逃さないつもりでいた。風に葉が揺れると、体を強張らせ、次の瞬間には槍を投げようとした。そして槍を投げたあと、闇の中に自分でそれを取りに行かなければならないという意識が、かろうじて彼を押し留めた。

「イャノバ、寝ないと持たないぞ」

「いい」

 仲間の言葉を、イャノバはそう突き返した。雨の夜に夜目が完全に利かなくなると、見知らぬ森の闇に落とす影が、イャノバの心の中にまで伸びてきた。耳が冴え、雨音に紛れる獣の声や足音を敏感に捉えた。目が見えずとも、どこに何があるのかが分かった。それでも、自分のすぐ鼻の先に見知らぬ獣がいて、今にも大口を開けて襲いかかってくるかも知れないと思った。その獣は闇の中でなお浮かび上がる黒いまだら模様を全身に持っていて、イャノバの目の前を幾度となく横切った。イャノバは寝ずの番をし、一晩中哨戒役をやった。

 雨足が強くなった。耳が遠くなった代わりに、光があった。雷光が一瞬、木々を大きく黒く浮かび上がらせる――イャノバは神獣と対峙して、一条の光線が閃くと、次の瞬間には地に伏していた。熾火を押し付けられたような熱感と、耐え難い苦痛――と、遅れて来る雷鳴があって、イャノバは自分の呼吸が荒くなっているのに気付いた。雨以外に体が濡れて、べったりとあぶらっぽくなっていた。

 木々の形が分かるほどまで明るくなると、ウタカが木陰から起き上がった。膝を抱えて自分を抱きしめるように蹲っていたイャノバに、ウタカは声をかけた。

「イャノバ?」

「……ああ」

 やがて全員が目を覚まし、再びあてのない移動が始まった。雨は相変わらず降り続け、風は木を大きく揺らすようになっていた。

 イャノバは明らかに体調を悪くしていた。夜通し体を冷やし、一睡もしていない。その上、精神的にも追い詰められていた。それでもイャノバはひとりで歩くことを選んだため、ウタカはそのすぐ後ろを歩いて、イャノバが倒れそうになったときにはすぐにでも助けられるよう心構えをしていた。

 ウタカはイャノバの様子を後ろから見ながら、このままでは三日後を迎える前に息絶えるかも知れないと思った。それをイャノバに伝えて自愛するよう勧めることに、ウタカは意義を見出だせなかった。イャノバを蝕むものの本質は、風や雨や疲労ではなく、敗北をした自分自身に由来しているのだ。そこから立ち直らせるすべを持つものは家父や里長だけで、女の自分には到底できないだろうとウタカは考えていた。そしてその家父と里長は、この大移動に労を費やしイャノバひとりのことに時間をかけている暇はない。イャノバの婚約者となり、正式な巫女ではなくなったウタカには、今彼らにイャノバの面倒を見るよう頼むこともできない。

 泥は足の甲まで取ることはなかったが、イャノバは一歩一歩を必死に、重たげに持ち上げていた。遠い浜の里の森がイャノバを逃すまいと、力を振り絞っているようにウタカには感じられた。

 向かい風をようやくの思いで歩き進んでいたイャノバは、ふと、風切り音に異音が混じっている気がした。無数の葉がさざめきあう音でも、木の軋む音でもない。なにか、甲高い音が風上からやってきている。

 声がした。

 悲鳴だ、鬨だ。イャノバの熱を持った頭が溶岩が地底を這うかの如くぐらりと動きだした。

 音の正体は指笛だ。この音は、この途切れ途切れに鳴らすやり方は被、襲撃の合図だ。長く森に伸びた列の、イャノバたちより先頭の方が襲われたのだ。

 先頭? 何故? 常に進路の安全を確認し警戒を怠らない先頭側を、なぜ襲撃者は襲ってきたのだ。

 イャノバの野生の戦闘勘が背後を振り向かせた。風下に耳を張って澄ますと、かすかに戦闘の音がした。

 挟撃か。

 イャノバは息を吐くと、喉が痛んだ。頭は湯だち、体は石だった。

「お前ら! 列の頭が襲撃された! 槍と弓を持て! これから前の方に行って里長たちの援護に行くぞ!」

 家父エンサバが声を上げると、イャノバがしゃがれた痛々しい声で応えた。

「エンサバ! 列の下の方もやられてる、おれはそっちに行く」

「ふん、なにっ」

 エンサバはイャノバの近くによって耳を張った。戦闘音は先程より明らかに大きくなっている。エンサバの眉間にシワが寄ってイャノバを見た。イャノバは言った。

「連中下から俺たちを踊り食いする気だ。風上に気を取られてそっちにみんな行っちまったら、完全に囲まれる」

「よし、おれも行こう。他のものは里長のところへ行け! 時間がないぞ!」

 イャノバはウタカに隠れてるように言った。ウタカはいつものようにイャノバの頬に髪を擦り付けず、彼の手を両手でとって口づけをした。戦場に家父を送る妻の正式な作法だった。

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