第一話の5

 硬く瞑った目を開ける頃には、どれほどの時間が経過したのか、アキには分からなかった。十秒かもしれないし、十分かもしれなかった。呼吸は浅くなっていたが、空気が埃っぽくなっているのには気付いた。手足をゆっくりと動かしてみて、どこも下敷きになってないこと、五体満足であることを確認した。

 わずかに震える体で立ち上がって、あたりを見た。瓦礫の山だった。どこからか声が聞こえる。うめき声と、泣き声、助けを呼ぶ声と、咳。見えるのは自分のように運良く助かった者たちばかりで、声の主の多くはどこにも見当たらなかった。どこか遠い世界に迷い込んだような気持になり、その感覚は絶望の感情を麻痺させ、漠然とアキに現状を受け入れさせた。大人の一人が足を引きずりながらがれきの下を見て、「手を貸してくれ!」と叫んだ。

 遠くで何か大きなものが崩れるような音がして、アキは振り返った。覆いかぶさった土砂を流れるままにしながらゆっくりと、力なく巨体が立ち上がっている。レッドカイザーだ。傷一つ見当たらない。

 アキはもう一度自分の体を見下ろして怪我が無いことを確認すると、レッドカイザーの方へと走り出した。レッドカイザーに向かって走るうちに、アキの眼前は徐々に開けた風景になっていった。“爆心地”に近いほど多くのものが失われ、更地に変わっている。

 レッドカイザーはきょろきょろとあたりを見回し、何かを探しているようだった。腕に絡まったままの怪獣の腕は力なく垂れている。それを振り払うような動きをしたとき、唐突に腕に活力が戻り、レッドカイザーの両腕を強引に広げて張り付けのような格好を取らせる。すぐ足元の土砂の中から、怪獣が現れた……それは体を半分以上失い、胸以上の部分がかろうじて残っているような瀕死の体で、とてもその姿になって同じ体格のレッドカイザーを封じるような力が残されているようには見えなかった。

 アキは粉塵の向こうで、暗い空を背にする怪獣が再生するのを見た。それは驚くべき光景で、周囲の瓦礫や土砂が磁石に吸い付く砂鉄のように吸い上げられて怪獣の方へ上っていくと、それが真っ黒に染まったのち、徐々に怪獣の血肉へと変化していく。

 周囲に何かある限り、無限に再生する怪獣なのだ。

 アキはもうすでにレッドカイザーのすぐ足元までに来てしまっていた。

「レッドカイザーー!!」

 アキは埃っぽい道なき道を走りながら、力いっぱいに叫んだ。

 その声が音として届いたのかは分からないが、レッドカイザーは確かにアキを振り返った。赤いその体が真っ黒に染まり、巨体が消失する。レッドカイザーを支えに浮かんでいた怪獣は地に落ちて、アキはその衝撃に煽られるが、恐怖を押し殺しながらなんとかレッドカイザーの立っていた地点まで辿り着いた。見慣れた自分のおもちゃが、ぽつんと地面の上に横たわっているのを見つけた。

『離れよう』

 アキはその言葉に従い、疲れを全く感じさせない全力疾走でその場を去った。レッドカイザーが『もう大丈夫だろう』という地点まで来ると、アキはアスファルトの上に倒れるように座り込んだ。

「勝てるの?」肩で息をしながらアキは聞いた。

『分からん』返事は簡潔だった。少し間を開けて、彼はつづけた。『想像以上に力が出ない。最初の一撃で仕留めてやるはずだったのが、まさかこんなことになるとは』

「力が出ないって、どういうこと?」

『少し難しい話になるが、私の本体は別のところにある。そこからエーテルをこの器に現界させているのだが、器に入るエーテルの量が、戦うのに全く足りないのだ』

「現界って、あの黒くなるやつ?」

『そうだ。流入するエーテルがその力を十全に発揮させるため、器を変形させる際に起こる現象だ』

 アキは少し考えた。整っていない自分の吐息が聞こえ、次に、人々の声が聞こえた。助けを呼んでいる。泣いている。力を合わせて瓦礫を退かそうとする合図が聞こえる。アキの前を同じ歳くらいの子供が、誰かを探すように横切った。

「ボクも戦うよ」

 レッドカイザーは、奇妙なことに何も言わなかった。手に持ったその感触は熱を持っていて、ただのおもちゃに戻ってしまったということではないのは確かだった。返事があるまで、また沈黙があった。レッドカイザーもまた、周囲に満ちた絶望と、縋りつくような希望の声を聞いているのかもしれなかった。

『君とこの器の間には、特別な認知境界が引かれている』レッドカイザーの言葉が、アキの頭の中で静かにこだまする。これから言われる言葉を一つ一つ噛みしめなければならないような覚悟を、否応なくさせる声色に感じた。『君は君の体を、どこまで自分のものだと感じている? 君と呼べるものは、どこからどこまでだろうか。髪は、爪は。抜けた髪と、切った爪。今着ている服はどうだ、毎日変えていても、君は自分の格好を含めて自分の存在を認識していないか。だがずっと裸で過ごした人間には、いきなり服を着せてもそれを含めた自己認識に至るのは難しいだろう。君はこの器を自分の体の一部、あるいは、精神的な分身と思っているのかもしれない。そして、その逆の可能性もある。君が自分を、この器の一部だと思っている可能性だ。だから、器に現界しようとしたとき、君もそれに巻き込まれかけた。ここまではいい』

 レッドカイザーはそこでいったん区切った。言うべきか言わないべきかを悩んでいるようだった。続きは、すぐに始まった。

『私は違う。この器を制圧し、本来ない仮想器官でもってこのように会話を可能とする超常存在だ。それはつまり、君とは相容れないことを意味する。意識あるものと意識あるものが一つの器を共有することは珍しい話ではないかもしれないが、大事なのは、存在としての格が私の方が上だということだ。君の意識は、私の意識の大きさにかき消されてしまうかもしれない』

「死んじゃうってこと?」

『生命活動は停止されない。ただ、植物状態に陥るだろう』

 アキには難しい決断に思えた。これはじっくり考えなければならないと、頭ではわかっていた。だというのに、ただ一つの答えだけがずっと胸の中を占めていた。もうどこか壊れてしまっているのかもしれなかったし、これが最初で最後の、正真正銘の正義の味方となるチャンスだと思うと、そこに背を向ける選択があるとは思えなかった。

 怪獣が再生を終えて、立ち上がるのが見えた。単純な意味で“やっつける”ことができる“悪”が目の前にいる。じっと見つめているうちに、町を破壊した怪獣にどんどん憎しみが募っていく。家は無事だろうか。家から離れているが、あの爆風がどこまで壊滅させたのかは分からない。友達は無事だろうか。今日は塾があったが、アキは無断欠席だ。昼休みに見たあのかわいい子は、どうしているだろう。

 アキには守れるものがまだ多くあって、怪獣を許すことのできない理由もまた、巨大な意思として存在していた。

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