三島由紀夫先生の『永すぎた春』マンネリカップルに訪れた危機
『永すぎた春』は、三島由紀夫の長編小説。
長い婚約期間中の男女の危機を描いた作品である。
「永すぎた春」という言葉は当時、婚約期間の長い恋人の倦怠や波乱を指す言葉として流行語となったそう。
今から60年以上前の話。
主人公は勤勉な品の良いお金持ちのT大の学生の宝部郁雄。(つまり東大生)
郁雄の母親はパーティに出かけたりするバブリーママ。
そして、郁雄は大学の脇にある古本屋の娘の百子と恋仲に。
百子の家はまあまあお金持ちの娘。
郁雄が大金持ちのスパダリなら、百子は小金持ちの娘で、ちょっとここに階級差が……
そんなわけで、最初、郁雄の母であるバブリーママは百子を嫁として認めてはいなかった。
もっと家柄の良い娘がよかったのだろう。
だけど、二人は婚約する。
次第に郁雄の母は百子を認める。
郁雄は結婚するまで百子の純潔を守ることに。
要するに、結婚するまでの期間、キス以上の関係にはならない。
しかし、二人は婚約して親に認めてもらうと、マンネリしてくる。
刺激を求めるためにデートを工夫したりしようともする。
郁雄は百子の純潔を守る代わりに、自分を誘惑してくる女、つた子のアパートへ行こうとする。
郁雄は年上の学友に相談するが「危なくて見ちゃおれんね、君はエゴイズムで動いているんだが、それを性欲と思いちがえている」とだけ言われる。
結局、未遂に終わる。
百子のほうは浮気というか、郁雄の友人であるプレイボーイの吉沢に強姦されそうになる。
この強姦未遂事件には百子の兄の恋人の母親が関与していた。
お金持ちの郁雄と婚約している百子が妬ましかったのだ。
郁雄は百子を疑う。
しかし、バブリーママはその頃には百子を信頼し、あの子は浮気する子じゃないと言う。
百子は自分の幸せのために兄の恋人を切り捨てる。
最終的に、百子と郁雄は幸福を誓い合う。
『永すぎた春』はできちゃった結婚が増えた今の時代では、流行語にはならないのかもしれない……
十返肇は、この作品について、恋愛は、周囲の反対が強いほど、「愛人同士の感情は密着して結ばれ」、周囲が理解を示し、祝福されると「敵を失った情熱は、愛そのものを倦怠させてしまう」性質を持つと解説している(Wikipediaより)。
主人公2人の愛は、周囲に公認された永い婚約期間中、激情が失われ、相手に強く惹かれなくなっていく。
「〈幸福〉そのものが一種の〈不幸〉と化しつつある状態で、三島氏らしい狙いである」と。
三島由紀夫氏は「健全さのもっている不健全さ、幸福のもっている不幸、社会的位置に与えられた栄光の翳り、家庭的充足の欠落と断絶」といったものを「市民の側にたつという偽装で描いていった」と言う。
平凡である日常はとても幸せなこと。
でも、それが当たり前になってくると「物足りない」とか、「刺激が足りない」と感じてしまう人間の欲深い心理。
当たり前の平凡である日常生活の中に幸せを感じていけたらと思う。
三島由紀夫先生、人間の物足りない心理を描いてくださってありがとうございますm(__)m
【北浦十五様】
拝読させて頂きました。
三島由紀夫氏は昭和29年に「潮騒」を発表しています。
この作品は10代の若い男女が様々な妨害を受けながらも、
お互いを信じて最後はハッピーエンドになっています。
この「永すぎた春」は、
そのアンチテーゼとして書かれたものでは無いでしょうか❔
人間と言う生物は共通の敵が現れると団結しますから。
今回も貴重なご感想をありがうございました(^.^)
(作者からの返信)
ステキなコメントをありがとうございますm(__)m
障害があるほうが燃え上がりますね。
(歓迎すべき出来事ではないのですが)震災やコロナで、付き合っている人と支え合っていこうと思い、ピンチのときほど二人が結束して結婚する動きって世の中にはあるようで……
おっしゃるとおりだと思います♡
感謝をこめてm(__)m
黒川蓮
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