第3話 老画家ガビー・ガストロフ

 


 二番通り三番街、高級貴族や大商人など位の高い人々が集中して暮らす地区。他の地区と隣接する場所には、大人二人分程の強固な塀でぐるりと囲まれている。


 そんな身分の人々が多く暮らす事から警備が他の地区よりも段違いに高いことで有名だ。平民からは、塀で囲われている事を皮肉り『檻』などとも呼ばれている。


 街中の至る所に警備や護衛など、身なりで職業がわかる人々が巡回していた。


 どこを見回そうが、波一つない石畳の道に、広い敷地付きの豪華な屋敷。


 この地区は円形に造られたこの国の心臓部であり、それに見合うだけの設備であったり景観が整備されいる。従って、細部に至るまで人の手が加わってはいるのだが、古い歴史の積み重ねを物語るゆったりとした時間も又、この地区独特の高貴な雰囲気作り出していた。


 リングランドの富の全てはほぼここに集まり、そして川の流れのように下へと流れていった。


 ある屋敷は、ふらりと立ち寄った異国の者から宮殿と間違われたり、遠方から来た小国の王ですら屋敷の規模に舌を巻き、そろそろとうつむきながら帰るほどの街並みだった。


 ニコはその日、自分にとって上客である貴族お抱えの老画家、ガビーからの依頼で顔料や筆などを配達しに行くところだった。


 本来ならば配達などしないニコだったが、あのガビーからの頼みならばしかたのない事だと渋々了承したのだった。



老画家ガビー・ガストロフ。


 今の痩せ細った華奢な体からは想像しがたいが、元々は隣国にまで名を轟かせる程腕利きの軍人だったらしい。どんな過去を背負っているか定かではないが、自らの口からは一切、過去を語ることをしない性分だった。


 その証拠に、ニコの知るガビーの人物像は全て父から教えてもらったものだ。


 今現在は、画家としての活動の傍ら芸術アカデミーにて教鞭を執っている。


 ニコは以前、学生を装いガビーの講義を拝聴しに行ったことがある。その時の感想として、「あれは芸術の講義なんてものじゃない、戦争の座学だ」と思いながら帰ってきたことがあった。


 太陽を彷彿とさせる光輝く禿げ頭に、ちょこんと乗っかるピンクの小さなベレー帽は、ニコにいつも疑問を抱かせた。何故に滑り落ちないのかと。


 きっとあのベレー帽の下にはとんでもない秘密が隠されているに違いないし、その秘密を暴く時は余程の事が起きない限り不可能だろうとニコは心の奥底で思っていた。


 口と顎に蓄えた真っ白な長い髭。画家と名乗るに相応しい、常に真っ白のスモックは余程腕に自信がある表れからか、ガビーは好んでそのようななりをしていた。


 また、画家としての腕前に比例するように、その口の悪さも超がつくほどの一流っぷりだったため、弟子はおろか付き人さえ会うたびに違う人物だった。その一癖も二癖もある性格のために、ニコがこうして直々に配達の役を仰せつかってしまうのも仕方のない事だった。


 少し前にガビーのアトリエに配達しに行った時の事。ニコはガビーに率直な疑問を投げ掛けた。


「なんでガビーは弟子をとらないの?」


 するとガビーは髭を撫でながら眉間にシワを寄せ、質問で返してきた。


「猫もろくすっぽ飼うことが出来ない俺が、どうやって人に絵の描き方なんて教えられるんだ?」


 ニコは笑いながら矛盾を突いた。


「でも学校の先生なんでしょ?」


 余程、触れてはならない場所だったのか、ガビーは顔を真っ赤にして「えぇい、うるさいうるさい!でていけ!」と怒鳴り散らし、ニコはアトリエを追い出されてしまった。


 しかし、その一方で、幼い頃からニコの成長を見守ってくれた数少ない大切な大人の一人でもあった。




  一際古い石の塀に囲まれた、丁寧に芝の狩り揃えてある広大な庭の奥。緑の大地に映える白い外壁の、いかにも貴族の住む所といった具合の屋敷がある。


 小さな丘を抱えるように植栽がならび、その中心には小ぶりながらも立派な造りの噴泉がある。


 塀の鉄柵に絡まる薔薇の蔓の隙間を覗き込むと、こちらに背を向けた格好で、何やら作業をするガビーの背中が確認できた。


 一般人が勝手に貴族の敷地内に入ることは許されないので、一旦は正門まで移動することにした。


 ニコは屋敷の正門の前に立って、思わず背筋を伸ばす。体か勝手にそうなってしまうほど、威圧感を感じとってしまったからだ。


 立派な二本の門柱にはアーチ状の巨大な鉄飾りの格子扉が備え付けられている。格子の左右には異なる二つの飾り盾が嵌め込まれていた。一方の盾は孔雀羽だろうか。ニコが知る上で、それは知恵と理解を表す。もう一方は上向きの剣だ。同じくそれは勇気と正義を表している。


 また、盾に剣の紋章は騎士以上の爵位をもつ貴族にしか掲げることは許されていないのだが、ニコにそんな知識は皆無であった。それもそのはず。貴族の屋敷に頻繁に出入りする商人ならまだしも、職人として生計を立てるニコにとって、そんな知識は生きていく上でなんの役にも立たない。したがって、知らなくても当然の事であった。


 ニコは少しばかりの緊張感をもって、格子扉に付いていたノッカーと思われる金具を持ち上げた。


「失礼ですが、どちら様でしょうか?」


 不意に背後から声を掛けられ、ニコはそのまま硬直した。そして、首だけをゆっくりと後方へ回す。


 そこに立っていたのは高身長の老紳士。


 身長の低いニコから見ると普通の大人は大抵、背丈が高く見えるのだが、その老紳士は特別背が高かった。そして一目でこの屋敷に携わる人物だと分かった。


 ニコの視線は老紳士の胸の辺り。きっちりと着込まれた皺一つないスーツ。そして、先ほど格子扉に掲げられていたのと同じ、あの紋章の施された三つのボタン。間違いなく屋敷の関係者。それも、それなりに地位のある人物だろうことが予想された。


「あ、あの、僕は……」


 ニコは緊張からか、そこで言葉をつかえてしまう。すると老紳士は、そんな仔猫のようなニコの姿に視線を這わせた。


「重ねて失礼します。貴方の出で立ちから察するに、芸事。そうですねぇ、絵画に精通する職業に携わっている方だと思われますが如何ですかな?」


 ニコは老紳士の鋭い読みに目を丸くして驚いた。

そして一言「はい」とだけ返事をする。


 すると老紳士は目尻を下げ、上品に笑った。


「申し遅れました。わたくし、当館の筆頭執事、ジョエル・ロンドポールと申します。あなた様はガストロフ先生の使いの方でよろしいですね?」


 深々とお辞儀をし、自己紹介を終えたジョエルの品のある仕草にニコはたじろぐばかりであった。


「あ、あの、僕はニコと言います。ルメロ区でパステルを作っている者です。今日はガビーに…… あ、いや、ガストロフ先生に配達を頼まれてやって来ました」


 ニコは自己紹介も早々に、バックから取り出した通行許可証をジョエルに提示した。


「拝見させて頂きます。ほう、これは確かに。それでは、ガストロフ先生の居ります場所まで案内いたします。さ、どうぞこちらです」


 ジョエルは格子扉の脇にある小さな潜り戸を開け、ニコをエスコートした。


 屋敷の敷地に足を踏み入れたニコの視界には、今までに見たことのない綺麗な庭園が広がっていた。刈り揃えられた緑萌える芝生、細部まで手の加えられた植栽、そして豊かに葉を繁らす木々。


 新鮮な感動が心を豊かに染め上げる一方、ニコの少しひねくれた部分も顔をのぞかせた。それは、人の手が加わり本来持つべき姿からかけ離れた形に成ってしまった、真四角のボックスウッドへの哀れみであったり、雑草一つない芝生の不自然さに対する悲しみであったりといったものだ。


 しかし、だからといってニコは、目の前にある現実に否定的かというとそんな風ではなく、それはそれと、キッパリわけて考える事が出来たので、今は庭園のただただ美しい姿に魅了されることとになった。


「ここをしばらく進みますと、直ぐにガストロフ先生が作業なさっている場所になります。くれぐれも作業のお邪魔になりませぬよう。それから、わたくしはここで一旦失礼させて頂きます。何かございましたら近くの使用人へお声掛け下さいませ」


 ニコは軽く会釈し、とても整ったジョエルの言動に感心しながら前を横切っていった。


 飛び石を一つ、二つ、と数えながら進んでいくと、三十を過ぎたところで、太陽の化身がようやく見えてきた。このときニコは肌で何かを敏感に感じ取った。何故だか太陽が一際燃え盛っているように思えた。その理由はすぐわかるようになる。


 ニコは大きな声で、自分が到着したことを告げた。ジョエルの作業の邪魔をするなという忠告などもう忘れてしまっていた。


「遅せぇーじゃねえのニゴ、早くここまで持ってこい」


 ガビーのその口調から、どうやら予定の時刻を大幅に過ぎてしまっていることと、そのために機嫌がすこぶる悪くなってしまった事が分かった。


 ニコは咄嗟に言い訳を捻り出す。


「いやあ、まいった、まいったよ。途中に何度も帽子を飛ばされてしまっ……」


「ニゴ、俺はお前の何かが飛ばされて遅刻したって言い訳をもう何度も聞いた。次は使えないと思え。それから邪魔になるから品物置いたらさっさと帰るんだ。ごくろう」


 このガビーの態度には、温厚な性格のニコも余程頭にきたのだろう。髪はざわつき、一瞬で膨れっ面に。そしてガビーのハゲ頭を睨み付けながら小声でブツブツ文句を言った。


「配達させといてなんて言い草だ! それに僕はニゴじゃない、ニコだよ!!」


 肩を怒らせながらガビーの脇まで品物を持って行くと、わざとらしく大きな音を立てて品物を机に置く。そして、浅く一礼して身を翻しさっさとその場を後にした。


 ニコはしかめっ面をしたままブツブツと文句を言って正門まで移動した。怒りに任せ門を勢い良くくぐろうとした時、ニコの脳裏に一瞬何ががよぎった。それは先程のガビーの書いていたスケッチだった 。


 あまりにも一瞬しか視界に入れていなかったのでぼんやりとしか思い出せなかったが、確か人物画のようだった気がした。


 一旦、足を止め振り返る。


 作業に取り掛かるガビーの背中を視界に捉えたニコは、次第に絵に対する興味が怒りを上回ったことに気付いた。


 次の瞬間には、出口に向かっていたはずの足が再びガビーの元へと向かっていた。


 気配を消しながら、一歩、また一歩とガビーに近づくニコ。兎を狩る獅子をイメージしていたようだが、傍目から見たその姿は、パンをくすねるネズミの類いに間違われても仕方がない動きだった。


 高齢のために耳の悪いガビーは近づくニコの存在に気付くはずもなかった。白い日除けの下で、苔を蓄えた石造りのベンチに向かい黙々と作業を続けている。


 ようやくガビーの真後ろまで接近したニコは、その肩越しからそろりと顔を出し、カンバスを覗き込む。


 ニコは絶句した。


 まるで、そのラフな下絵を中心に、ざわめく葉の音、流れる雲、全ての動きが止まったかのような衝撃を受けた。


 ニコを貫いた衝動は、以前マールモール大聖堂で見た巨大聖壁画『ヘスペリスの涙』に匹敵するほどだった。付け加えて、今のガビーの画はまだスケッチの段階だ。


 そこに描かれていたのは、石のベンチの肘掛けに肩肘をつき、可憐な微笑みを溢す天使。のように見えた少女。


 ハッと我にかえったニコは、ガビーの真っ正面にあるベンチを見た。が、そこには何者の姿がある分けでもなく、ただただ古びた石のベンチが在るだけだった。


 周囲を見回してもその天使は何処にも見当たらなかった。激しく落胆し肩を落としたニコは、思わずその気持ちを声にのせ吐き出してしまった。


「何だ、ガビーの妄想かあ」


 ニコはとっくに帰っているものと思っていたガビーは、その声を聞き、驚き、慌てて振り向いた。そこにはがっくりと頭を下げうなだれているニコの姿があった。


 ガビーは、言いつけを守らなかったニコに怒号を浴びせた。


「ば、馬っ鹿もーん!何が妄想か!!きちんとモデルがおるわっ!それより何でお前がここに居るんだ、邪魔になるからさっさと帰れと言っただろう」


 その時、もはやニコにはガビーの説教や小言は一切耳に入らなかった。なぜならば天使が実在の人物だとわかったのだから。


 すると、間を置くことなくニコに異変が訪れた。


 みるみる惚けた顔つきになり、背骨を抜かれた軟体動物のようにグネグネと体を動かし、移動しはじめたかと思うと、ガビーの斜め後ろへ立ち位置へ移し、その場で静止した。


 以降、ニコはその場を動く意思の無いことを腕組みの姿勢のままふん反り返り、強い態度でガビーに示した。


「おい、ニゴ。何を期待してるかわからんが、気が散るから背後に立つのはやめねーか。薄気味悪くてたまらん。あと、早く帰れ」


 小言を続けるガビーを尻目に、ニコは白い日除け映える、澄みきった青空を素知らぬ顔で仰いだ。一切の情報の遮断。無の境地。ニコの心はもはやこの地には在らずといった感じだ。


 それからほどなくして、奧の白い建物から日傘を持った使用人と共にニコと同じくらいの背丈の少女が出てくるのが見えた。


「て、て、て……」


「なんだ、手がどうした。それよりいつまでここに居やがんだ、早く帰れ」


「て、て……天使だ」


 ニコは見た。


 ガビーの禿げ頭越しに天使の姿を。いや、羽は無いので天使ではない。しかし、ニコの目に映るその姿は天使以外の何物でもなかった。


 少女と使用人はゆっくりとした足取りでこちらに近付いてくる。距離が詰まるにつれ、ニコは鼓動が速まっていくのを感じ、その拳は固く握りしめられた。


 背筋の伸びたその姿はまるで、城門の門兵のようであり、庭園と同化した木のような雰囲気をも醸し出していた。


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