概念型カリキュラムの丁寧な解説と教師の成長の手引き。H.リン.エリクソン他『思考する教室をつくる 概念型カリキュラムの理論と実践』

「概念型カリキュラム」の丁寧な解説本

本書は、タイトル通りにエリクソンらの「概念型カリキュラム」の理論を丁寧に説明し、その実践例を示した本だ。「教科を超えた大きな概念を教えるんでしょ」という雑な理解をしている人も、本書を読むとその理論がわかるようになっている。例えば、授業の構造に「知識の構造」と「プロセスの構造」があり、その両者からカリキュラムができること(ちなみに、国語科はこのプロセスの構造の要素が大きな教科である)は僕はこの本で初めて知った。また、「転移可能な概念」と一括りにしてしまいがちだが、転移可能なものにも「概念」「一般化」「原理」があって、それぞれ以下のように異なることも、本書では丁寧に説明されている。こうした基本的な用語を説明した後で、どう単元を設計するかという実践的な話に移っていくのがありがたい。


概念:具体的トピックから引き出される、普遍的な短いフレーズで表される概念

例)システム、秩序、価値、一次関数 etc

一般化:複数の概念を明文化した、普遍的なアイディア

生物は生き残るために環境の変化に適応する etc

真理:一般化のうち、ある分野の基本的な真理とみなされるもの

直線が続いている場合、それは無限に伸びる etc

また、「誤解を紐解く」(p143)というコーナーは、「概念型カリキュラムは教科の枠を超えた概念を重視するので、各教科の内容はさらっとしか扱わない」や、「学習の最初に、学ぶべきテーマ(本書では「一般化」と呼ぶ)を提示する」などの見方が一面的でしかないことが書かれている。僕もそのように誤解していた面があり、このコーナーの記述には助けられた。国際バカロレアのカリキュラムに取り組んでいる知人の情報だと、これらの点は学年(小学校のPYP、中学校のMYP、高校のDP)でもかなり違っており、学齢が進むと教科の学問的な深まりが大事になるので、教科固有の概念(本書では「ミクロ概念」と呼ぶ)が重視されるようになるという。


教師をサポートする手立てが充実

さらに、本書の大きな特徴は、概念型カリキュラムに関心のある教師をサポートする手立てが充実していることだ。未就学児から中学生まで、対象年齢に幅のあるさまざまなカリキュラムの単元例が示され、また、教師の成長プロセスについても、初心者・学習者・習得者の3段階のルーブリックが示されており、概念型カリキュラムに取り組みたい教師が、自分の位置を客観的に把握しやすいようになっている。だから、そういう人にとっては本書は何度も開く価値のある本になっているだろう。


なぜ「転移可能な知識」を目指すの?

一方で、再読しても納得できないところもある。まず、これはシンポジウムでも話題にしたが、そもそもカリキュラム構築の目的を、知識が「さまざまな状況に転移する」(p16)ことにおく妥当性である。


「これからは問題が複雑で予測不可能な時代なので、事実の丸暗記ではなく転移可能な概念的知識を持つことが大事だ」という手垢にまみれたキャッチフレーズは全く魅力的でないし、僕の認識では、知識の転移は、そもそもがあまり起きないものである。クリストドゥールーの『7つの神話との決別』やウィリンガム『教師の勝算』は、心理学の研究の成果に基づいてそのことを述べている。ウィンガムは、知識の転移そのものを否定しているわけではないが、転移するためには(概念よりもむしろ)事実的な知識の学習が大事だと述べていて、エリクソンたちと正反対のアプローチで面白い。


また、ソーヤーの『クリエイティブ・クラスルーム』でも、創造力が領域固定的であり、ある科目で創造性を発揮するには、その科目の創造的な知識が必要になることが指摘されている。


こういう点を踏まえると、転移可能な概念的知識の構築を教育の最上位に置く必然性が僕にはわからない。「起きたらいいね」程度ならわかるが、そもそも人類の認知の仕組みから考えても、それは本当に教育の上位目標に置くべきことなのだろうか。価値もあまり感じないし、ぶっちゃけ徒労なんじゃん?という思いまである。


抽象化するのが早すぎない?

また、本書を読んでやはり気になるのが、幼いうちから抽象的概念を教えようとしすぎではないかということ。小学校一年生に光や音が「波」であることを教えようとしたり(p182)、未就学児が「責任と安全」という概念についてインタビューに基づいて考察したり(p102)、言葉遊びから「言葉の順番を変えることでメッセージの意味は変わるか、それはなぜか」などの、より一般化された概念的問いについて扱ったり….(p191)。


単元計画を見ても正直言って「ここまでできるんだ、すごい!」というより「発達段階を無視して押し付けてるんじゃない?」という思いが先に立つ。この「知的促成栽培」の欲求は、一体どこから来るのだろう?


本書には次のような記述があるが、これを見ると、そもそも「幼児期がどういう時期か」「どういうカリキュラムがあるべきか」という捉え方が、例えば風越の幼児教育のスタッフとはまるで違う気がする。


就学前の教育や小学校低学年のカリキュラムは概念型の傾向が非常に強く、子どもたちは、季節、色、動物、家族などといった概念を、体と頭の両方を使って体験していく。彼らの脳内では実体のあるものと抽象的なものが相互に作用し、それによって相乗効果が生まれる。(p95)


エリクソンらによると、「幼児期のカリキュラムは概念型の傾向が強い」のである。そう言われても、風越の幼児スタッフはピンと来ないのではないか。エリクソンらの中には、おそらく「幼児期は概念型カリキュラムになっているのに、小学校期に覚えないといけない事実ベースの学習負荷が高くなり、接続がうまくいかなくなっている」という図式がある。しかしこの構図で「幼少接続」を捉える発想は、少なくともぼくにはなかったし、一般的にもそう理解する幼児教育関係者は多くはないのではないか。たっぷり体験をさせて、その気づきを言語化(概念化)するのはもっと後になってから、という発想の方が多いと思うからだ。ここは、そもそも「概念」という言葉の捉え方の違いもありそうで、新鮮でもあるし、いまだにピンと来ないところでもある。


これと似たような構造は国語でもある。例えば、僕はアメリカのリーディング・ワークショップが早いうちからメタ認知や読みの方略を教えることに対して懐疑的だ。そもそもまだそういう年齢ではないのだから、無理して言語化・抽象化させるのではなく、この時期はたっぷり読む経験を積み重ねて、言語化はもっと先でいいのではないか、と考えている。

最後に、併せて読むと良い一冊も

というわけで、どうしても否定的な感想もあるのだけど、改めて読んで勉強になる一冊だった。実際どうなるかはわからないけど、自分の勉強のために、二学期のテーマプロジェクトを概念型カリキュラムで単元を作ってもいいかもしれない。


また、概念型カリキュラムに関心がある国語科教師は、本書と併せて中村純子・関康平『「探究」と「概念」で学びが変わる! 中学校国語科 国際バカロレアの授業づくり』を読むのをおすすめしたい。学芸大学で国際バカロレアの国語の学びを研究している中村純子さん、開智日本橋で国際バカロレアのカリキュラムを開発し、今は大日向中学校教頭になった関康平さんという、理論の人と実践の人が噛み合った著作である。カジュアルですぐに読み通せるので、最初の一冊としてはそちらもお勧めできる。


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