第21話  試練

第二十章  試練



「それでは浦和学園 対 鶴川高校の試合を始めます」


『よろしくお願いしますッ!』


主審の宣言を皮切りに、試合前に整列し合った両チームが元気一杯に挨拶を交わす。そのまま後攻の鶴川ナインは、それぞれの守備位置へと駆け足で散らばって行った。


そして投球準備の七球を受け、陽菜にボールを投げ返した奈月はゆっくりとホームベース上で立ち上がり、全身を大の字に広げてから大きく深呼吸をして叫ぶ。


「しまっていきましょーーッッ!」

『おおーーッッ!』


返ってきた仲間達の力強い返事に、奈月はこれ以上ない頼もしさを感じながらキャッチャーマスクを付け直す。


そして自らの守備位置である主審の前で腰を下ろしてから、キャッチャーミットのポケットを右手で叩き、自身にも改めて気合を入れ直した。


「よろしくお願いします」


それを見届けると、浦和学園の先頭打者が帽子ごとヘルメットを脱いで一礼してから左打席に入ってきた。


(さぁ、奈月。大事な先頭打者よ。陽菜と協力してしっかり打ち取りなさい)


三塁ベンチからは立ったままの沙希が腕組みをしながらバッテリーを見守る。


この打者をアウトに出来るか、それとも塁に出すか。その結果如何でこの試合の流れがまず決まると言っても過言ではない。


それほどまでに初回の先頭打者とは重要なのだ。


無論、奈月もその事は久美から教えられているので重々承知している。だからこそ打席に入った打者をよく観察し、配球を組み立てていく。


(浦和学園の一番バッターさん……。陽菜ちゃんの知ってる人で、苦手なコースは確かアウトコースの低めだったはずです……)


そして、さらに打者がバットを短く持っているのを確認すると、奈月は陽菜にサインを送る。


陽菜は迷うことなくサイン頷くと投球モーションに入り、第一球を投じた。


ボールは奈月の構えたアウトコース高めへと一直線に決まる。やや甘いコースだったが、一球目を様子見に徹した打者はバットを振って来なかった。


「ストライーク!ワン!」

「ナイスボールです!陽菜ちゃん!」


予定通りにまずはストライクを取り、奈月が返球する。


続けての二球目。やはり打者がバットを短く持ったままのを再確認して、奈月は再びアウトコースにミットを構える。


そして今度は要求通りのコースに飛んできたストレートが外角低めギリギリに決まった。打者もバットを振ってきたが、短く持っていたために打者から一番遠くなる外の低めギリギリでは届かず、身体を泳がせて空振りしてしまう。


「ストライーク!ツー!」


これでツーストライク。ボールカウント無しで追い込んだ、完全にバッテリー有利な形。


こういう場合は一球無駄にしても、ストライクゾーンから外した高めの釣り球で空振りかフライの打ち上げを誘うがのセオリーであるが……


(遊び球は無しで行きましょう、陽菜ちゃん)


打者がアウトコースを意識してそっとバットを長めに持ち直したのに気づいた奈月は、より確実に打ち取りに行く選択を示した。


二球続けてのアウトコースへの配球。加えて、打者はかつてのチームメイトである陽菜なら自分の弱点も知り尽くしているとすでに気づき、徹底してアウトコース勝負で来ると予測したのであろう。


ならばその思考を逆手に取る。


奈月が要求したのはやはりアウトコース。しかし、わざと甘めのコースを指定する。


そこに陽菜が投じた三球目が投げ込まれる。打者としては予想通り、そして甘めの絶好球。故に迷わずバットを振り抜いてくるが、それを嘲笑うかのようにボールは縦に沈み、空を切らせた。


「ストライーク!バッターアウトッ!」


奈月のキャッチャーミットにボールが収まり、主審が三振を宣言する。


それをベンチから見届けた沙希は「よし!」と興奮を隠さず満足気に手を叩いた。


(奈月は初めての試合だからどうなるかと思ったけど、落ち着いて久美から教わった通りのリードが出来てるじゃない。その調子よ、二人とも!)


帰ったら特別ボーナスとして久美に一杯奢ってあげよう。おつまみも一品までなら許す。


そんな風に沙希がバッテリーコーチへの臨時報酬を考えている一方で。


無事に先頭打者を打ち取り、奈月がホッと安堵の息をついたのも束の間。続けて二番の打者が今度は右打席に入ってきた。


(この人は陽菜ちゃんの知らない人……。だからデータがありません……)


そのため、まずは外角へわざとボール一つ分だけ外した球で様子を伺う。しかし打者は少し打ちにいく素振りを見せたものの、それを見送ってきた。


(打つ気があって今のを見送れるって事は、選球眼が良いと考えたほうが良さそうです……)


つまりボールになるコースでバットを振らせるのは難しいという事だ。となれば、ストライクゾーンでの勝負をしていかなければならない。


ならば、と奈月は初めてインコースに体を寄せてミットを構えた。


そしてサインに頷いた陽菜が投じた二球目。しかしそれは奈月が構えたところより右側――結果的にほぼど真ん中へのコースになってしまう。


打者もこれほどの絶好球を見逃すはずがない。しかし失投と思われたその球は、振り抜いてきたバットに当たる直前で軌道を変えた。


今度は縦ではなく横へ。バッターの胸元を抉るように曲がってきたボールは、奈月が始めから構えていた場所への軌道を描いてバットの芯を外し、根本に当たると勢いなくサードの頭上へとふらふら上がった。


「任せよ!」


穂澄が自分で捕球する旨を周囲に呼びかけ、なんなくフライをキャッチする。


これでツーアウト。しかもたった五球でという、ここまでは完璧に近い滑り出しであった。


「陽菜ちゃん!ナイスピッチであります!」

「ツーアウト!ツーアウト!」


内野を守る海帆と喜美からも自然と明るい声が出始める。雅に至っては「暇ですからこちらに打たせても構いませんわよ」と余裕を見せる始末である。


それだけ仲間達も今日の陽菜が絶好調であると感じているのだ。


そして迎えるは三番。その打者が左打席に入ると、陽菜の表情がこれまでよりも一段と引き締まる。


「たった五球でツーアウトかい。やっぱ凄いさね、陽菜は」


杏子は静かに、不敵な笑みを浮かべるとゆっくりと構える。その姿からは今までの二人とは違うオーラのようなものが漂っていた。


それに奈月も気づき、試合前に陽菜から言われた事を思い出す。相手の打線で最も注意しなければいけないのは、この牧 杏子であると。


確かに陽菜にそこまで言わせるだけの特別な存在感が杏子にはあった。その気配に奈月は圧倒されそうになるが、マウンド上の陽菜が杏子に呼応して闘志を燃え上がらせてるのを見て、ハッと我に返る。


(そ、そうです!私が怖がっていたら陽菜ちゃんにも影響が出てしまいます!)


どちらかが欠ける事なくお互いで助け、高め合って、初めて最高のバッテリーが完成する。久美に言われた言葉を思い出し、奈月は大きく深呼吸をした。


そして平静を取り戻せたのを確認すると、サインを出してキャッチャーミットを構える。


陽菜が振りかぶり、杏子に対する初球を投じる。今まで通りの初球アウトコース。しかも低め、外一杯のギリギリのコースに対して、杏子は迷いなく足を踏み込んでバットを振り抜いてきた。


カキーン!


快音を残し、痛烈な弾丸ライナーが穂澄の頭上を越えていく。そのままホームランになるかと思われた打球だったが、途中で左へと大きく曲がり、紙一重でファールとなった。


(か、完全に初球を狙われてました……)


安易に三者連続でアウトコースから入ったのを、奈月は冷や汗を流しながら猛省していた。それでもまさかあのコースに決まった陽菜のボールを、あそこまで簡単に飛ばされるとは思ってもいなかった。


これが陽菜と共に中学の全国大会を戦い抜いてきた者の実力。改めてそのハイレベルさを認識し、奈月はごくりと唾を飲み込む。


「チッ……。あれでも少し振り遅れてたのかい」


悔しそうに舌打ちをする杏子であったが、すぐに切り替えると一度打席から外れて素振りを始める。


奈月は主審から受け取った新しいボールを陽菜に向かって投げる。そこで、陽菜が口端に笑みを浮かべている事に気づいた。


(そういえば陽菜ちゃん……私と勝負した時も笑っていました……)


強打者と対峙する事で呼び覚まされる投手の闘争本能が、自然とそうさせるのだと陽菜は言っていた。


陽菜は今、杏子との勝負を心の底から楽しんでいる。しかし相棒であるはずの自分はどうだ。陽菜のように楽しめているだろうか。


否。楽しむどころか打たれる事を恐れ、一度は取り戻した平静を再び失おうとしていた。


経験の差。自身の未熟さ。陽菜にあって自分に足りない物などいくらでもある。しかし、陽菜とバッテリーを組む以上はそんな言い訳などしたくはない。


対等で有る為に。何よりも試合前に皆に対して述べた言葉を嘘にしないために。


私も、この人との勝負を楽しもう。


奈月は自分で自分の頬をバシン!と叩いて気合を入れ直すと、大きく深呼吸をして叫ぶ。


「ツーアウトですッ!あとアウト一つ、しっかり取っていきましょうッ!」


奈月の掛け声で、今の強打に驚き一瞬で余裕を失っていた鶴川ナインにも再び気合が注入されていく。


内野と外野。陽菜の後ろを守る全ての仲間達から声援が飛び交い始める。


(へぇ……。少しはビビッてくれれば儲けもんと思ったけど、そう上手くはいかないか)


この状況を楽しみ始め、陽菜や杏子と同じく口端に笑みを浮かべながらキャッチャーマスクを付け直す奈月を見て、流石は陽菜が認めただけはあると杏子は感心していた。


「なら、私もとことんまで楽しまないと損さねぇッ!」


再び打席に入り、杏子も笑みを浮かべながら構えた。


そして一進一退の攻防は続き、スリーボール・ツーストライクのフルカウント。


奈月は陽菜のウイニングショットである縦スライダーのサインを出す。


陽菜も頷き、これで決めると左腕を振り抜いた渾身の一球は見事な落差を見せ――


「そう来ると……思ってたさねッ!」


しかし手の内を知り尽くしている杏子も、そのボールに食らいついてみせた。


バットをゴルフのスイングのように操り、落ちてくるボールに対してすくい上げるように合わせる。


だが真芯で捉えるまでには至らない。それでもバットの上側で捉えたボールを強引に力で弾き返した。


勢いの有るライナー性の打球が陽菜の頭上を越え、二塁ベース後方へ向かって飛んでいく。


センター前ヒットだ。誰もがそう思った瞬間――


「ニャニャニャニャ~!」


定位置より少し深めで守っていたののあが、その打球目掛けて爆走していた。


「ののあ!無理すんな!ヒットで構わねぇからワンバンで確実に捕れ!」


しかし、いくらののあの俊足でも間に合わないと判断した梓がカバーに入りながら指示を飛ばすが、初めての練習試合でテンションが上がり過ぎていたののあの耳には届かなかった。


「ふニャッ!」


ののあが落ちてくるボール目掛けて頭から飛びつく。が、梓の読み通りグローブ一つ分届かず、目の前でバウンドしたボールは入れ違いでののあの体を飛び越え、そのまま無人のセンターへと転がって行ってしまった。


「馬鹿野郎!だから言わんこっちゃねぇ!」


舌打ちをしながらカバーに入っていた梓が慌ててボールを追いかける。


(こいつは三塁まで行かれちまったな……!)


フェンスの手前でやっとボールに追いついた梓が捕球をしながらランナーの状況を確認しようと顔を向けると、予想外な事に打った杏子は二塁でストップしていた。


拍子抜けした梓だったが、とりあえずボールを内野へ返す。


「アズーサ、ナイスカバーデース」

「……なぁ、ビビ。あのバッター……足が遅かったか?」


落ちた帽子を拾いながら同じくカバーに走ってきていたビビに尋ねると、彼女は首を横に振る。


「ノー。余裕で三塁まで行けたと思うネー」

「チッ……舐めプのつもりか……?」


敵の真意は分からないが、ツーベースで済んだのは不幸中の幸いであった。ランナーが二塁か三塁かでは攻守共にかなり意味合いが違ってくる。


とりあえず肩を落としてバツが悪そうに戻ってきたののあには「切り替えろ」と背中を強く叩くと、自分もライトの守備位置へと戻って行った。


「陽菜ちゃん、ツーアウトです。ランナー二塁ですが、バッター集中でいきましょう!」

「……ええ、分かってるわ」


手元に返ってきたボールの感触を左手で確かめると、二塁ベース上にいる杏子に視線だけ送る。


どう考えても今のは三塁まで行けたはずだ。しかし杏子はそうしなかった。


手を抜いた可能性も一瞬考えたが、彼女の性格からしてそれはまず有り得ない。


(なら向こうの監督からそういう指示が出ている……?でも何の為に……?)


そもそもわざわざチャンスを縮める意味が分からない。分からないので、とりあえず陽菜は考えるのを止めた。


今は奈月の言う通り、次のバッターだけに集中しよう。二塁にランナーがいるとはいえ、あとアウト一つ取ってしまえばチェンジなのだから。



ドクン!



そこまで考えた瞬間、陽菜の心臓が大きく跳ねた。


(……ツーアウト……ランナー二塁……)


それは今でも忘れられない記憶。中学の全国大会でサヨナラホームランを打たれた時と同じ状況。


あの日の悪夢は、鶴川で野球を再開してからは見なくなった。けれど陽菜の記憶から消えた訳ではない。


(……大丈夫……。同じ状況を想定した守備練習では誤魔化せた……。だから大丈夫……)


自分に言い聞かせ、頭に左右に振って脳裏に浮かぶ悪いイメージを払拭させる。しかし胸の鼓動は五月蠅く乱れたまま、一向に治まらなかった。


大きく息を吐き、次の打者と対峙する。


奈月のサインはしっかり見えているし、頭でも理解できている。大丈夫。私は冷静だ。


しかし――


「フォアボールッ!」


四番に対し、一球もストライクが入らないまま新しいランナーを溜めてしまう。続く五番も同様に、奈月の要求するコースとは逆球になったり、変化球がすっぽ抜けてあわやパスボールになりかけたりと、それまでの正確なコントロールとは激変したまま連続でストレートのフォアボールを与えてしまった。


これでツーアウト満塁。余裕の立ち上がりから一転、ピンチを迎えてしまう。


「す、すみません!タイムをお願いします!」


流石に陽菜の様子がおかしいと気づいた奈月が慌ててタイムをかける。しかし陽菜はマウンドに駆け寄ろうとする奈月を、その必要はないと手で制した。


「陽菜ちゃん……」


どうするか迷った奈月だったが、陽菜が心配いらないと言っているのならそれを信じる事にした。タイムを取り下げ、キャッチャーマスクを付け直す。


(とりあえず変化球が上手く投げれなくなっている以上、無理に投げさせるのは危険です……)


ならばストレートのみで配球を組み立てるしかないが、それすらも肝心のコントロールを失ってしまっている。しかし選択肢が他に無い以上、奈月はストレートのサインを出すしかなかった。


その代わり、ストライクゾーンのギリギリに要求するのではなく、甘く入ってもいいと陽菜に伝える。とにかくまずは一つ、ストライクを取り行って落ち着こうと、ミットもほぼ真ん中に構えた。


満塁なので次もフォアボールにしてしまえば、押し出して一点を献上する事になる。それだけは避けなければならないと陽菜も理解し、奈月のサインに頷く。


そして投じた六番バッターへの初球。押し出しだけは避けたいという想いが生み出したその球は、ど真ん中へと。しかしそれまでの球威が全くない、ストライクカウントを稼ぎに行っただけのただの棒球でしかなかった。


それを見逃す浦和学園ではない。失投と判断すると初球から迷わず打ちにきて、ジャストミートした打球は左中間を深々と切り裂いた。


ツーアウトなので打球が飛んだ瞬間にスタートしたランナーが一斉に還ってくる。一人、二人……さらには一塁ランナーまで生還し、一気に三点を奪われてしまった。


そして打ったランナーは再び二塁でストップしていた。


走者一掃のタイムリーツーベースに沸き立つ浦和学園のベンチ。しかしその中で、歓喜の輪には加われずにいる者達もいた。


「な、なんだよ……。陽菜の奴、急にどうしちゃったんだよ……」


ブルペンから一度ベンチに戻ってきていた千紗が、マウンド上で起きている信じられない光景を見つめながら呆然と呟く。


先程まで活き活きと投げていた陽菜の姿は最早どこにもない。まるで悪い魔女に呪いをかけられてしまったかのように、もがき、苦しむ姿がそこにあった。


「きょ、杏子!今日の陽菜、調子が悪いのか⁉」

「……いや、少なくとも私の時はそうは感じなかったし、むしろ絶好調に思えたさね。けど、その後からさね……急に投球が崩れ出したのは……」


ランナーとして生還した杏子は千紗の問いに首を振ると、同じように心配そうな表情でマウンド上の陽菜を見つめる。


そうしているうちにもまた連打を浴び、常に二塁にランナーがいる形で再び溜まっていっていた。


「監督から、ランナーが出たら常に二塁には誰かいるようにしておけっていう変な作戦を聞かされた時からまさかとは思っていたが……」

「そ、それじゃ……陽菜はやっぱり……」

「……ああ。多分……いや、間違いなく、あの日からまだ完全に立ち直れていない」


陽菜を一度野球から遠ざけた魔物――決勝戦のサヨナラホームランから。


「あ、あたし!監督にこんな作戦は止めさせるように言ってくる!」

「止めとけ。それにこの作戦は、鶴川の監督からのオーダーだって言ってただろ」

「で、でもこのままじゃ陽菜が!」

「ああ……今度こそ本当に立ち直れないくらい壊れちまうかもな……」


それは鶴川の監督――立花 沙希も十分に承知しているはずだ。なのに何故、こんな無茶を陽菜に強いるのか。


「きょ、杏子!痛い!痛いってば!」

「あ、ああ……悪い」


いつの間にか千紗の肩を掴んでいた手に力が入りすぎていたのに気づき、杏子は慌てて手を離す。


様々な思惑の中で試合が行われている事に気づきながらも、また自分は苦しむ陽菜を見ているだけしか出来ない。


それがどうしようもなく歯がゆくて、杏子は千紗から離した手をもう一度、爪が食い込む程に握り締めた。






――そして、それは三塁側ベンチからマウンド上の陽菜を見守る沙希も同じであった。


立ったまま組んだ腕はそのままだが、陽菜が打たれるたびに震え、指先は爪ごとユニフォームの上から肌に深く食い込んでいく。


それでも沙希は陽菜から目を逸らさない。交代もさせない。


陽菜がこのまま終わるはずがないと誰よりも信じ、指揮官は自らも身を削る想いで今は耐えていた。






「……うちのランナーが出たら、必ず二塁にいるようにしてほしい……ですとな?」


試合前の挨拶中に申し出た沙希のお願いに、福田は意図が掴めず眉を潜めた。


「はい。実は一試合目で投げるうちの投手……秋月陽菜なのですが、実はイップスの可能性が有ります」


イップスとは簡単に言えば、スポーツ選手がかかる心の病である。


症状としては今まで出来ていたことが急に出来なくなる。その原因は人それぞれであるが、内外からのプレッシャーによる物や、過去の失敗によるトラウマなどが原因となり発症する事が多いとされている。


「色々な場面を想定させながらの守備練習中、陽菜はランナーが二塁にいると必ず制球が乱れていました。本人は誤魔化そうとしていましたが……多分、間違いありません」

「ふむ……。それで試合でもランナーを二塁に置いてどうなるかを確かめたい、と」

「はい」


福田は顎に手を当てると、少し考える様子を見せて沙希から視線を外した。


「確か……秋月が中学の最後の試合でサヨナラホームランを打たれたのが、ツーアウト・ランナー二塁の状況でしたな」

「陽菜の中学時代をご存じで?」

「同じ母体の女子野球部ですからな。実際、彼女が中学三年の時に視察に行った事も有ります。いやぁ凄い子だと一目で分かりましたよ。

こんなにも才能が有る子が来年は高等部に上がってくる。そこからさらにどう育てていくか、そう考えて年甲斐もなくワクワクしていたものです」


しかし陽菜は野球を辞め、高校も浦和学園ではなく鶴川を選んだ。


「そうですか……。野球の神様もあれだけの才能を与えておきながら、随分な試練まで与えたものですなぁ……」

「ですが私は陽菜なら……いえ、あの子達と一緒なら必ず乗り越えられると信じています」

「それだけのチームワークが鶴川さんにはあると?」

「まぁ、今のところはそれだけが取り柄ですからね」


沙希が苦笑すると、福田もフッ……と好意を含めて笑ってみせた。


「しかし本当にいいんですか?もし賭けに負ければ、秋月は本当に二度と投げれなくなるかもしれませんよ?」

「……覚悟の上です。私も、そしてきっとあの子も。そうでなければ全国制覇を目指すなんてとても言えませんから」

「全国制覇……ですか」


突然沸いて出た言葉に、福田は目を丸くした。それはそうであろう。まだ発足して一ヶ月も経たないチームが全国制覇などと、夢物語どころの話ではない。


「お笑いになりますか?」

「いやいや。かつて選手として、創部一年目で鶴川の奇跡を成し遂げたあなたが言うのです。きっと根拠があっての事なのでしょうな」


沙希の目を見て、全てが本気であると感じ取り、福田も腹を決めたようだ。顎に当てていた手をどかすと大きく頷く。


「分かりました。その旨、確かにうちのもんに徹底させましょう」

「ありがとうございます!」






しかし現在、沙希の賭けは大きく裏目に出てしまっていた。


一度ランナーを二塁に置いた陽菜は立ち直るきっかけを掴めず、失点を重ねていく。その度に陽菜の両目から力が失われていくのが、ベンチからでもはっきりと分かった。


それでも沙希は陽菜に。そして、今グラウンドで陽菜と共に戦っている仲間達に全てを賭けたのだ。今さら撤回の二文字などあってはならない。


(こういう時に見守るしか出来ないなんて……監督ってのは、思っていた以上にヘビーな仕事ね……)


そして沙希もまた、鶴川ナインと共に戦うためグラウンドから目を逸らさぬよう、彼女達の一挙手一投足をその目に焼きつけていた。



【続く】

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