五④
「その風が、章子の香りを運んできてくれてね。その時私は確信したよ。あぁ、章子が往ってしまったのだな、と……」
それは長年この神社に神主として神に仕えているからこそ持てる確信だったと、お父様は言う。
「島崎さん」
「何でしょうか?」
「章子は、最期の時まで幸せだったようだね。……、ありがとう」
神妙な面持ちで思いもしなかった言葉をかけられ、その上頭まで下げられた僕は、一瞬何が起きたのか分からずに呆けてしまう。しかしすぐに慌てて、
「顔をお上げください!」
そう言うのがやっとで、あたふたとしてしまう。僕の言葉に顔を上げたお父様の表情はまだまだ硬いものだったが、
「今度、章子が過ごしていた君の家を、訪ねても良いかね?」
「も、もちろんです!」
勢いよく返した僕の返答に、お父様の表情が少し和らいだ気がした。
「ありがとう。さぁ、もう今日は帰りたまえ。落ち着いたらまた、こちらから連絡しよう」
そう言うお父様に、僕は改めて自宅の住所を紙に書いて渡すと、立ち上がり、佐藤家を後にする。
そうして再び列車に揺られながら、自宅へと帰っていくのだった。
僕が住んでいる町の駅に列車が到着する。僕は列車を降り、歩廊を歩いて改札に向かう。その道中もちらほらと死の象徴である白黒の髑髏の姿を認めて胸が苦しくなった。
僕が彼らに対して出来ることはあるのだろうか。
(章子……)
僕は僕の中の章子へと呼びかける。
『直哉さんなら、出来ますよ』
その時、章子の涼やかで優しい声音が聞こえてきた気がした。僕はその声に一つ頷くと自宅への道を急いだ。章子の手記の中に今の僕への言葉が書かれていると思ったのだ。
自宅へと戻った僕は一直線に寝室へと向かう。それから章子の文机の引き出しを開けて中から章子の手記を取り出す。そうして読み返していくと、最後の章子の言葉に目が留まった。
『直哉さんは直哉さんにしか出来ないことで、多くの人たちを助けてあげてください』
(僕は僕にしか出来ないことで……?)
それは一体何なのだろうか?
そのことについてはどこを見ても章子からの言葉はない。
僕はしばらく頭を抱えることとなったが、結局それが何であるのかはさっぱり分からないのだった。
その日から僕はより一層、原稿に向かう時間を増やしていた。自宅にいる限り僕はあの白黒の髑髏を見なくて済む。あれを見ない限り僕は、章子の言葉に頭を悩ませることもなくなる。
そう思ってこの日も机に向かっていた。
季節は初夏へと移り変わっていく。窓を大きく開けて外の空気を感じながら筆を走らせている時だった。
「おーい、島崎ー!」
玄関の方から聞き覚えのある声がした。僕は立ち上がるとゆっくりと玄関へ向かう。そこにいたのは、
「よう」
「里見」
予想通り旧友の里見だった。僕は里見に上がるように促す。
「おう、邪魔するぜ」
里見はそう言うと僕について応接間へと入る。僕はそのまま茶を
章子が遺してくれた張り紙のお陰で、僕はすぐに物の位置を把握することが出来た。しかしその張り紙のせいで、台所に立つとまだ少し胸が痛む。それでもその胸の痛みは時間と共に少しずつ消えていくのだった。
そんなことを考えながら、僕は茶を
「悪いな」
「構わないよ。それより、急にどうしたんだ?」
僕の問いかけに里見は少し視線を外してあーっと唸りながら頭を掻いている。何か言いにくいことがあるようだ。
僕は茶をすすりながらそんな里見の言葉を待っている。すると、
「実はな……、今度俺の出版社の主催で晩餐会が開かれるんだが……」
「まさか、その晩餐会に出席しろとか言い出さないよな?」
「そのまさか、なんだ……」
里見の目は泳いでいる。僕はそんな里見の言葉にため息を吐き出すと、
「勘弁してくれよ。僕がそう言う場が嫌いだってこと、里見だって知っているだろう?」
そう言う僕に向かって里見は両手を合わせると、
「そこを何とかっ! 頼む!」
懇願する里見に僕は事情を話すように促した。里見が事情もなしにこんなことを言い出すとは思えなかったのだ。
案の定、里見は僕に頼みだした経緯について話し始めた。
その話によると、里見の会社で晩餐会が主催されることが決定する前、里見は会社の同僚に僕との関係を話したらしい。以前から僕との関係を疑っていた同僚からのイヤガラセとして、今回の晩餐会に僕を招待しろと言われたそうだ。
そんな話を聞き終えた僕は長嘆息する。
これだから人間社会は厄介である。
「……、分かったよ。僕は顔だけ出してすぐに帰るからな」
「助かる! 恩に着る!」
こうして僕は、里見の出版社が主催する晩餐会へ出席することとなった。
その後しばらく里見と会話をしていたのだが、
「ゴホッ!」
「なんだ? 里見。風邪か?」
「あ、あぁ……」
里見は変な咳をすることがたびたびあった。僕の質問に、今は休んでいる暇はないのだと里見は答える。
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