第5話
じゃばじゃばと雨が降っている。道路には排水しきれない水が真っ黒な川のように流れている。サンダルで走ると、まるで浅瀬を漕いでいるようだ。暗闇に木が一本、ひょろんと立っている。その根本にはびしょ濡れの段ボール箱。濡れてすっかり色が変わり、形もひしゃげている。その中から、濡れそぼった猫を抱き上げる。一匹、二匹、三匹。両手に抱えて、家に戻る。産まれたばかりの子猫はしがみつくこともできずに力なくもがく。小さな爪が、濡れたむき出しの腕を引っ掻く。三匹がてんでばらばらにもがくので、そのたびに取り落しそうになる。――早く家に帰らないと、落としてしまう。死んでしまう。早く、早く――。気ばかり焦るが、走ると子猫を落としてしまいそうで、急げない。家がとてつもなく遠く感じる――。
大丈夫。大丈夫。おうちに着いたら、あったかいお湯で洗って、乾いたタオルで拭いて、ミルクをあげるからね。すぐに元気になって、みんなで遊び回れるようになるからね――。そう、言い聞かせながら。
(良かった――あたし、みんな助けられたんだ――)
眼を開けると、アテンの部屋の冥い天井があった。エアコンが静かに唸りながら乾いた空気を吐き出している。
後悔が夢に現れる時、それは悪夢として繰り返されるのではない。「ああすればよかった」「こうなってほしかった」という希望の形を取って現れる。そんな目覚めは悪夢よりも切ない。
あの夜、雨の中に取り残された子猫たち。みんな本当は生きていたのに、慈が見捨てたせいで死んでしまったに違いない。後悔は時間と共に魍魎のように成長していく。慈がちゃんと戻って確認していれば、みんなほんとは生きていて、元気に育って――。慈がちゃんと世話をして、手伝いもしていたら、母とももっとうまくやれて。おばあちゃんにもちゃんと、ありがとうって言って。死んでしまう前に、もっと、ちゃんと。たくさんの後悔が、呪いのように慈の人生に染み付いている。
――家に、帰らなきゃ――。
携帯が暗闇で光っている。アテンはまだ帰ってこない。
着信は母からだった。メールも入っていた。あなたどこにいるの。連絡しなさい。いつ帰ってくるの。そっちに行きましょうか?今いる場所の住所を教えなさい……。
「……ああああああああ!」
慈は携帯を投げつけた。どうして伝わらないのだろう。どう頑張ってもうまくできないのに。それがこんなに苦しいのに。
――ほら。
鍵をかけないと。出てきてしまう。
黒い、後悔が。
「……アテン……」
眠れないのに、夜はまだ明けない。アテンも帰ってこない。誰にも会いたくないのに、一人でいたくない。
不安は更に濃密になり、ますます黒く身体の中心にわだかまっている。
――アテン。
――早く抱いて。
――そしてあたしをジャングルに連れて行って。
――あたしの不安を、一掃して。
慈は床に落ちた携帯を拾うと、そのまま小さく丸まった。
ジャングルの暗闇に潜む獣の呼吸の音がして、慈は顔を上げた。室内はまだ暗い。暗闇の中で、一層黒い闇が蠢いている。荒い息を吐きながらせわしなく動くそれを、慈は息を潜めてじっと見つめていた。
「……あっ……ああん……」
女の甘い声がして、アテンが誰かを連れ込んだのだと理解する。
泣けば良いのか怒れば良いのかわからなくて、慈はただ二人が抱き合うのを眺めていた。慈がここにいることなんて気付いていないだろう。
暗闇でどうしてそれが見えたのか分からない。とにかく女の爪には、美しい装飾が施されていた。南の島の海のような青に、金色の砂が散りばめられ、きらきら光る石がくっついている。
慈は携帯だけを握って、部屋を出た。一度も後ろを見なかったので、二人が慈に気付いたかは、知らない。
雨はまだ降っていた。シェアハウスの玄関にあったビニール傘をひとつ拝借する。
涙は出なかった。怒る理由もなかった。アテンと慈は何かを約束した仲ではなかった。家族も名字も知らない。共通の友人もいない。ただ肌に触れただけ。熱を交換しただけ。空洞を埋めただけ。だから怒りより悲しみより、どちらかというと、からっぽになった気がした。身の内のがらんとした空洞に、ころんと黒い塊が転がっている。
途端、股の間が濡れるのを感じた。
アテンがくれた熱が血になって流れ出して、すっかりなくなってしまうのかもしれないと思った。
歩いていると、いつものバーの前まで来た。バーはもう閉まっていた。雨雲がうっすらと紫色に染まっていく。
朝が来るというのに、なぜこんなにも寄る辺ないのだろう。
慈は色々なことがうまくできない。愛されることすら、うまくできなかった。慈の父も母も、正しく平等に子どもたちを愛したのに、いつも慈だけがそれを取りこぼしていた。
「だれか……」
明け方の空に手をかざす。
――あの子猫は、あたしだ。
雨に濡れたまま、誰かに拾われるのを待っている。
だけど誰も気付かない。うまく泣けない慈は、拾われなかったほうの子猫。
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