考える力
ビルのエントランスは、駅チカ格安ホテルのロビーほど狭かった。
青が基調で薄暗く、フロントとエレベータ、小さな待合所にローテーブルとソファがあるだけ。エントランスの受付にはひとりの女がおり、先ほどの赤縁メガネの男は見当たらなかった。受付がこちらに気づいてすぐ、
「本日はどのようなご用件でしょうか」
ごりごりの営業トークを向けてきた。
「そもそも、ここは?」
「失礼ですが、お名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」
「予約してないけど? えーと……
「丸岡様――あぁ、
春夏冬と呼ばれた途端、女は顔全体を紅潮させ、目線を逸らした。
「ちょっ……と、え?」
当然である。受付が口にした『春夏冬』とは、彼女がひっそりとWebで使用しているペンネームだったのだ。他言したことは一度もないが。
「あとはご自宅で詳細をご確認ください。では、善き第二のスローライフを」
「ま、待って! 説明が足りない!」
春夏冬の
もはや、こいつに補足を求めても無駄だろう。
「くそぉ」
聞こえる声量で悪態をついた春夏冬が、出口へつま先を向けると、エレベータが到着したのを知らせるベル音がエントランスに響いた。ふと目をやると扉が開き、箱からふたりの男女が下りてきた。片方は、先ほどの赤いメガネの男。もうひとりは――
「スマン、こわっしー。今日はサンキューっす」
袖をまくった青ジャージ、白Tシャツ、ハーフパンツを着衣した、素足にサンダルの少女だった。
「古株だからって、無茶しないでください」
ロビーには雪駄とサンダルの音が響き、春夏冬に気づくなり「どうも」と軽く一礼し、隣の少女も「どーもー」と
「あ、どうも……。って、ま、待って!」
通りすぎてゆこうとする非日常を、春夏冬は縋る思いで呼び止めた。本来は内向的な性格だが、四の五の言っていられなかった。
「受付の次は、居住区へ行ってみてください。タグにエリア書いてません?」
「エリア?」
春夏冬は、強制的に渡されたドッグタグに目を落とすと、二枚のうち一枚に英数字がゴチャゴチャと並んでいた。
AKINAI MARUOKA / FEMALE
11 NOV.
BLOOD TYPE : Rh(+)A
AREA WEST
02-02-08998
名前、日付、血液型、エリアは――西と書かれている。
「こわっしーってば、OLナンパしてんの? だったら丁寧に教えてあげな」
「ちげぇ。この人とは、さっきビルの前で会ったんですよ」
「あぁ、新入りさんか。チッスでーす」
メガネの男を押しのけるように前へ出てきた、身長一五〇ほどの少女は、春夏冬に近づきながら右手をヒラヒラと振ってきた。みぞおちまで下げたジャージのファスナーに、短めのボールチェーンで二枚のドッグタグを提げている。肩まで伸びたボサボサの黒髪は、容姿に無頓着な証である。
「アタシは
「あっ……
「はーい、アッキーね。落語家みたいな名前でカッコイイじゃん」
あゝ、
――ふと春夏冬は目を閉じ、思いきって思考するのをやめると、
「大体わかった。だぶん、ここ死後の世界だね」
状況を受け入れる姿勢を整えて、核心に迫った。
「ねえアッキー、『人はなぜ死ぬ? なぜ病気になる? なぜ老いる?』って、辞書で引いても明確な答えは出てこんよね。つまり、そういうことっす」
「えと、エリカちゃんだっけ? わたし哲学はニガテ」
春夏冬は、斜め上からの切り口に対応できなかった。『哲学が苦手』ではなくて、『考えるのが苦手』なのだ。考え抜いた結果、雑居ビルの屋上で酒盛りをしたのだから。
「エリカさん、
「答えは、『求める』じゃなくて『考えろ』ってことだっつーの。ったく、スマホばっか使って、知識を使い捨てにしてんだから。わかってるの、こわっしー?」
「え、はい……すみません」
軽い口調で語られる、重い言葉。
春夏冬が現世で求め続けた六文字は、いくら考えても見つからなかった。春夏冬は目を落として、黒か灰かもわからない床へ、青い息を吐き捨てた。
ほどなく一笑が耳に届くと、「案内したげる」と一言。ザノメエリカは先に出入口へ向かい、春夏冬を手招きした。一方、毅は「行ってらっしゃい」と、あっさりと別れを告げてきた。
――どうせ、考えるだけ無駄である。ザノメエリカには申し訳ないが、ここが現世ではないなら
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