第22話
自分の寿命というのはあと何年あるのだろう。とりあえず健康だからまだ当分はありそうに思う。
陽子はアフロとの契約について考えていた。
寿命から一年分の命。それと引き換えに叶える願い事。それがアフロの条件だった。
例えば80歳まで生きられるはずが、79歳で死ぬ。陽子はその一年分を後悔することがあるだろうか。想像もつかなかった。
概ね、人は自分の寿命など考えもしないで生きている。末期癌で余命いくばくとでもいうならさておき、いつ死ぬかは健康な時こそ考えもしないものだ。遠い未来のことなのか、それとも事故で突発的に死んでしまうのか。それが分かっていれば、もう少し利口に生きられるのに。
哲司も千夏も自分達の寿命など考えたこともないだろう。明日尽きるなんてことはもとより、一年後でさえも想像できないだろう。
今、陽子は彼らの生命与奪件を握っている。陽子はそのことについてなんの優越感もなければ、恐怖感もなかった。いや、むしろなにも感じないことが怖かった。
かつて愛した人の死を、かつての友人の死を望む自分がいる。それも今は静謐な感情で、言葉にした時の激しさは失われて、ただ二人の死によって訪れるすべてのドラマの完結だけに意識が注がれていた。
婚約者を奪われた陽子は人々の同情を集めている。が、哲司か千夏のどちらかが死ねば、恐らくその同情はそちらへ移るだろう。そうしてすべての真相は闇に葬られ、新たなドラマが人々の口にのぼり、語られていく。
陽子は早く時間がたち、すべての記憶が風化されればいいと思った。憐れまれるのは、みじめだ。
アフロは千夏と哲司のどちらを殺すのだろう……。陽子には想像もつかなかった。
どんな方法で行うのだろう。そして死はどのようにして訪れ、どのように連れ去って行くのだろう。
近しい人の死に、陽子は泣くことができるだろうか。彼らのために涙を流すこと。陽子に涙を流させた人の為に悲しむことができるなら、こんな願い事はしなかっただろう。
送別会の日、陽子は仕事を片づけながらぼんやりとオフィスの窓から見えている空を眺めていた。今日がアフロとの取り決めの日だった。
薄暮の中、疲弊したような空気が街を流れている。埃っぽくて、暑苦しくて、人恋しいような空気だ。こんな日に三人で飲んだことがあった。あれはまだ陽子と哲司が付き合い始めたばかりの頃のことだった。
三人でお好み焼きを食べに行き、いつものバーで飲んだ。三人とも、お好み焼き屋の油と煙の匂いを体中に染み込ませていて、マスターに笑われた。
あの時、哲司はまだそんなには陽子を好きではなかったかもしれない。二人の間はぎこちなく、お互いを知り始めたばかりだから会話は腹の中を探り合うようだった。しかし陽子はそれが恋愛の始まり特有のものだと思っていたし、甘い感情を従えての相手のリサーチは楽しかった。哲司はどうだったかは、知らない。それから、千夏も。
千夏はいつから哲司を好きだったのだろう。あの時から? それとも、その後から?
哲司は紳士的で、お好み焼きに丹念にソースを刷毛で塗り、三等分してそれぞれの皿に取り分けてくれた。陽子はそのマメなところに好感を持っていたが、千夏はどうだったのだろう。
二人からこんな形で裏切られるとは夢にも思わなかった。そして、その二人の死を願うようになるなんて。
今頃、千夏の送別会はつつがなく進行しているだろう。
かつて、二人はお互いの結婚式のプランニングは自分達でやろうとふざけて言いあっていた。陽子が結婚する時は千夏が、千夏がする時は陽子が場を仕切り、幸せの瞬間を完璧に演出し、永遠のものにしようじゃないか、と。そう約束した。それも今は遠い夢だ。
「あれっ、岡崎、まだいたのか」
会議に出席していた上司がデスクへ戻ってきて、まだ仕事をしている陽子を見ると頓狂な声をあげた。
「真面目なやつだな。まだ仕事してるなんて」
「宮本の送別会に行くんじゃないんですか?」
「ああ……、今から行っても遅いだろ。会議が長引いたな……」
「お疲れ様です」
「岡崎」
「はい」
「結婚なんてのはな、事故なんだよ」
上司は不意に切りだした。
「いや、恋愛そのものが、かな」
「……」
「事故は誰があってもお気の毒さまで、まあ、確かに過失割合でどっちがより悪いとか悪くないとかあるけど……。でも、事故は事故だろ。しょうがないって言葉で片づけるのはどうかと思うけど、でも他に言いようもないと思う」
「……」
「でも、当事者にしてみれば、被害者と加害者に分かれて争うこともあるだろうし、被害者は加害者を許せないこともある」
「……」
「だから、早く立ち直っていけるように、また、長く争うにしても本人の代理を務める保険屋がいて助けてくれる」
「部長」
「なにが言いたいかっていうとな、お前も事故っただけのことなんだよ。事故は、偶然だよ。で、今、お前を立ち直らせてくれる保険屋っていうのは、たぶん、幸せだった頃の記憶だと思うよ。思い出すのも腹立つかもしれないけどな。けど、思い出ってのは自分だけの都合のいいもんだ。過去を否定すると自分自身を否定することになる。後遺症残すような事故じゃなかったんだ。岡崎は、頭もいいし、仕事は……まあ、時々雑なとこあるけど、でもよくやってる。まだお前、頑張れるよ」
「……色々ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした……」
陽子は思いがけない上司からの言葉に泣きそうになり、慌てて立ちあがって深々と頭を下げた。
「どのみち宮本は去って行くんだ。岡崎はリハビリでもしながらのんびりいけばいいよ」
「はい……」
「さ、もう俺は帰らしてもらうよ。岡崎も適当に切り上げて、帰れよ」
上司は陽子の肩をぽんとひとつ叩いて、帰り仕度をするとオフィスを出て行った。
陽子はよろよろと窓辺に寄り、ガラスに額を押しつけるようにして眼下を見下ろした。
事故とはよく言ったものだが、陽子はその事故でかつての幸福な自分が死んだと思った。
オフィスのほぼ全員が送別会に参加している。きっと場は明るく、なごんだものになっているだろう。出席を渋っていた後輩たちだって、行けばそれなりに楽しく過ごしているだろうし、こんな事になってしまったとはいえ千夏には元々人望があった。
地上を行く人々の群れが陽子の目には小さな虫の隊列に見える。この中に悪魔が見える人間はいるだろうか。もしくは悪魔に願い事をしたことがある人はいるだろうか。いるとしたら尋ねたい。悪魔に願いを叶えてもらった後の人生どうですか、と。
初恋成就の男は妻に刺されて死んだという。でも、その後、妻や愛人がどうなったかはアフロは教えてくれなかった。一人の男を二人で争い、その当の男がいなくなったら女たちはどうするのだろう。その愛情はどこへ向かうのだろう。やはり終息を迎え、それぞれの立場へ帰っていくのか。妻は妻の立場、愛人は再び一人の女へ。
陽子はアフロを偶然というか、ある種の奇跡の力で呼び寄せてしまったけれど、それは一つの幸運なのだろうか。悪運ではなくて。どちらにしても陽子は運を使い果たした気持ちだった。
今や空は暮れなずみ、薄墨を流したような藍に染まっている。西の空に夕焼けの名残がわずかな光を残していた。
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