第20話

 一週間。陽子は自分がヤリ逃げされてしまったのかと思い、腹が立った。が、アフロに何かあったのではと心配でもあった。


 悪魔に何があって心配になるのか分からなかったけれど、今の陽子にはアフロは普通のそのへんのあんちゃんとなんら変わりはない存在に思えた。


 それならばとサンバホイッスルを鳴らすことも考えたけれど、これが本当にヤリ逃げだったり、陽子の体に気に食わないところがあったり、いや、陽子そのものに愛想を尽かしたのだったらと考えると鳴らす勇気がでなかった。


 ただ飲みに行くとかなら鳴らすものを、もうそんな気軽さはなく、あるのは悲しいまでに傷つくことを恐れる陽子の貧弱な心だけだった。


 もしや今日はと思い、帰宅してから食事の支度をして待ってみたりもしたけれど10分もすれば気持ちは萎えた。この瞬間もアフロは自分を見ているはずなのに。陽子は無視されていると思い、ひどく傷ついた気持ちになった。


 泣いても、腹を立てても、アフロは自分を見ている。見られていると分かっていて独り言を言うような感情の吐露はわざとらしくて、陽子にはできそうになかった。


 しかし、一週間である。陽子はいよいよ我慢ならなくて、今夜こそサンバホイッスルを鳴らそうと決めていた。


 職場では千夏の送別会の日も決まり、陽子は後輩と話した通り上司にお祝い金のことを話して全員からいくばくかを徴収した。無論、自分も払った。


 送別会の場所は二人でよく出かけたあのオープンカフェのあるイタリアンだった。陽子は自分も気にいっていたあの店に、もう行くことはないような気がした。


 千夏の噂はすでにおおっぴらにあちこちで聞かれるようになっていた。無理もない。すでに広まっていたとはいえ、もう退職も目前となると憚る気持ちもないのだろう。こうなると耳を塞ぐ気にもなれなかった。


 同情の視線を浴びる陽子と、冷たい視線を送られる千夏。間を埋めるのは無責任な人間の好奇心。


 陽子はブライダルデスクから回送されてきていた次のウエディングの予定やプランニングに目を通した。そこにはバルーンを使った装飾や、キャンドルではなく小さな花火の演出や、チョコレートファウンテンなどのプランが書かれていて陽子を困惑させた。


 バルーンも多用しすぎると子供っぽく、ホテルのイメージに合わないし、装花とのバランスなど打ち合わせが難しい。小さな花火はレストランでケーキに使うこともあるけれど、火薬臭いし、なによりバンケットなんかで大量に使うと火災報知機が鳴りかねない。チョコレートファウンテンもデザートビュッフェにいれたい気持ちは分かるが、招待客のフォーマルが汚れる可能性があるからあまり取り入れたいプランではない。


 書類にはまだ経験の浅いスタッフのハンコが押してあり、陽子は心ならずも千夏とはなんと違うことかと思った。


 千夏ならこんなことは考えつかない。いや、考えたとしても実現可能な範囲にアレンジするだろうし、もう少し具体的なプランを記入してくる。見積もりやイメージ写真だって添えてくるし、お客様の希望だって明確に回送してくる。そう考えると、千夏と手掛けた仕事は本当に充実していたことが今更のように思いだされた。


 紙吹雪の代わりにシャボン玉。チャペルに子供で構成された聖歌隊。和装でのブーケトス。一瞬の煌めきの数々。千夏だからできた仕事であり、陽子だからできた仕事がいくつもあった。


 上司の反対を押し切り、二人で厨房に無理を頼みこみ、時には中庭の植栽の一つ一つに二人でクリスマスの飾りを施したこと。赤と緑のベルベットのリボン。真冬の結婚式。徹夜で準備して、朝に仮眠室で二人で熱いココアを飲んだのも、あの熱さも甘さもはっきりと覚えてる。


 そんな二人の仕事を、その仲の良さを、哲司はいつも楽しそうに聞いてくれた。いい仲間と仕事してるんだなと言って、羨ましそうに。


「岡崎さん」

「えっ?」


 デスクでしばしぼんやりしていた陽子は、名前を呼ばれてはっと我に返った。


「お電話です。内線」

「あ、ごめん……」


 陽子は急いで受話器を取った。電話は件のブライダルデスクからだった。


「吉田です。岡崎さん、今、いいですか?」

「はい、どうぞ」

「えーと、ご相談にいらしたお客様からなんですけど……」

「うん?」

「夜、中庭での人前式で、イルミネーションつけたいって希望があって……」

「イルミネーション? 中庭に? 規模はどのぐらい?」

「どのぐらいならできますか?」

「いや、どのぐらいって……。お客様の希望はどうなの? それによって出来るか出来ないかは判断できるでしょう」

「とりあえず出来るんですよね?」

「どんだけのイルミネーションをイメージしてるの? まさか百万ドルの夜景を再現しろっていうんじゃないでしょ? もうちょっと具体的にまとめてもらえる? 宮本は? 宮本が前にそういうのやったことあるけど、資料ないの?」

「……聞いてみます」

「イルミネーションの備品資料、あとで回すから」

「はい」


 受話器を置いてから陽子は首をかしげた。変な電話。厳しいと恐れられている陽子よりも千夏に聞けばいいのに。それで不貞腐れたみたいな返答なんて、子供じゃあるまいし。


 陽子はそう思いながら、後輩に備品のリストをコピーするように言った。


「イルミネーションが欲しいんだって。去年のクリスマスにLEDライト買い足したよね。数、全部でいくつあったかな」

「岡崎さん」

「ん?」


 ファイルを手に後輩が陽子の前に来ると、他のスタッフをちらっと見てから言いにくそうに口を開いた。


「あの……、なんか、ブライダルの方が今微妙っていうか……」

「なにが微妙なの?」

「いろいろ噂されてて……」

「なに? はっきり言ってよ」


 後輩は怒られるのではとびくついているようで、おどおどと、今にも逃げ出しそうな及び腰になっていた。


「宮本さん派と岡崎さん派に分かれてるっていうか……」

「……なんの派閥なのよ。それは」


 ちょうどいいタイミングで、上司は会議に出席していてデスクにはおらず、オフィスは後輩ばかりだった。


 口ごもってしまった後輩に陽子は言った。


「あのね、みんなも聞いてちょうだい。そんな噂があるのは知らないけど、これはプライベートなことよ。仕事は仕事。関係ないわ。私にも関係ないのに、どうして回りの人間がそれに振り回されなくちゃいけないの。一体なんの派閥だか知らないけど、宮本はもう辞めるんじゃないの」


「でも、噂になってるんですよ。岡崎さんが宮本さんに慰謝料要求してるって」


 陽子は聞いた途端、ぎょっとして青ざめた。そんなことまで広まっているのか!

 陽子はぴりぴりしてくる神経をどうにか抑えながら、無理に笑って見せた。


 これも見栄というやつかもしれないが、この場合は仕方ない。ここで取り乱したり、怒ったりしたら後輩達が可哀想だ。


「誰が噂してるのよ。まったく」


「岡崎さん、そんな人じゃないのに。なんかもう、腹立って……。ブライダルの方では宮本さんの後輩の子とかが岡崎さんの悪口言ってるし……。私たち、本当は送別会だって出たくないんですよ」


「なに言ってるのよ」


「でも……」


「噂でしょ。噂。そんな事実はないから。心配しなくても大丈夫。とにかくね、仕事は仕事でちゃんとやろう? それに、送別会も。宮本にはあなた達も世話になったでしょ? 噂に翻弄されないで、気持ちよく送ってあげなさいよ」


「岡崎さんは大丈夫なんですか?」


「もちろんよ」


 大丈夫なわけあるか。陽子は本当はそう言いたかった。


 慰謝料のことまで知られているとは。喋ったとしたら、千夏以外にはありえない。陽子は千夏とランドリーで会った時の仕返しがこれなのかと、内臓の奥深いところが熱く煮えていくようだった。


 千夏との仕事のレポートをファイルからめくり、後輩にコピーの追加の指示を与える。陽子はこれが恋愛写真のようなものならこの場でまるごと焼き払ってやるのに。二人の軌跡を。しかし、そうすることができない以上、やはり方法は一つしかないと思った。


 アフロの力を借りるより他にない。いい仕事してきたのに。陽子は思い出ばかりが悲しかった。同じ人を好きにならなければ、二人は今も友達でいられたのに。袂を別った今、あるのは無残な思いと何度も再燃する怒りだけだった。


 帰宅した陽子はコインランドリーへ行き、洗濯をした。洗濯籠にはいつものように缶ビールが二本入れてあった。


 洗濯機が回っている間ベンチに腰掛け、片膝を抱き、ヘッドフォンで「リンダリンダ」を聞いた。そして小声で歌っていると、ランドリーの入り口が開き、アフロが現れた。


 陽子はどきりとしたが平然とした顔で言った。


「久しぶり」

 照れくさくてなんとなくぶっきらぼうな言い方になってしまった。

「雨が降りそうやな」

「うん、蒸し暑い」


 アフロは陽子の隣りにやってきて腰を下ろすと、籠の中からビールを拾い上げた。


「あんた、洗濯機買う気ぜんぜんないねんなあ」


「……だんだんこれに慣れてきたからね。慣れればそう不便でもないかなって思うし」


「そうか。まあ、そういうもんかもなあ。人間は慣れていく生き物やからな」

「悪魔は違うの?」


「いや、それは同じやろ。慣れていくよ。色んな事に。長く生きてるから、同じことが何べんも起きる」


 人間の女と寝るのにも慣れているのかと、陽子は尋ねたい気がした。が、黙って自分もビールのプルタブを抜いた。


「いや、違うか……。なんべんやっても、なんべんおうても慣れへんことってあるわ」


「煙草、持ってる?」


「あれ、あんた、吸うたっけ」


 アフロはジーンズのポケットから煙草を取り出した。銘柄はやっぱりラッキーストライクだった。


 陽子は一本取り出して口に咥えると、ライターで火を点けようとしてからふと思い直した。


「ねえ」


「ん?」


「火、点けてよ」


「ええ?」


「あれ、やってよ。ほら、前にスターバックスでやったやつ。ここなら誰も見てないし」


「ああ、あれか」


 陽子の頼みにアフロは体を斜めにし、二人向き合う格好になった。


 二人の視線が初めてまともにぶつかった。戸惑いが、瞬間、走る。


 アフロは無言で人差指を伸ばした。青い炎。すべてを焼き尽くす地獄の火。陽子はそれで煙草を吸いつけた。


 紫煙が漂いだすと、陽子は少し笑った。煙草の辛みが口中を満たし、吸いこむ咽喉に違和感があった。咳き込みそうになるのをかろうじてこらえ、煙草の先が燃えるにまかせた。


「前に話した、初恋成就のおっさん覚えとる?」


「ああ、あの人生やり直したいっていう……」


「それからどうなったんかあんた聞いたやろ。どないしてんのかって」


「うん」


「あれな、死んどったわ」


「え!」


 陽子はびっくりして煙草を落としそうになった。


「誰が? なんで?」


「おっさんが。嫁に刺されて」


「えええ!」


 アフロは自分も煙草を咥えると、ライターで火を点けた。陽子はアフロの眉間に苦々しい皺が寄るのを見つめていた。

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