第13話

 陽子は実家から届いた「酸っぱすぎて食べられない」夏みかんを箱から取り出すと、まずは試しに皮を剥いてみた。


 剥いた途端にその匂いに口中が唾でいっぱいになる。確かにいかにも酸っぱそうだ。分かっているのに確かめずにはおけないというのは好奇心というより性質だろう。


 緊密に締まった果肉を包む白い房を陽子は丹念に剥いて口に入れた。途端、頬が痛いほど窪み、思わず「ううっ」と唸りながら唇をすぼめた。


 震えがくるほど酸っぱい。まだ熟さない果実の味ではなく、永遠に酸っぱいままの、ある種のできそこないのような味だった。確かにこれではそのまま食べることはできないだろう。


 実家からの宅急便の中にはこの夏みかんの他に陽子の好きな地元のお菓子や、これもどういうわけだか母がよく送ってくる五穀米……白米に添加する、スティック状に小分けされたもの……や、何を思って同封するのかストッキングや手拭いが入っていた。


 アフロはこの宅急便を受け取った日から姿を見せていない。が、どこかから陽子とこの箱の中身を見ていると思うと、奇妙な気持ちになった。


 夏みかんが恐ろしく酸っぱいことや、地元の薄くて甘い固焼き煎餅について、陽子は一緒に見ているはずのアフロと感想だとか世間話だとかの雑談をできないことに違和感を覚えていた。普通そこにいれば話題を共有するものなのに。


 そう思うと陽子はサンバホイッスルを吹きそうになる。しかし呼びつけて話すほどのことでもないと思い直し、一人で箱の中身を片づけた。


 所詮は悪魔。いくら近くにいても遠い存在なのだ。陽子の微かな逡巡は感情と理性の間を揺れるようなものだった。


 陽子は夏みかんの皮を全部剥き、果肉だけを取り出して、皮はわずかな量だけを薄く刻んで果肉と共に砂糖に漬けこんだ。こうして一晩置いて、翌日に煮てジャムにするのだ。


 結講な量の夏みかんを剥いたおかげで部屋中がみかんの匂いに染まっている。陽子はその匂いを部屋に残してコインランドリーに行き洗濯をした。


 忙しいのかもしれない。陽子は洗濯をしている間、すっかり恒例となった缶ビールを一人で飲んだ。洗濯籠の中にはアフロの分のビールも入っていた。


 週末、いよいよ陽子の企画のブライダル・フェアの開催日がやってきた。


 朝から忙しく、見学者を迎える準備に追われあちこちに最後の確認で顔を出し、手にしたファイルをめくって各所をチェックしてまわった。


 陽子はまさに「現場監督」だった。後輩たちも指示通りにてきぱきと動き、段取りはスムーズだった。会場には見学者の相談デスクをいくつも用意し、持ち帰り自由のカタログ類も充分用意した。これまでのウエディングの写真もアルバムを用意し閲覧自由にした。


 正面に設けたステージと短いランウェイ。控室ではすでにサロンから来たヘアメイクさん達が準備を始めている。


 陽子は音響担当のところへ行き、タイムテーブルを確認すると、また会場へ戻ってきた。するとそこへブライダルデスクの若いプランナーが走ってきて、慌てた様子で陽子に、

「岡崎さん、すみません! いいですか?」

「うん、なに?」

 トラブルだ。陽子は咄嗟に身構える。が、できるだけ落ち着いた様子で、

「どうかしたの」

 と問い返した。


「今日のドレスのモデルなんですけど」

「うん」

「今、連絡入って」

「ドタキャン?」

「食中毒で運ばれたらしいんですよ!」


 陽子は興奮して思わず声が大きくなる後輩に、静かに、しかしぴしりと一言、

「声、大きい」

 と注意した。


 二人は並んで会場の出入り口へ向かって歩きながら、詳細を聞いた。


「うちのデスクの知りあいに頼んでたんですけど……。昨日、オイスター食べたかなんかで……」

「だいぶ悪いの?」

「おうちの方からの電話だったんですけど、今、まだ病院だそうです」

「そう。牡蠣はあたるとキツイからね。手があいたらこっちからも電話いれるわ。お見舞いはそっちで手配できるわね?」

「はい」

「その人、身長は? 予定のドレスのサイズは?」

「えっと……」

「宮本は? 控室にいる?」


 表面的には見せないが感情的に昂ぶっている時、陽子は無意識に早足になる。この時も陽子は後輩が小走りで追いかけてくるのを待つことも合わせることもなく、絨毯敷きのフロアを闊歩して控室へ突進した。


 ノックしてから扉を押し開けると、控室の中はドレスや小物で華やかな色に満たされていたが、その分だけ戦場のように慌ただしく、鏡前にずらりと女の子が並んで腰かけ、担当の美容師から化粧を施されていた。


 千夏も忙しそうにドレスの着付けを手伝っている。陽子はすぐにそちらへ行くと声をかけた。


「キャンセル出たって?」

「ああ、陽子!」

「サイズ出てるよね? 靴のサイズも。髪の長さは? スタイルも決めてあったでしょ」

「これ」


 千夏は自分のファイルからメモを取り出すと陽子に差し出した。


「代役、誰かそっちいない?」

「そうねえ……」

 女二人は腕組みをした。


 予定のサイズは割合に細めだ。陽子はその場にいるスタッフ全員に視線を走らせる。今から外部に手配しているヒマはない。ここにいる誰かで間に合わせなければ。

 と、その時、陽子にドタキャンを告げに走ってきた後輩が「あっ」と声をあげた。


「どうしたの」

 陽子がそちらを見やると、彼女はさも名案が浮かんだように顔を輝かせて言った。


「宮本さん、これ、サイズ同じじゃないですか?」

「えっ、私?!」

「髪の長さも同じぐらい……」

「私は駄目よ!」

 千夏は慌てて、ぶんぶん首を振った。


 陽子はそんな千夏を頭のてっぺんから足の先までじっと見つめた。


「私は今日は会場で相談係だもの」

「いや、いいわ」

 陽子は言った。

「千夏、ショー出て、その後から会場に戻って」

「ちょっと、陽子!」


 千夏はほとんど非難するように叫んだ。が、陽子はそんなことは知らん顔で、千夏の肩を叩いて笑った。


「さ、用意してちょうだい。ショー・マスト・ゴー・オンよ」

「本気なの?」

「ショーの間は会場相談係は人数いなくても大丈夫。千夏はショーに出て、それから現場戻って。メイクの担当は? あ、古川さん? すいませーん、古川さん! モデル代役はうちのプランナーの宮本でいきます!」

「陽子ってば!」

「時間、押してますね。すみません、お願いします」


 陽子は乱暴なまでの勢いで千夏を鏡前に押し出した。


 トラブル処理の安堵より千夏の慌てぶりがおかしくて、陽子は笑いながら千夏に手を振り、控室を出ようとした。


 美しく仕上がっていく、今日だけの花嫁たち。華麗なドレスの山。花と、煌めくティアラと、華奢なハイヒール。打ち上げ花火のような、ほんの束の間の輝き。陽子の胸は微かに疼いた。


 人生もイベントも予定通りにはいかないのは陽子の結婚話しと同じだ。いや、だからこそ、せめて仕事ぐらいは上手くいかせたい。でなければ立ち直ることなどできはしない。


 再びフロアを横切っていく陽子は、ことさらに背筋を伸ばしてまっすぐ前を見据えていた。


 会場にはすでにお客が入りつつある。陽子はインカムを装着すると、ステージ袖に入った。そこには上司もいて、陽子は千夏をモデル代理に充てた旨を報告し、腕に嵌めた時計を見た。ほぼ時間通りだ。これで予定の客数が入れば、司会者に出てもらい今日のフェアの説明や見どころなどが話される。


 先ほどのブライダルデスクの後輩が受け持ち箇所に戻ってきた。今日の担当はステージ脇での雑用諸々らしい。


「宮本さん、いい記念になりますよね」

 後輩が無邪気らしく陽子に言った。


「だいぶ不本意そうだったけどね」

 陽子はふふっと笑った。


 が、次の後輩の言葉に陽子の笑いは凍りついた。

「でも、宮本さん、お式もなんにもされないんでしょ」

「……えっ?」

「自分がこういう仕事してると、式や披露はしたくないんだって言ってましたよ」

「……え……」


 陽子は自分が今どんな顔をしているのか分からなかったが、後輩の不思議そうな、怪訝そうな表情からよほど強張って恐ろしい顔をしているのであろうことが推測できた。


 陽子はほとんと喘ぐように息を吸い、平静を保とうとした。


「宮本、結婚するの?」


「岡崎さん、まだ聞いてないんですか?」


「……」


「あ、もしかしてサプライズでオフレコだったのかな。ごめんなさい。まずいこと言ったなー……。今の聞かなかったことにしてもらえません?」


 後輩は拝み手になり、いたずらっぽく陽子を上目づかいに見た。


「お二人、仲がいいから、知ってると思ってたんですよー」


「あ、うん……。いや、知らなかったけど……」


「じゃ、やっぱりサプライズなんですよ。ひゃー、ほんとまずい。内緒にしてくださいよ?」


 陽子は鷹揚に微笑んでみせながらも心の中に苦いものがじわりと広がるのを防ぎようもなかった。


 千夏が結婚だって? それも自分にはサプライズのつもりで隠していた? いや、それは違う。陽子は唇を引き結び、すでに始まろうとしているステージをそっと覗いた。


 言わなかったんじゃない。言えなかったのだ。もしも自分が同じ立場ならそうしただろう。破談になった友達にわざわざ嬉しげに結婚の報告なんてできるものか。


 式も披露宴もしないというのも分かる気がする。サービス業に従事すると純粋にサービスに甘んじることができないものだ。少なくともホテルでやるような形式ばった式や披露宴はやらないだろう。


 しかし友人だけを招いての小さなパーティーぐらいはしたっていいんじゃないだろうか。そのプランはまだ組んでいないのだろうか。それなら陽子は自分が先駆けて面倒みてもいいと思った。それは同情からくるみじめさを払拭する為の行動ではなく、単純に千夏への友情だった。


 それにしても。一体、いつの間にそんな相手がいて、そんなところまで話しが進展していたんだろう。


 ステージには司会者が出て、フェア最初のウエディングドレスのランウェイショーのアナウンスをしている。いったん音楽がやみ、ふっと静けさが舞い降りる。


「岡崎さん、宮本さんの彼氏どんな人か知らないんですか?」

「あの子、案外秘密主義なのよね」

 陽子は肩をすくめて見せた。


 ショーのオープニング曲が大きな音で鳴り始めた。


 いよいよ始まりだ。陽子は真剣な目でステージを見つめる。見つめながらも、結婚はさておき千夏に彼氏がいたことも知らされていなかったのは諮らずも陽子を傷つけていた。


「あ、宮本さんの出番ですよ」

 後輩が嬉しそうに声をあげた。


 ランウェイを千夏が歩いて来る。ドレスの裾を優雅につまみ、美しく繊細なヒールを履いている。陽子はそれを眩しく眺めていた。


 その後もショーは順調に進み、休憩をはさんでヘアメイクの実演、会場内での相談会と誰もが持ち場で忙しく働いた。


 陽子も進行通りに進んでいるかを確認し、ブーケのアレンジのカタログをお客に配ったり、様々な質問に応えるべく何度も立ち止まり振りかえりしながら会場内を歩き回った。


 ショーを終えた千夏は制服に着替えて自分の担当デスクに戻り、今はにこやかに見学者の対応をしている。


 千夏のドレス姿はよく似合っていた。陽子は早く千夏が自分にサプライズで打ち明けてくれればいいと思った。そうしたら打ち上げも兼ねてまたいつもの店でワインを飲み、おめでとうを言いたい、と。そうできる自分でなければ。それこそ「大丈夫」でなければ。自分の為にも。陽子は背筋を伸ばして大股に会場を横切って行った。

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