エピローグ


 

 学校に戻ると、校門を抜けたところで、体育館のほうから賑やかな声が聞こえてきた。

「うっわ、盛り上がってるなー」

「行っておいで。僕は職員室で報告あるから」

「え、他の先生も皆あそこにいるよ?」

 職員用の出入口に向かおうとする先生に俺は言った。

「今日は一緒に食べる約束だろ」

「え、ちょっ…」

 ほら、と先生の腕を引いて、俺は体育館のほうへ歩き出した。



 想像していた何倍も、そこは騒々しかった。

「あ、のんちゃん!」

 体育館に入ってすぐの左、生徒会役員のために確保していた席で、来吏人がこちらに向かって手を大きく振っていた。他には誰もいない。長テーブルの上には食事を終えた跡があるだけで、みんなどこかを回っているようだ。

「おかえり、ふたりの分確保しといたよ」

「中園くん」

 嬉しそうに先生が笑う。

「久しぶりだね、最近は大丈夫?」

「うん、だいぶ調子いい」

「そう、それならよかった」

 親しげに話すふたりに、そうか、と俺は思い当たる。

 そう言えば来吏人は去年、よく保健室に行ってたっけ。

「なあ来吏人、おまえどっか悪かったの?」

 そう言う俺を見て、来吏人はぎょっとした顔をした。

「おわっ、なにその顔! 風間怪我してんじゃん!」

 その声に周りの視線が俺に集まってきた。風間おかえりーとあちこちから声が掛かる。俺は適当に手を振って応えた。

「あーちょっとチャリで転んだ」

「はあ?」

「うっそ! 俺の自転車!」

 平田が向こうからやって来る。その後ろには櫂がいた。目が合うと気まずそうな顔をしたけど、それも俺の顔の傷を見てなくなった。目を丸くするのが可笑しい。

「悪い平田、派手にこけた」

「嘘だろ、おまえは…っ、人がたまにしか乗らない自転車にたまに乗って来た日に限って…!」

 うわ、それはごめん。

「ほんと悪い、なんか好きなもん奢る」

 平田がちらりと俺の横を見て、また俺を見る。何かを察したらしい平田は、はあ、と大きくため息をついた。

「ったく、…まあ、何事もなかったんならいいけど。期待しないでおくわ」

「櫂もごめん」

「もういい。こっちこそ悪かったな」

 ふふ、と笑いが漏れた。こいつのこういうところ好きだ。

「ありがとな」

 肩を竦めて、櫂はふいと顔を背けた。その視線の先には来吏人がいる。でも先生と話している来吏人はまるで気がつかない。

「のんちゃんご飯食べなよ。ほら、ちゃんと取っといた」

「ああでも報告…」

「そんなの今誰も聞かないよ。あっち酒盛りしそうな勢いだもん」

 空いている席に来吏人は強引に先生を座らせて、俺に言った。

「風間も。なんか知んないけど、用は終わったんだろ」

「ああ、うん」

 ちら、と先生が俺を見た。

「おにぎりのほうだけどいいよな? パンのほうはさ、すげー争奪戦だったんだぞ」

「え、すごい、2種類もあったの?」

「そ! すごかったよー、じゃんけん大会になってさ、収集つかなくって。櫂がそれをまとめて仕切ったんだよ、な?」

「え、そうなのか?」

 櫂が、と俺は声を上げた。うっわ、それ見たかった。

「それはもういいだろ」

「見ものだったなー」

「やめろ」

 くすくす笑う来吏人に櫂は照れたように顔を顰める。性質は正反対のふたりなのに、見ていると本当にしっくりくる。不思議だな、と俺は思った。

「わ、美味しそう」

「美味かったよー」

 ランチボックスの蓋を開けて声を上げた先生に来吏人が笑って、俺を見た。

「座りなよ。飲むのお茶でい?」

「悪い」

 いいから、と来吏人は入り口に置かれた何台ものクーラーボックスに走って行った。その中にはペットボトルの飲み物が用意してある。購買から期限が切れそうなものを安く買い取ったやつだ。

 先生の横に座って、俺もテーブルの上の箱を手に取った。蓋を開けると、食堂のおばちゃんと散々悩んだ末に決めた通りのおにぎりセットが入っていて、嬉しくなる。

 想像していたのよりもずっと、すごく美味しそうだ。

「それで、そのパンのほうは誰か食べたの?」

「ああ、それは…」

「おれっ、おれが食べたよー先生!」

 平田を遮って、松島が言った。いつの間に戻っていたのか、松島と薮内がパイプ椅子を引く。

「中身カツサンドとメンチカツサンド、しかもいつもの倍の厚さ」

「あーそれは争奪戦になる」

「購買で一番人気のやつのちょっといいバージョンだもんなー、めっちゃ美味かったよ」

 パンのランチボックスは購買に卸しているパン屋に頼んだ。そこのパン屋と薮内の家が近く、店主とは顔見知りだとかで全部任せていた。出来上がりのサンプル写真を見たことはあるが、食べたことはなくて──予算の都合上試食は断念するしかなく──それは俺も食べてみたかった。死ぬほど美味そうだった。

「お、うっま」

 大きめに握られたおにぎりを頬張ると、中から鮭と昆布がほろりと出てくる。所謂山賊おにぎりというやつで、焼きたらこも入ってる。ふた口目を頬張ると、今さらのようにぐう、と腹が鳴った。自覚するよりもずっと俺は空腹だったらしい。

 風間くん、と先生が言った。

「大成功だね。みんな楽しそうだよ」

 俺を見て微笑む。

 騒がしさを増す体育館の中を俺は見回した。

 みんな笑ってる。

 本当に楽しそうだ。

 日常の延長線の先にある、何でもない、ささやかな日常の非日常。悪くないな、と思った。

 楽しく過ごすことは、何ものにも代えがたい。

 特別な今日は、すごく良い日だ。

 誰かがステージに上がりマイクを取って歌い出す。

 わっと歓声が上がって、見る間に宴会の様相になっていく。先生たちもそれを止めたりせずに和田を筆頭に手を叩き合って囃していた。こういうときは率先して盛り上げ役になる、ちゃっかりと抜かりないやつだ。

 俺は笑った。

「うん、ほんと、よかった」

「頑張ったね」

 うん、と俺は頷いた。

「ね、せんせ」

「ん?」

 平田も薮内も松島も、櫂も来吏人も皆がステージに気を取られている隙に、俺は先生のほうに少し身を屈めた。

 そう、ひとつ忘れていたことがある。俺の何でもない日常の、特別なこと。

 美味しそうにおにぎりを食べる先生の耳元でそっと囁く。

「ご褒美、…期待してい?」

 びく、と肩が震え、上目に無言で睨まれる。可愛いな。

「そ、っ、そういうの──」

 わっと上がった歓声に先生のその声は掻き消されて。

「──」

 もう一度囁くと、先生の白い耳は見る間に真っ赤になっていった。



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