9.聖ドラグス暦1859年、王都メルヘアⅡ
意外にもこれをきっかけにオスカーはレイチェルと親睦を深めることになった。オスカーの「顔も知らなかった」レイチェルはそれがきっかけでオスカーのことを思い出す、なんてことはなかったが。
もちろんアラン・スミシーとして彼女からの手紙も受け取っていた。新学期最初の手紙とは打って変わって、信頼しているアランおじ様にオスカーのことを語るくらいにはなっていた。本のお礼を考えてくれているのもいじらしい――レイチェルが「周囲の勝手な期待」をあまりよく思っていないことには落ち込んだが、前回の散々な評価から一転したことを思えばほっとすることができた。
学院の最初のひと月が終わる頃、レイチェルはお礼と共に本を返しに来た。その間レイチェルはアラン・スミシーに手紙を出さなかったので、オスカーはレイチェルのお礼を素直に驚いて喜ぶことができた。彼女がお礼に何を持ってくるのか知っていたら、きっと何故知っているのかバレないように気を遣わなければいけなかっただろう。外面がいいのでごまかせるだろうが、レイチェルにはそういう姿をあまり見せたくないのは本当のところだ。
それからレイチェルはたびたびオスカーに会いに来てくれた。研究所に彼女の興味を惹くものが多かったのもあるかもしれないが、それだけではないといいのにとオスカーは願っていた。魔術以外の勉強を教えてやることもあり、レイチェルはオスカーを兄のように思ってくれているようだった。今までの接点のなさに比べたら本当に幸福だ。
彼をよく知る友人や彼の家族――彼の上っ面にだまされていない人たちはオスカーが新しい魔術を見つけた時以上に浮かれきっているのに気づいてそれを微笑ましく見守っていた。
「えっ?」
そのふわふわと花畑を散歩しているような気分で毎日を過ごしていたオスカーに冷たい水を浴びさせたのは他ならぬレイチェルからの手紙だった。
オスカーの自惚れでなければレイチェルはこの頃オスカーに会うのを優先して、あんなに信頼しているアランおじ様への手紙の間隔があいてしまっていた。元々の約束は月に一回なので問題のない範囲だったし、何しろアランおじ様であるオスカーが直接レイチェルに会っているのだから気にしてはいなかったがやはりこうして手紙をもらえるのは嬉しかった。
そう思っていたのに――雫草の栞の話からはじまって、その内容はほとんどオスカーのことだったが、どうしても無視できないことが書いてある。彼女の両親が彼女の結婚相手を本格的に探しはじめ、どこぞの伯爵家の夜会に行かなければならなくなったとあるのだ。
オスカーは彼女の両親にアラン・スミシーではなくオスカー・ローラントとして何かしらアプローチをかけなかったことを今更ながらに悔やんだ――レイチェルが旗手伯爵家であるメアホルンの一人娘だったことと、主家トゥーランの嫡男であるオスカーが婚約したいと口にすればレイチェルや彼女の家族は断れないだろうということはわかっていた。だからこそ、オスカーは何のアプローチもしてこなかったのだ。
その晩、王都のローラント邸に帰るとすぐにオスカーは自分宛てに届いた夜会の招待状からレイチェルの言っていたどこぞの伯爵家で行われる夜会のものを捜しあてた。そしてすぐにそれに出席すると返事を送った。あとはレイチェルだ。
幸い、夜会の少し前にレイチェルはまたオスカーのところにやって来た。本を貸す約束をしていたからだが、オスカーが何か聞く前にレイチェルは彼に夜会の話を持ち出した。相当行きたくないらしい。言葉以上に顔に書いてある。
「僕が一緒に行こうか?」
オスカーはためらわずにそう言った。
「えっ?」
「独りで行くのに気乗りしないんだろう? 僕がパートナーになるよ。幸い、君と僕は幼馴染と言っても差し支えない間柄だし……君は覚えてなくてもね。何か聞かれたら、パートナーがいないのに夜会に行かないといけなくなった君を幼馴染が助けてくれたということにすればいい」
「で、でも……両親は……」
「君のご両親は君にどうしてその夜会に行かなければいけないかは言っていないんだろう?」
はっきりとした口調でオスカーは言った。おそらく単身娘を向かわせてパートナーがいないことをいいことにその次男坊の相手をずっとさせるつもりなのだろう。十七歳の一人娘に婚約者を候補すら用意できていないことに焦っているのかもしれない。しかし、理由は何であれレイチェルがかわいそうだ。オスカーの気持ちは抜きにしても。
もっとも、メアホルン伯爵夫妻は田舎を愛する穏やかな気性なので、彼らの旗下子爵家があれこれ口を出した可能性もいなめない。主家であるとはいえ、オスカーは現在魔術師団長としての仕事が忙しく、領内――トゥーランやその旗手や旗下の家々のことまで気が回らなかった。
レイチェルはまだ困惑したままだった。「オスカー様に迷惑をかけるのは……」と遠慮しはじめたレイチェルに、説得しなければとオスカーが焦る羽目になった。
「ほ、ほら! 僕もたまには自分で虹色の瞳の女性を捜しに行かないといけないし……」
口から出た言い訳にひどい後悔が襲ったが、オスカーは必死にそれを覚られないようにした。レイチェルは眉を下げてオスカーを見ていたが、一緒にいた侍女がしきりに促したのもあってやがて小さな声で「ありがとうございます」とお礼を言った。
週末の夜会にオスカーがレイチェルを伴って現れた時、主催の伯爵夫妻は目を白黒させた。肝心の次男坊は夜会にいた令嬢たちの間をふらふらしていたから、本当に両親同士だけで話したことだったのだろう。メアホルン伯爵夫妻に悪いことをしたかな……と少し申し訳なく思いながら、オスカーはすすんでどこぞ伯爵夫妻に「幼馴染が独りで夜会に参加することを不安がっていたので」と言い訳をした。
レイチェルはずっと恐縮していたが、オスカーには幸いなことにレイチェルの存在によって令嬢たちや娘を売り込みたい貴族たちに声をかけられる頻度がぐっと減った。好奇心ややっかみも向けられていたが、それは後でどうにかするしかない。
夜会が終わって週が明けるとすぐにレイチェルからアランおじ様宛ての手紙が届いた。夜会の間ずっと恐縮していたレイチェルを思い出して少し不安に思いながら手紙を読んだオスカーは、石をそのまま飲み込んだような気分になって固まり、侍従が心配そうに声をかけるまでしばらく動くことができなかった。
そして恐れていた日は訪れた。
その週末、レイチェルが借りていた本を返しに来た。そして、オスカーにはもう会わないと告げたのだ。体中から血液が抜けたように冷たくなり、指先も震えたが、オスカーは何とかそれを隠してレイチェルに優しく理由をたずねた。「両親に婚約者でもない男性と夜会に行ったことを注意されてしまったから」という返事に、オスカーはもう何も言うことはできなかった。いくらオスカーがメアホルンの主家であるトゥーランの人間でも、それとこれとは話は別だ。オスカーの両親だって姉が婚約者以外と夜会に行くと言ったら反対するだろう。
本当に軽率だった。浮かれきっていた。レイチェルの手紙にあった瞳の色を変えるレンズのことを調べたり、魔術師団長としての多くの仕事をこなしたりすることで気を紛らわせていたが、気持ちはずっと落ち込んだままだ。
その上、レイチェルがあの次男坊とお茶会や夜会に出席していると噂で聞き、彼はますます憂鬱な気持ちになった。令嬢たちの間をふらふらしていたくせに、レイチェルとの婚約に乗り気なのだ。レイチェルの両親が心からレイチェルを想っているのはわかっていたが、王都に明るくない彼らは次男坊の素行の悪さを知らないのだろう。どうにかしてやりたかったが、オスカーは他人。身分は上だがそれを使うのは好まないし、口出しできるはずがない。
色々と思い悩んだ末に、オスカーは忙しい仕事の合間を縫ってどこぞの伯爵家やメアホルンの周囲について個人的に調べることにした。あの伯爵家はどこかの旗手ではないが、領地は農業が盛んで特に花農家が多かった。その花を加工する技術も優れている。ドライフラワーなどはもちろん化粧品や食料品にも加工され、更には花を利用した染め物が有名だった。
メアホルンの特産品の一つに羊毛があるので、つながりができれば商売になるだろう。主家であるトゥーランには国一番の商会がある。オスカーの祖父がはじめた商会だ。
一方で、穏やかなメアホルン伯爵夫妻と違ってどこぞの伯爵家は多少金にがめついところがあるようだった。詳しく調べると、オスカーがちらりと予想したようにメアホルン伯爵夫妻にどこぞの伯爵家を紹介した者がいた。幸い旗下子爵家ではなかったが、メアホルンに土地を持つ豪農で、伯爵夫妻が邸宅で領民も招いて開くパーティーにその者も参加し、どこぞの伯爵家の人間と引き合わせたらしい。
伯爵夫妻が娘のレイチェルの婿を探しているのは領民も知っていた。豪商はそれなりの額の金銭をもらい、橋渡しをしたのだ。もっとも言い出したのはどこぞの伯爵家の方らしい。トゥーランとの繋がりが欲しかったようだった。その上、素行が悪いせいで婿入り先が中々決まらない次男坊をついでに片づけようと考えた。
こんなことを調べて何になるんだと頭の中の冷静な部分は訴え続けていたが、オスカーは調べるのをやめられなかった。レイチェルの結婚の邪魔をしたくなるばかりだ。これをメアホルンに提出すれば、すぐに話はなかったことになるだろう――オスカーは調べたことがきっちり書かれた書類を封筒に詰め、誰にも見られないようにきっちりと封をしたのだった。
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