貯水湖の底
ヒロ田
ヨーグルトは
診断メーカー「あなたに書いて欲しい物語」よりお題をお借りしました
どうか許さないでくれ
幼いころからずっとそう思っていることがある。実際、許されていないと思う。
顔を洗う際に少しだけ濡れた髪をタオルで無造作に拭いてから、子供は食パンとジャムが用意されたダイニングテーブルの席についた。母親がキッチンで作業する音とテレビから流れる音が聞こえて、子供は食パンにジャムを塗ってかぶりつきつつ、テレビで流れる面白味のないニュースを流すように見つめている。
「康広、今日はどれくらいで帰ってくるの」
「おっくんと遊ぶから六時くらい」
「わかった、あんまり遠くに行っちゃだめだからね」
洗い物をしつつ、朝から活発的な母親の声に子供はつられる様に食パンにかぶりつく口を大きくした。最後の一口を喉に流し終え、飲み物を飲もうと手を伸ばす。
「康広、ヨーグルトは」
「パパのもの」
そう言って、コップを口につけ、一気に飲み込んだ。
ごちそうさまと声を上げて、ランドセルを背負い、玄関へ急いでいった。後ろで母親が皿を運べだの、食後にあんまり激しく動くんじゃないだの、小言が聞こえるが聞こえないフリをした。行ってきます、と声をかけ、玄関を開けて外に出る。
隣のうちからはヒステリックな女性の声が響いて聴こえてきた。「アンタなんかウチの子じゃないッ!!」という言葉が何度も何度も耳を劈く。
「(さゆりちゃんのお母さん、前は優しかったのにな)」
一年前から隣の幼馴染であるさゆりという女の子が学校に来なくなった。その頃から、さゆりの母親は先ほどのように近所に聞こえるような大声をあげるようになった。たまに見えるさゆりは、ところどころ怪我をしているようだった。
それを大人は無視している。子供だってそうだ。康広は不思議には思うが、それをどうこうしようとする気はなかった。
授業も終わり、ランドセルを家に置きに行く時間も惜しいと感じる放課後に、康広は数人の友達とランドセルをそこらへんに置いて、鬼ごっこやらかくれんぼやらをしていた。
康広も何度か鬼をして、今は友達の一人がかくれんぼで鬼をしていて、秒数を数えているところだ。山のふもとで、どこか見つけづらいところはないだろうかと探して、康広はふと来た道を振り返った。
「あ、あれ、知らない道?」
康広は一気に冷や汗をかいた。山の奥には行っていけないと何度も大人たちに言われていた。康広にとってはふもとで隠れられるところを探しているつもりだったが、いつの間にかいつもは来ないところまで来てしまったようだった。
「ど、どうしよう、お母さんに怒られる」
少し前にショッピングモールに行ったときに興味惹かれるおもちゃコーナーの前でずっといて家族とはぐれたときのことを思い出し、康広は顔を青くさせた。その時の母親は本当に怖かった。かくれんぼで負けてもいいから、早く友達に会いたかった。
来た道を戻ろうとしたところで、横からガサッと音が聞こえた。おそるおそるそちらへと視線を向ける。
「さゆりちゃん……?」
そこには短く切りそろえられた髪がよく似合う少女がいた。それは隣のうちのさゆりだった。
「何してるの? さゆりちゃん、一緒に帰ろう。ここにいたら、怒られちゃうよ」
「康広くん、さゆり、ママに会いたい」
さゆりに向かって手を伸ばすと、さゆりはその手を取って、顔を俯かせた。さゆりは一年前に普通に遊んでいた時と何ら変わらない様子だった。一緒に遊んでいたころのさゆりは、さゆりの母親が大好きで、いつでもさゆりの母親が見えると一目散にそちらへ走って行ってしまっていた。
「帰ったら会えるよ。さゆりちゃんは道わかる? 来た道を戻ろうと思ってるんだけど」
「うん、わかるよ。こっちだよ」
顔を上げたさゆりと目が合い、さゆりが引っ張る方向へと康広は歩を進めた。何色にも染まらないようなきれいな漆黒の瞳は鏡のように康広の姿を映した。
歩いている方向は康広が来た道とは全く違う方向だった。むしろ、山の奥へと進んでいるようにさえ感じた。
「さゆりちゃん、ここ、本当に帰れるの?」
「帰れるよ。ここだよ」
さゆりが連れてきた場所は木々に覆われて、一切陽の光が差し込まない不気味な場所だった。
「連れてきたのか」
暗闇だと思える空間からぬるっと現れた古びたローブのようなものを着た男は表情が全くうかがえず、不気味で怪しかった。
ヒッと思わず喉が鳴った。お化けだと言われても違和感のない存在だ。
「うん、康広くん。さゆりの隣のうちの子だよ」
それに対してさゆりはまるでこの存在に慣れているかのように普通に言った。声が上ずったり、びくりと体が震えたり、そんなこと一切なく、ただただ、まるで当たり前のように対応していた。
「ねぇ、さゆりちゃん。帰ろう、帰ろうよ」
ただならぬ気配を感じ、さゆりとつないだ手を引っ張ってきた道を戻ろうとする。
「小僧、悪いが帰れるのは一人だけだぞ」
それを阻止するかのように声がかかる。低く響くような声は康広の恐怖をあおるのに十分な効果を発揮する。
「え」
「お前か、さゆり、どちらかだけだ」
「なんで」
「理由などいいではないか。とにかく、選べ。どっちが残って、どっちが帰るんだ」
怖かった。怖くて怖くて、一言を出すのがやっとだった。康広が震えている間も、さゆりはただただ佇んでいるだけだった。つないだ手の先が震えていないのが、今は落ち着く作用をせず、ただ不気味だった。
「う、うわあああああああ」
とにかくその場から逃げたかった。帰りたかった。
康広はそこから逃げるように来た道を全速力で走った。振り返る余裕もなく、ただただ走り続けた。
さゆりの手をとって一緒に帰るなんて選択肢も取れなかった。帰りたいと思った瞬間に、さゆりの手を振りほどいていた。
「康広くんのうそつき」
山の奥、後ろの方からそんなさゆりの声が聞こえた気がした。
人生でもう、これ以上走ることなどないんじゃないかと思うくらい康広は一生懸命走った。そして、気が付いたら見知った場所に出ていた。
日はすっかり落ちていて、街頭には蛾が群がっている。
走って体力がつきたからか、考える余裕までなかったからか康広はその場で呆然としていた。そうしている康広に突然鋭い光があたった。思わず、目を瞑ってしまう。
「いたぞ!」
光に目が慣れて薄く目を開けると、そこには近所のおじさんがいた。おじさんが声を張り上げると、他にもライトを持った人が何人も康広の方へ来た。その人たちはみな、康広が知っている大人たちであった。
「康広!!」
興奮したせいで高くなった声がその場に響いた。そちらへ視線を向けると、こちらに走ってきている母親が目に見えた。
「お母さん」
「康広、ヨーグルトは」
母親は康広に駆け寄って目線を合わせるためにしゃがみこんで、両肩をつかんできた。必死な様子に康広は少し圧倒されてしまった。
「パパのもの」
昔、母親との間にだけ作った合言葉。父親とも合言葉はあるが、それは母親のものとはまた違ったもので、それを母親は知らない。
康広の答えに、母親は本当に安心したようでぎゅっと痛いくらいに力を込めて抱きしめられた。
「よかった、本当によかった」
肩に伝わる温かい涙に触発され、康広も母親を抱きしめ返し、ぼろぼろと泣き始めた。
「ごめんなさい、お母さん、怖かったよ、怖かった!」
「うん、うん、そうだね、康広が無事でお母さんは本当によかった。おうちに帰ろう」
「うん、帰りたい」
手を取って歩いた帰り道の間も涙は止まらなかった。しゃくりながら泣いている康広を、母親は「いつまで泣いてるのよ」と無理やり明るくした声をかけた。それが余計、康広の涙腺を緩くした。あぁ、帰ってこれたんだ。本気でそう思った。
次の日、さゆりの家からは誰もいなくなった。さゆりに対する虐待が認められ、さゆりの母親とさゆりが別々に保護されたからだ。この町で最後に見たさゆりは髪が無造作に伸ばされて、服で隠れていない肌の部分にも痣が見えていた。あの日見たさゆりと全くの別人のようだった。
「いつき! いつき、どこだ!?」
男は焦った様子で声を張り上げた。足も忙しなく動いていて、山のふもとで小さい子供が入り込めそうなところを重点的に探している。
周りの大人も協力してくれていているが、男から焦りが消えることはなかった。喉が枯れる心配もせずに声を張り上げ続ける。
「パパ」
子供の声が聞こえた。瞬時にそちらの方へ顔を向けると、そこには男にどこか似た小さな女の子がいた。
「いつき、ダメだろ。山の奥には行っちゃだめだって言ったじゃないか」
「ごめんなさい」
女の子の方へ男は駆け寄ってしゃがみこんだ。男が注意を促すと、女の子はバツが悪そうに顔を俯かせた。
「パパ、帰ろうよ」
顔を上げ、男と目を合わせ女の子は無邪気にそういった。漆黒の瞳が男の姿を鏡のように映した。
男は女の子の目を見た瞬間、瞳を揺らした。つうっと冷や汗が頬を伝い、笑顔がひきつりそうになる。
「いつき、ヨーグルトは」
「なに? パパ、ヨーグルト買ってくれるの? やったー!」
楽しそうに言った女の子に男は笑い返した。
あぁ、もう遅すぎた。
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