第8話

 翌日さっそく夢を書いたノートを屋上で見せると、夕はまるで自分のことのように喜んだ。無邪気な笑顔で、そこには優しさと慈愛しかない。美空は、その笑顔をもっと見てみたいと思った。


 生徒会長が、憧れで手の届かない所にいると思っていた人が、こんなにも親しくしてくれる。特別な存在として、自分の側で隣で笑ってくれることが、優越感のように思えて、美空はなんて贅沢なんだろうと思ってしまった。


 まるで穢れを知らない天使のような夕の笑顔は、生まれたての純粋さがにじみ出ている。その横顔を見るだけで、美空は幸せな気持ちになれた。


「いいねいいね、放課後に遊びに行くの。でも、僕と一緒でも大丈夫?」


 夕ははしゃぎ終わってから、ふと真顔になってしまった。それに、美空はもちろんとうなずく。夕と一緒に叶えるお願いなのだから、夕が一緒でなければ意味がない。


「先輩と、行きたいです」


「嬉しい。美空くんならそう言ってくれると思ったよ。ありがとう」


 夕の手が伸びてきて、美空の頭をポンポンと撫でた。美空は思わず恥ずかしくなって、うつむいて下唇を噛んだ。


「僕と一緒に、やりたいことを一つずつ叶えて行く約束だもんね」


 そう言われて、美空は瞬時に夕が気を遣ってくれていることを理解した。その言い方には、「僕でいいのかな?」という疑問が隠されていた。約束だから無理やりに放課後の貴重な時間を僕に使っていいの、と目が問いかけてきている。


 それに美空はハッとして、思わず夕を見上げた。むしろ、少し身を乗り出して、夕に詰め寄るようにした。


「約束とかじゃなくて、ただ、先輩と行きたいって思いました。先輩こそ、私なんかにつきあわせてしまって、嫌じゃないですか?」


 そう言った美空のほっぺたを、夕がむんずと摘まんだ。指先でさえ、夕の手はひんやりと冷たい。触れられると、すぐに冷静さがやってくるような手だ。


「自分なんか、って言っちゃダメだよ。自分を卑下するのは良くない。美空くんは、もっと自信を持っていいんだ」


 ちょっとだけ眉をしかめられて、美空は夕はこんな顔もするのだとまじまじと見つめた。人間らしい表情とでもいうべきか、いつも穏やかな顔をしているので、それはなんだか新鮮に思えた。マイク越しでは分からない、語尾だけが少し掠れる声も、すでに美空にとって心地良い。そして、それが妙に人間っぽくて好きだった。


「自分に自信があったら……飛び降りようなんて考えません」


 美空がなんとなくぽつりとそう呟くと、それもそうかもね、と夕はいつも通りに穏やかに笑う。ほっぺたを摘まんでいた手は過ぎて、美空の頭をポンポンと撫でた。


「自信なんてこれからつけて行けばいいさ。じゃあ、今日の放課後、僕とお出かけしよう」


「今日ですか?」


 うん、と夕はうなずく。時間は有限だよ、とその目が語っていた。


「今日じゃなかったら、また行かなくなっちゃうでしょう?」


 たった数回しか顔を合わせず、会話もしたことがないのに、夕は美空のことをよく理解しているようだった。まったくもってその通りで、美空はノートに書くだけ書いたものの、いざ実行しようとすると、足がすくんでしまう。


「だから、今日の放課後だよ。絶対に」


「分かりました。あの、帰りが遅くなる親への言い訳、一緒に考えてくれませんか?」


 美空の申し出に、夕は目をまん丸くして、笑いながら承諾した。結局、委員長の仕事を頼まれてしまって、かなり遅くなるということを両親にメッセージで伝えたのだった。


 ここでやっと、押し付けられた委員長が役に立ったと、美空は初めて感謝した。今まで何のメリットも無かったが、今こうしてやっと委員長というものが隠れ蓑として役に立つ。


「委員長の仕事は、プリントの整理、先生の手伝い、それからそうだね……生徒会の雑用も手伝うことになったって言っておくのはどう?」


 夕がいたずらっぽく美空を見つめた。


「どうしてですか?」


「そうしたら、これから先の放課後、遅く帰ることがあったって、その言い訳でどうにかなるでしょ?」


 美空は胸が激しく高鳴った。それは、これから先の未来、この先輩と放課後を一緒に過ごす機会が増えるということを暗示しているのだ。人気者を独占できる優越感ではなく、ただただ単純に、夕と一緒に過ごせることを美空は嬉しく思った。


「僕を隠れ蓑にするといいさ。君のやりたいことを叶えるためだったら、僕はいくらでも盾になるよ」


 おとぎ話の世界の王子様がつぶやくような台詞を難なく口にしながらも、その言葉には魔法が含まれているのか、すんなりと耳に心地よい。美空はその魔力に引き寄せられるかのように、いつの間にかうなずいていた。


 さっそく、委員長の仕事の他に、生徒会の仕事を手伝うことになったと昼休みにメールで伝えると、すぐさま両親から返事が来た。それは内申書に書いてもらえることかどうかを聞かれたので、とっさにそうだと答えると、両親は喜んだ。


 そんな両親からのメッセージを見つめて、美空はなんだか力が抜けてしまった。


「あっけないなあ。内申書とか生徒会って言えば、何でもありじゃない」


 嘘をつくのは悪いことだという罪悪感は減った。内申書、成績、良い進学先と就職先にしか興味のない両親。それはもちろん、娘に対する愛であり心配であることを理解しつつも、本当に向き合ってくれているのか疑問に思った。


 両親が見ているのは、自分という存在だろうか。それとも、自分のスキルやスペックだろうか。娘を善い学校に進学させたい、どうか幸せになって欲しいと、苦労させたくないと思うあまりに、見ている視点がずれていないだろうか。


 美空は今は、両親よりも夕の方が美空という人間を理解し、そして向き合って見てくれていると感じている。家族だからと言って、心がずっとその人のために寄り添っているかどうかと言えば、そういうことでもないのだ。家族だからこそ、幸せになってもらいたいからこそ、押し付けてしまうことだってある。


 美空はそれを急激に痛感していた。


(先輩の方が、私のことを見てくれている……神様ってすごい)


 美空はそんなことを思いながら、両親についた嘘はほんの少しだけ心が痛んだけれども、放課後のお出かけに胸が高鳴った。

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