第4話 異形の侵略者

 朝日が差し込み、眠気が少しずつ払われていく。ゆっくりと覚醒していく視界の中で、ルミは様々なものを見た。

 大自然を構成する緑色の木々。焚き火を踏みつぶし、何やら装備を点検している青年。そして白く小さな手を這っている、虫だ。


「う、わあぁぁぁぁあああっ!?」


 正しく状況を理解すると同時に、ルミは飛び起きながら腕を半狂乱で振り回した。宙を舞ってどこへ消えていく虫。それを見届けても、まだ肌に引っ付いている気がして、全身をくまなく点検する。

 小柄な身体。胸のあたりの膨らみ。丈の短いワンピース。どこからどう見ても、少女の肉体だ。


「なんで僕、女の子に!?」


「朝から騒がしいな」


 何処か吐き捨てるような声に顔を上げる。黒髪の青年アベルが、呆れたようにルミを見下ろしていた。

 それでようやく思い出す。ゲームに瓜二つな世界に迷い込んでしまったこと。その時、サブアカウントで使っていたルミという少女の身体になってしまったこと。そして、アベルに助けてもらったことを。


「そうだった……夢じゃないんだ……」


「寝ぼけてるのか? ほら、目覚まし代わりに食え」


「あ、ありがとう」


 木彫りの水筒と麻袋を手渡された。水筒には当然、水が保存されている。ならこちらは何だろうと麻袋を開くと、乾燥した肉のようなものが入っていた。


「干し肉だ。あまり質は良くないから水で流し込め」


「……実物は初めて見たなぁ」


「まずくてもちゃんと食えよ。途中で倒れられても困る」


 一体ルミを何だと思っているのか。非常事態で食べ物の味に文句をつけるほど我儘なつもりはない。思いっきり、齧り付いた。

 硬い。小さくなってしまった口では、噛み千切ることも難しい。水筒を脇に挟み、両手で干し肉をもって、全力で肉を引きちぎった。ゆっくりと咀嚼する。味が濃い。塩の味が酷い。

 だが、肉の旨味も確かにあり、決して食べられないわけではなかった。水を一気に煽る。


「あれ、アベルは食べないの?」


「俺は……さっき食った。気にせずに食え」


「ならいいんだけど」


 少しずつ噛み千切っては咀嚼を繰り返し、ルミは干し肉を平らげて見せた。


「ごちそうさま。何から何まで本当にありがとう」


「気にするな。じゃあ行くぞ。結構歩くからきつかったら言え。それと……」


 既にアベルは荷物の準備を終えており、ルミの荷物は服と片手剣が一本だけだ。腰のベルトに鞘ごと剣を取り付けようと四苦八苦していると、アベルが声をかけてくる。


「その剣、俺が持つか? 重いだろ」


「いや大丈夫、大丈夫。これぐらい……良し」


「……本当に大丈夫か?」


「大丈夫だって!」


 転移直後のように、しっかりと剣は腰に固定されている。激しく動いても落ちることはないだろう。何より、こんな状況だがワクワクした。剣は男の子の永遠のロマンである。

 見た目ほど重たくも感じないし、アベルの手を煩わせる必要はないだろう。


「なら今度こそ行くぞ」


 何処までも心配げなアベルと共に、ルミは人里を目指して森を歩き始めた。


 ☆ ☆


 想像以上に広大な森だ。あまりに移り変わりのない景色はルミを辟易とさせると同時に、本当に道があっているのか不安にさせてくる。だが、それに反してアベルは、手元の道具を度々確認しつつも、迷いなく足を運んでいた。

 ルミは彼を信じて、付いていく他ない。


「このペースなら昼過ぎには到着できそうだ」


「え、日暮れに間に合うかどうかって話じゃ?」


「ルミの体力が想像以上にあったからな。本当は何回も休憩を挟むつもりだったんだよ」


 肩越しに振り返りこちらを見るアベルは、純粋に驚いているようだった。

 指摘され、ルミ自身も首をかしげる。ルミは──真雪は、平均的な男子大学生だ。特別鍛えているわけではないが、引き篭もっているわけでもない。現代日本基準では平均でも、こうした森を歩くには不十分な体力しか持ち合わせてはいないだろう。

 なのに、未だルミは過度な疲れを感じていなかった。全く疲労がないわけではない。それでも、まだまだ余裕があるのが現状だ。


「無理はしてないな? そんな剣を持っての移動、一般人の女性には相当な重労働のはずだ」


「してないって。自分でも驚いてるけど、意外と平気」


「……そうか」


 腰に下げっぱなしの剣も重量感はあるが、さほど負担にはなっていない。心配してくれるのは助かるが、どれもアベルの杞憂だった。

 だが確かにゲームのアバターだったルミの姿を思い浮かべれば、とても体力があるようには見えないだろう。


 これは、あれか。異世界転移で定番のゲームの力をそのまま引き継いでいるとかいう、あれだろうか。


「フロスト……………………。なんちゃって」


 まさかと思い口にした単語は、空しく大自然に消えていった。当たり前か。魔法の名前を呟くだけで超常現象が発揮されるわけがない。

 今のルミは、“ルミ”の容姿だけを引き継いだ少女だ。最低限は上げていたゲーム内でのレベルなんて、ここでは何の意味も成さない。


「どうした?」


「い、いや何でもないっ!」


 小声のつもりだったのにアベルに聞かれたのか。急に恥ずかしくなってきて、ルミは必死に首を横に振った。

 そんな姿にアベルは眉をひそめるが、こちらの追求を拒絶する姿勢に気づいたのだろう。大きくため息をつく。


「話したくないならそれでいいけどな。もう少しは上手く隠せ」


「いや別に言っちゃダメなわけじゃないんだけどね? ただ説明が長引きそうだから……」


「まあ、話したくなったら話せば──待て」


 突如としてアベルの声に緊張感が混ざる。ルミは言われるがままに立ち止まると、身を固くした。野獣か、実在は半信半疑だが魔物の類だろうか。どちらにせよ、危険なのは間違いない。

 ここは手馴れている様子のアベルに任せよう。静かに彼の指示を待つ。


「おい、人間なら返事しろ。返事がないなら、今から攻撃する」


 そう言うや否や、アベルの右手が翠色に輝きだした。

 不可思議な現象に刮目すると同時に、ルミの頭の中には一つの解答が浮かび上がる。魔法だ。ゲームでは当たり前のように行使し、実在はしない創作上の技術。それが今、現実となって存在している。


「──はぁッ!」


 返事はない。アベルは右手を振るい、激しい風切り音が森に響き渡った。不可視の刃に植物のツタなどが切り裂かれていき──


「……ちっ、早いな」


 何かが、木の陰から飛び出した。人間よりも一回り大きい肉体。とても生物とは思えない腐った肉の集合体のような身体。何より無数の目玉が生理的な嫌悪感を呼び起こす。

 間違いない。ルミたちを襲撃し、散り散りにさせた原因。アベルが、悪魔と呼ぶ正体不明の化け物だ。


「アベル! 上だっ!」


「わかってる……!」


 一体、どういった手段を用いたのだろう。悪魔は木々よりも高い上空に飛び上がっており、アベル目掛けて真っすぐに特攻を始めていた。

 だが、アベルに緊張はあっても焦りはない。腰の剣を引き抜き、下段に構える。


「しっ!!」


 気合一閃。彼は悪魔の着弾地点を正確に見極めると飛び退き、逆に斬撃を合わせて見せた。両断には届かなくとも、悪魔の身体が半ばほどまで縦に切り裂かれる。

 真っ当な生物なら致命傷だ。しかし、アベルもルミも、それだけで悪魔が息絶えるとは思っていない。

 

 事実、毒々しい液体を傷口から流しながらも、悪魔は複数の瞳でアベルを見定めた。


「目が光って……!?」


「……っ!」


 次の行動に予測がつかず、様子見に徹していたアベルは、ルミの叫びを聞いてすぐさま悪魔を蹴り飛ばした。宙を舞った先で目玉が光り、あらぬ方向へと破壊がぶちまけられる。

 その余波で森の木々の一つが風穴を開けられ、ルミ目掛けて倒れてきた。


「う、うわあああああぁぁっ……!?」


 幸いにもゆっくりと倒れてきただけだ。悲鳴を上げつつも、どうにか安全圏へと逃れる。土埃が舞う中で見失ってしまったアベルと悪魔の姿を探して──


「あ、アベル!」


「俺は大丈夫だ」


 アベルは、地面に倒れて動かない悪魔を注意深く睨みつけていた。

 もう一度、剣で斬られたのか、悪魔の傷口は十字に変化している。おびただしい量の緑色の血が、大地を穢している。もう動く様子は、なかった。


「……死んだ、のか?」


「す、凄い! こんな化け物を倒せるなんて!」


 興奮冷めやらぬまま、アベルの元へ駆け寄った。悪魔は恐ろしい存在だったが、それ以上にアベルの動きが人間離れしていたのだ。上空から加速しつつ突っ込んでくる肉の塊を、普通なら迎え撃てるはずがない。

 しかし、事実としてアベルは成し遂げた。それはサブカルチャーの中にしか存在しないはずの、超常的な戦いだ。ゲーマーの一人として、興奮しないはずがない。

 悪魔の恐ろしさよりも、アベルの頼もしさと臨場感あふれれる光景への興奮が上回っていた。


「ルミ。あんたを襲ったのは、こいつか?」


「うん、間違いないと思う。あの時はもっと数がいたけど……こいつ、魔物とかじゃないんだよね?」


 尋ねつつも、答えはわかり切っていた。こんな化け物はゲームの時にも存在しなかったのだから。


「違う、はずだ。けど俺は別に、学者ってわけじゃないからな。断言はできない」


「でもこんな生き物は……」


「ああ。初めて見るし、聞いたこともない」


 この世界の住民であるアベルにとっても、やはり悪魔は特異な存在なのだ。

 彼はいっそ臆病なぐらいに、剣先で何度も悪魔を突き刺す。反応はない。そこまで確認してようやく、アベルは息をついた。

 そして剣を収めてしゃがみ込むと、小さなナイフを取り出して、悪魔の身体を切り裂き始めた。


「な、なにしてるの……!?」


「サンプルを持ち帰る。ギルドを通じて学者に売り渡せば、少しはこの悪魔の正体もわかるはずだ」


「うえぇ……」


 悪魔が解体されていく様子に、ルミは吐き気を催して眼を逸らした。


「ちょっと我慢してくれ。死体を丸ごと持ち帰るわけにもいかないだろ」


「そうかもだけど……」


「嫌なら他所を向いててくれ」


 言われて視線だけでなく顔ごと背ける。それでも尚、耳に届く不快な音に寒気が止まらない。明らかに普通の肉ではなかった。腐肉、という表現もルミの知識の中で、最も近い言葉を選んでるだけだ。

 きっとその本質は全く異なる何かなのだろう。やはり気味が悪い、では済まされない。存在そのものが許されない何かなのだ。


「待ってろ、すぐに……っ!?」


「うべっ!」


 突然、肩を強く押され、前のめりに倒れる。咄嗟に受け身は取ったが、盛大に土と草を味わう羽目になってしまった。

 急にアベルはどうしたというのだろうか。まさか今更になって凶悪な本性を現したのか。


「アベル!? 急に……え」


 身体を起こしつつ振り返って。目を見開いた。アベルが尻餅をついて、苦痛に表情を歪めている。彼の服の右袖は炭化して消失し、その下にある肌も焼き爛れていた。

 何が起きたのか、わからない。けれど、ルミを陥れるために押し倒したわけではないのは確実だった。


「だ、だいじょ──」


「来るなッ!!」


「……っ」


 無愛想ながらも優しく接してきていたアベルからは、信じられないほどに緊迫した叫びだ。殴り合いの喧嘩すらしたことがないルミは、思わず身を竦ませてしまう。それで、正解だったのかもしれない。


 ──上空から滑空するような軌道で、新たな腐肉の塊が飛び込んできたのだから。


「──ぐぁ」


「アベル!?」


 悪魔に突撃にアベルの身体が大地を転がる。木の幹に衝突してようやく、彼の身体は停止した。アベルに止められていなければ、あれを受けていたのはルミの方だ。ゾッとする。だが、安心なんてできるはずがない。

 恐らくは重傷を負っているアベルの元へ、急いで駆け寄っていく。


「く……っそ。なんだよ、それ。こいつら、飛べるのか……!?」


 倒れたアベルを見下ろすのは、あの悪魔だ。悪魔たちだ。三体もの悪魔が、浮遊しながらアベルを囲っている。囲みながら、不可解な言語を鳴らしている。

 嘲笑っていると感じるのは、気のせいではないはずだ。


『迢ゥ繧翫□迢ゥ繧翫□』


『豁サ繧薙□谿コ縺輔l縺』


『蠕ゥ隶舌&』


 悪魔たちはすぐに動かない。フワフワと浮かびながら、その大量の目玉でアベルを見つめている。今のうちに何か行動しなくてはならない。だが、一体ルミに何ができるのか。


「ちくしょう……しくじった……!」


 アベルは苦痛で表情を歪め、右手はまともに使えるのかすら定かではない。重症なのは素人目にも明らかだ。そんな彼を庇いつつ、三体の悪魔から逃げ果せなければならない。空を自由に飛べる悪魔たちから。


「逃げろ……っ。悪いが、俺一人じゃこいつらを……倒しきれない……。時間を稼ぐから、さっさと逃げろ……」


「で、でも……」


「でもじゃねえッ!! 動かないと本当にここで死ぬぞ!?」


 理性が、アベルが、逃げるべきだと叫んでいる。一人の犠牲で生き残れるのならば、間違いなく逃げるべきだ。

 それ以上に、まだ死にたくない。やりたいことがたくさん残っている。どうしてこんな世界に迷い込んでしまったのか。どうして“ルミ”になってしまったのか。何も知らないまま終わってしまうなんて、納得ができない。


 けれど、アベルを見殺しにすることだって、容易には受け入れられなかった。たった半日程度の関係で、友人とすら言えない間柄だ。だがルミを助けてくれた恩人だ。そんな優しい青年を置いていくことなんてできない。


「はぁ……っ、はぁ……っ!」


 腰に下げた剣に、自然と手が動いていく。重量感は確かにある、本物の凶器だ。しかし、あまり重たいとは感じない。技術も何もなく振り回すだけなら可能だと、半ば確信できた。

 アベルのように、ゲームのアバターのように戦えなくとも構わない。ただ、この窮地を脱することさえできれば──


「ま、待て……ッ! ルミ、変な気狂いは……!?」


「気狂いかもしれない、けど」


 ルミは──真雪は臆病だ。誰よりも自分自身が理解している。今だって、膝から震えていた。正体不明の化け物を前に、怖くて怖くて仕方がない。

 しかし、それ以上に。目の前で誰かが死んだと、そう自覚するのが恐ろしかった。


「嫌だ、死んで欲しくない……!」


 剣を引き抜く。やはり負担はさほどない。長距離を歩いても、大した疲労のない身体だ。きっとゲームと全く同じ能力は再現できなくとも、純粋な身体能力だけなら“ルミ”の力を保持している。

 努力で手に入れた力ではない。これはただ、偶然手に入れただけの身体だ。だからどこまで動けるかもわからない。もしかしたら悪魔に一蹴にされて終わりかもしれない。


 それでも、今は自分のものであり、誰かを助けるために使えるのなら──この恐怖を押し殺すだけの価値は、あるはずだ。


「う、うぁあああああああ──ッ!!」


 ただ両手で剣を振り上げ、悪魔の一匹のその剣先を振り下ろす。こちらを脅威と認識していないのか、悪魔はルミに全く興味を示していない。どういうわけか、避ける様子は微塵もなくて──


『螢翫l縺溘%繧上l』


「ぅ、うっ……!」


 無防備な悪魔に剣が突き刺さった。浮遊する力も失われそのまま落下すると、剣によって大地へと縫い留められる。血液のような何かを吹き出しながら、悪魔は絶命した。


「やばっ、抜けない……!?」


 服や顔に体液が付着するが、気にしている余裕はなかった。それよりも剣が死体に引っかかり抜き取ることができない方が問題だ。どれほど力を入れても、解放されることはない。

 ふと視界に影が差した。ゆっくりと顔を上げる。


『谿コ縺輔l縺』


『莉イ髢捺ュサ繧薙□』


「ひぃ……! ごめんって、ちょっと待ってくんない!?」


 こちらに見向きもしなかった悪魔が、明確にルミを敵視していた。仲間が殺されれば、いくらなんでも無視はできないというわけだ。当然だろう。

 ただそれだけのことで身体は竦んでろくに動かなくなってしまった。一方的な攻撃で、相手が人ではない化け物だからこそ、ルミは殺すという選択ができただけなのだ。


 軽口を交えて少しでも冷静を装っても、自分の内面まで誤魔化すことはできない。悪魔の目玉が光り始めても、少女の身体は言うことを聞いてくれない。


 ──しかし、ルミが狙われるということは、もう一人の青年が自由になるというわけで。


「──馬鹿野郎」


『謳榊す』


 悪魔の背面が斬り裂かれる。あまり傷は深くない。殺すには足りない。けれどアベルは、左手一本で構えた剣を確かに悪魔に向けていた。


「どうして逃げなかった……!?」


 ルミへ悪態を付きながら、アベルと悪魔の一体は死闘を展開し始めた。自由に飛び回り上空から光の球を放つ悪魔を、アベルも魔法の風を起こし対応する。詠唱も何もなく自在に操る風で、どうにか悪魔を地面に叩き落そうと四苦八苦していた。

 彼はそちらで手がいっぱいだ。だから、最後の悪魔はルミがどうにかしないといけない。


「動け、動け……動かないと、死ぬっ!」


 冒涜的な化け物がルミを見据える。恐ろしくて呼吸が安定しない。窒息してしまいそうだ。先ほど倒した悪魔は本当に無防備だった。だから大きな虫を退治したのと、気持ちとしてはあまり変わらなかった。

 次は、違う。お互いがお互いを殺し得る者同士での、命の奪い合いだ。


 一歩間違えれば死ぬ。今更になって逃げられるかも怪しい。仮に逃げられても、怪我をしたアベルでは二体の悪魔を捌き切れずに殺される。戦うしかない。


「……っ」


『謾サ謦?&繧後◆蜿肴茶縺吶k?』


 すぐ傍で繰り広げられる戦いと裏腹に、ルミと悪魔は睨み合い続ける。緊張感でこちらが自滅するのを待っているのだろうか。何となく、違う気がする。どちらかと言えば、悪魔は困惑している。そう感じられた。

 いっそそのまま困っていてくれ。アベルがもう一体を倒してくれれば、二人がかりでどうにか──


『縺?>谿コ縺』


 そんな希望的観測が叶うはずもなく。悪魔はその腐った肉体で体当たりを仕掛けきた。浮遊する人間大サイズの腐肉が迫る。咄嗟に左へ跳ぶ。

 不快な腐臭が眼前を通り過ぎていった。それだけ攻撃は終わらない。空中で翻った悪魔はもう一度、突撃を開始した。


「落ち着け、大丈夫、避けられなくはないっ!」


 信じられないほどに身体が軽く、間接は柔軟だ。頭の中で思い描いたままに、身体が自由に動いてくれる。悪魔の知能が低いようで助かった。こんな単調な突進だけを繰り返してくれるのであれば、どうにか凌ぎ切れる。

 自信が付いてくる。余裕が生まれてくる。徐々に回避という行動を最適化していく。


『縺ィ縺九◎縺』


 しかし、延々とその拮抗を許してくれるほど、悪魔は生易しくはなかった。

 アベルが相手している悪魔と同じだ。地上から四メートルほどの位置に浮遊したまま、その目玉がルミを睨みつけ、輝く。


「……うぁ!?」


 とにかく走る。木の影を経由して、悪魔の視線から逃れようと足を動かす。数歩前までルミが立っていた位置が、次々と爆破されていった。

 転んだ瞬間にその爆発が直撃するだろう。アベルの右手を痛々しく焼き、使い物にならなくした一撃が。想像しただけでも泣きそうになってくる。苦しいに決まっている。その痛みに怯んでいる隙に、更に追撃を受けて全身が粉々にされるだろう。


 怖い。恐怖を原動力に必死に歯を食いしばって、森を駆け抜けていく。


「はぁ……っ、はぁ……っ!」


 呼吸が荒い。緊張のせいか、あれだけ余裕のあった体力が凄まじい速度で消耗していく。元の男子大学生の身体なら、とっくに力尽きていた。今だけはルミの身体になったことに感謝する。

 ちらりとアベルの方を一瞥した。彼の怪我は見るからに苦しそうで、どうにか悪魔と拮抗させているのが奇跡のように思える。助力は期待できないかもしれない。


『騾?£繧九↑』


 どうすれば良いのか。悪魔は軽く跳んだ程度では届かない位置に浮遊している。

 何かを投擲するか。無理だ。石を拾うために立ち止まれば、その瞬間に光の爆破に巻き込まれる。

 ならば、自力で悪魔にまでたどり着き、叩き落すしかない。


「は、ぁぁっ!! く、は……ぁ!」


 もう体力が持たない。心臓は張り裂けるほどに鼓動を続け、肺が懸命に酸素を取り込んでも尚、供給が追い付いていない。間もなく足が動かなくなる。悪魔に、爆殺される。

 やるしかない。できるのか、自問する。わからない。知るはずがない。この身体がどれだけの力を宿しているのか、成りたてのルミが把握しているわけがない。


 でも、やるしかないのだ。だって、こんなところで死にたくないのだから。


「う、うぁああああああ……っ!!」


 木の陰に隠れ、光が着弾すると同時に飛び出す。悲鳴のような雄たけびを上げて、ルミは悪魔に突貫した。一気に距離が詰まっていく。無数の目玉がルミを見据える。

 その中でもひと際大きな目玉が、光を収束させていって──


 ダメだ。間に合わない。正面から回避するしかない。


 見極めろ。できるはずだ。目を見開き、限界まで稼働する脳によって、眼前の光景を必死に処理する。──悪魔と、目が合った。


「──ぅ!!」


 咄嗟に頭を傾ける。光球が髪を掠めていったのはその直後だ。次の攻撃までラグはある。一気に踏み込み身体をバネのように曲げ、ルミは跳んだ。

 アスリートも顔負けの身体能力は、彼女を悪魔の高さにまで導いて見せた。悪魔は逃げない。驚いているのか、その場で浮いているだけ。


 恐怖に加えて嫌悪感も押し殺し、ルミはがむしゃらに拳を叩きつけた。


「あぁっ!? あああああああああぁぁぁ────」


 柔らかい何かに腕が突っ込み、ルミと悪魔は揉みくちゃになりながら地面に落下した。悪魔がクッションになったおかげで怪我はない。すぐに顔を上げる。

 目玉の一つを潰された悪魔がもがき苦しみながらも、残った目玉でルミを射抜いた。


「や、ば──っ」


 至近距離での光球の予備動作。今度は間に合わない。ルミにできたのは身を固くし、瞳を固く閉ざすことだけだった。

 せっかく美しく作られた少女の身体が、吹き飛ばされる。刹那──


「させるかよ」


『縺ヲ縲√※縺ヲ縺ヲ縺ヲ縺?>縺?>縺』


 青年の声、そして何かが肉を貫く音。来るべき衝撃が訪れず、ゆっくりと瞳を開けば。ボロボロになりながらも、悪魔に止めを刺したアベルがいた。

 悪魔は死んでいる。三体とも、全て。ルミとアベルによって屠られていた。


「うっ……!」


 安心感によって力が抜ける──それ以前に自らの身体の惨状に吐き気がこみ上げてきた。腕で悪魔の目玉を貫き、その体液を浴びた身体は凄まじい悪臭を放っている。

 どうにか腕を引っこ抜くと、すぐさま木の陰でうずくまった。


「お、おえぇ……」


 せっかく貰った朝食が流れ出ていく。気持ち悪い。本当に気持ち悪い。ただ汚いからだけではない。一歩間違えれば自分が死んでいた事実に、遅れて身体が動作不良を起こしていた。


「ごほ……っ、ぅあ……っ」


「……大丈夫か?」


「あまり、うぇ……大丈夫じゃ、ないかも……っ」


「集落まであと少しだからそれでも耐えてくれ。そしたら水浴びもできる」


「が、頑張る……。それより、アベルの方こそ……」


 大怪我だよね。そう続けるはずだった言葉は出てこなかった。振り返った先で、アベルの顔から表情が消え去っていたから。

 無愛想だとかそういう話ではない。完全に無なのだ。なのに、彼の瞳の奥には計り知れない怒りが浮かんでいる。湧き上がり続ける怒りを、激情を、どうにか抑え込んで無表情を装っている。それがきっと、アベルの表情の理由だ。


「ごめん……逃げろって言われたのに……」


「いや結果的に助かった。むしろ礼を言わせてくれ」


「え、でも……」


「話せるならもう歩けるか? 他に悪魔が潜んでるかもしれない。さっさと集落に向かいたい」


 逃げろと言われながらも戦ったのが、怒りの原因だと予想したのだが。どうにも違うらしい。だとすれば、彼の豹変の理由が推測できなかった。

 明らかに態度が冷たい。怪我をして余裕がなくなったというわけでもない。明確にルミを拒絶するような雰囲気を漂わせていた。あれほど、甲斐甲斐しく世話をしてくれていたはずの青年が、だ。


「あ、アベル? 本当にごめん。もうこんな無茶は……」


「大丈夫そうだな。行くぞ」


「え……ま、待ってよ!」


 背中を向けてアベルはさっさと歩き出してしまう。ルミにできたのは、そんな彼を懸命に追いかけることだけだった。

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