6「食事」(1)


 翌朝――と言って良い時間なのかは怪しい――も、香しい紅茶の気配で目が覚めた。

「おはようございますエイトさん」

 真夜中の訓練でも聞いたその声が、愛おしい気配を孕んでいるのを感じ取りながら、エイトも素直に「おはよー」と返して身を起こす。

 家族に対してもしっかりと朝の挨拶を返した記憶がないので、まだ少し照れくさい。しかしこの老人には何故だかちゃんと返しておきたいと、エイトは思うようになってしまっていた。

「よく眠れましたかな?」

 エドワードが差し出した手を取りながら、顔だけは逸らして「まあまあ……」と曖昧に答える。

 朝方にベッドに入ったエイトだが、老人の気配をその隣に感じることはなかった。

 期待、していなかったと言えば嘘になる。

 エドワードはおそらく、陸軍からの連絡のために部屋を出たまま、エイトが深い眠りにつくまでの一時間程戻ることはなかったのだ。人の気配に敏感なエイトは、例え熟睡していたとしても、同じベッドに他人の気配を感じれば起きる、と思う。意識している相手なら尚更。

 自分の目の届かないところでこの老人が、いったい何をしているかは知らない。教えてもくれないだろうから知りたいとも思わない。彼がこれまでどんな生活を送り、どんな――どんな人を愛してきたかなんて、絶対に聞かない。知りたくないのだ。

「あと数時間もすれば昼になります。任務のためにまずは、しっかり朝食をとりましょう」

 気持ちばかり募るエイトのことなんてどこ吹く風。エドワードは普段通りの穏やかな笑みを湛えたまま、エイトを朝食に誘ってくれた。

「飯ってどこで食べるんだ? さすがにスペンサーの家に行くまでに、だよな? オレ、飯が食える店なんて知らねえぞ?」

 貧しいエイトの家では、外食なんて贅沢はあり得なかった。だがエイトには、母の作るハンバーグがとても美味しく、そもそも外食に行きたいという願望もなかったのだった。学校で習う教材の中身の話、とエイトの中では外食とはそういうものだった。もちろん寄り道や買い食いなどもしたことがない。

「大丈夫ですよ。エイトさんの食べたいものを食べましょう。そうですな……普段食べたことがないものでも、これを機に挑戦してみてはどうでしょう?」

 エドワードの表情は孫に甘い祖父そのもので。なんの悪意もないその笑顔に、エイトも思わず頷いてしまっていた。食べたことのない、食べたいものって……なんだろう。

 目的地――エドワード曰く、飲食店が集まっている場所があるらしい――も決まったところで、二人はきびきびと出発の準備を始める。

 エイトのために淹れられた紅茶を飲み干し、寝巻から外出用の服に着替える。鍛えられた身体にフィットする、運動に適した服装で、黒の半袖シャツには安っぽいゴールドの差し色でドラゴンの絵柄が描かれている。ボトムスは迷彩柄で足首までしっかりと包んでいて、見た目はどこにでもいる悪ガキだろう。自覚はある。でも好みなんだから仕方がない。デミにはせっかく身体つきが良いのだから、もっとオシャレなものを着ろを言われていた。

 足音を殺しつつ打撃力を高めた、“機能的”な真っ黒の靴を履いて、準備万端だとエドワードを見やる。彼は昨日とさほど変わらない出で立ちで、既に準備を終えていた。シャツが薄い黄色になっており、それだけで休日の老人加減に拍車が掛かるから役者だなと思う。

 ティーポットとカップはいつの間にか洗われており、流しに放置されている。どうやらここに置いていくつもりのようだ。

「ジジイのじゃないのか?」

「これですか? もちろん私の私物ですが、この部屋にはこの後、宿のものとはまた違う陸軍の“清掃”が入るので、その時に片づけておいてもらいます。さすがにお屋敷に私物のティーセットを持っていく“貧しい”老人と孫はいないでしょうから」

「確かに、そりゃそうだけどよ……」

 エドワードの言葉に、エイトは元から少ない荷物に寝巻と昨日着ていた服を詰め込んで、続けたかった言葉も飲み込んだ。『なんだか置いてったら可哀想だ』なんて、まるで自分のことのようだったから。

 宿のチェックアウトは滞りなく終わり、エドワードの財布の中がかなり潤っていることに驚き、そのほとんどが軍からの支給だということに唸り、そして「これからの朝食で無一文に近づきましょうか」と言われてまた驚いた。

「スペンサー邸で持ち物の確認をされるかもわかりませんので、財布の中身は限りなく少なくしておきたいのですよ。エイトさんは育ち盛りですし、たくさん食べてください」

 そう言いながらエドワードはごく自然な動作でエイトの手を引いてくる。宿の入り口は時間がずれていることもあり、エイトとエドワード以外に客はいなかったが、外に出たら話は違う。大通りに面した宿から出ると、そこには砂嵐にも負けないような人の往来が待ち受けている。

 この大通りは旅人に人気の宿が多いこともあり、砂漠の民に混じって他国の人間らしき顔もちらほら見える。デザキアの人間は、外出時は伝統的な白を基調としたゆったりとした服装が多いので、それ以外の服装をしている他国の人間は目立つのだった。明らかに軍属といった恰好の人間もいれば――確かに、噂に聞く特務部隊らしき恰好の者も見えた。

「おや、気付きましたかな?」

 目敏く声を掛けて来るエドワードに無言で頷く。あくまで一般市民と言い張る恰好のエドワードは、その表情も穏やかに、穏やかではない話題を口にする。

「軍属の者達は見るからに兵士。そして特務部隊は漆黒のダークスーツに身を包んでおります。闇夜に紛れる特務部隊達が変装も無しにウロウロしているのは、おそらくスペンサー邸、というよりはデザキアの軍への牽制でしょうな」

「牽制?」

「『我々も情報を掴んでいるぞ』と、わざと見せつけているのでしょう。『迂闊に動くな』と言いたいのでしょうな」

「……さすがにまだどこも、大事にはしたくないってことだな?」

「首都ではないにしろ、ここは砂漠の玄関口です。こんな街で事を起こせば、外交問題だけでなく、物理的に物資の流れも止めてしまうことになりますので」

「大人の喧嘩ってのは、面倒だよなぁ」

「エイトさんもいつかは経験することですとも。今のうちにたくさん、『例題』を見て勉強しておくことですなぁ」

「チッ……どこでもなんでも勉強、勉強だな」

「それが人生というものです」

 最後はふぉっふぉと満足そうに笑って、エドワードはこの話題を断ち切った。巡回の兵士が後ろから早足に追い越して来る。それを問題なくやり過ごしながら暫く歩き、二人は飲食店が集まるエリアに到着した。

 大通りを挟み込むように幾多の店が軒を連ねており、店の前に出された看板には、どの種類の料理が提供されているか誰が見てもわかるように描かれている。店の外観もカラフルなものが多いが、その看板のおかげで、店前も鮮やかに彩られていた。砂漠の国である南部の料理は、基本的に辛い味付けの料理が多いので、看板に描かれているとその赤色が本当に目立つしよくわかる。

 まだ太陽の光は頂点ではないので、昼にはなっていないらしい。少し早い時間のせいか、店が集まっているわりには、道行く人の姿は少ないように思えた。

「さぁ、エイトさんの好きな店にどうぞ。この辺りの店なら、財布の中身だけでお腹いっぱいになるでしょう」

「好きな店、ねぇ」

 この際、エドワードに遠慮するということはしないことにした。彼が問題ないと言っているのだから、エイトはその言葉に従えば良い。普段は反抗心の塊のようなエイトだが、エドワードの言葉には従おうという気持ちになる。それはきっと、憧れる程に強い彼に惹かれているからで、真っ直ぐに注がれる愛情でむず痒い気持ちもきっと、間違いではないはずだった。

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