第7話 行こう!!!

「ん……むぐ、むぐうう……」


 息苦しさで目を覚ました。でも、視界には未だに暗いままだ。どういうわけか体はがっしりとホールドされて、何か柔らかいものが顔に当たっている。


「ぐぐぐ……ぷはぁ!」


 体をよじり、どうにか圧迫から抜け出す。


 ようやく目に光が入り、自分がどんな状態で寝ていたのかを確認して、絶句した。


「んへへへ、待ってよユウくん。大丈夫、何もしないから、絶対大丈夫だから、ちょっとだけだから」


 同じベッドの上、下着姿のカオルが明らかに大丈夫そうではないセリフを口にしながら、にやけ面を晒して隣で寝ていた。


 おそらく僕は抱き枕にされていたんだ。そして一体どんな夢を見ているのかはわからないけど、夢の中の僕にはぜひとも逃げきってほしい。


「カ、カオル。起きてカオル。そして服を着て」


 これ以上、元宿敵のあられもない姿を見るのは心苦しい。早いとこ起きてもらわないと。


「ふわぁ~。あれ? ユウくん、どうしてシャツを? さっきまでメイド服を着てたはずじゃあ……」


 本当にどんな夢を見ていたんだろう。異世界へ行くだけの技術を持つ科学者の正体がこれだなんて、全く信じられない。


「寝ぼけてないで、さっさと正気に戻って。……というか、そ、その……なんで下着なの?」


 昨日まではあの凛々しさも備える白衣が特徴的だったから、今の扇情的な格好にはかなりのギャップがある。


「あとなんで一緒に寝てたの⁉ 」


 僕自信のことも含めて、何があってこの状態になっているか分からない。部屋で技術書と魔導書について聞いたことまでは思い出せるけど、その後眠気に襲われて、それから……


 ほぼ裸のサキュバスとベッドの上で一夜を共にしたという事実に困惑する僕をよそに、カオルはゆっくり起き上がって言った。


「あ~昨日、話を終えた途端に君が眠っちゃったから、このベッドに寝かせただけのことだよ。そして寝顔を見ていたら、段々と我慢できなくなって添い寝してしまったんだ。一応、一緒に寝る許可は貰っていたしね」


(そんな許可出したっけ……)


「でもそれだけ。何も変なことはしていないよ、寝込みを襲うような趣味はない。……まあ気持ちを抑えるのには苦労したけど。ああそれと、この格好に深い意味はなくてね、ただ気持ちよく眠れるからそうしているだけだ。本当は君も脱がせようかと思ったが、さすがに自重したよ」


 なんということだ。僕も脱がされるところだったのか。見かけによらず、彼女が分別のある人で助かった。……助かったのかな? ホントに何もされてないよね?


「ところで、今は何時だったかな。外を見ていないから時間の感覚が抜け落ちてしまった」


 キョロキョロと部屋を見回して、あったあったと机の箱型時計を手に取る彼女。そういえば僕も時間を全く確認していなかった。


「えっ⁉ 朝4時⁉ ちょっと早起きすぎないかユウくん」

「僕だってゆっくり寝たかったよ! 誰かさんが無駄にデカイ胸を押し付けてくるから起きたんだ!」


 確かに早すぎる時間だけど、そもそもこうなったのは全部カオルのせいだ。抗議する権利くらいはあると思う。


「無駄とはなんだ無駄とは! これを枕代わりにしていたのは君だろう⁉」

 誇らしげに胸を突き出し威張る彼女。


「カオルだって僕を抱き枕代わりにしたじゃないか!」

 負けじと反論をぶつける僕。不毛な争いが数分繰り広げられた。



 〜〜〜〜〜



「さて改めて、おはようユウくん。気分はどうかな?」


 お互いに落ち着いて目が冴えてきた。ベッドから降り、軽く伸びをしながら彼女は聞く。彼女は雰囲気の切り替えがだいぶ上手いらしく、すっかり科学者然とした態度に戻っていた。


「あ、うん。なんともないよ。この体にもだいぶ慣れた。違和感だってなくなってるよ」


 一晩寝て、やっと心と体の波長が重なってくれたみたいだ。

 ここに来る前の記憶は残っているのに、「俺」という意識は完全に消えていた。あのリンクしない気持ち悪さと別れられたのは嬉しいけど、そのぶん自分でも子供っぽくなったと思う。


「それは良かった。これで精神も完全に“ユウくん”になってくれたんだね。いよいよ君とお姉さんの異世界ライフが始まるぞ~、楽しみだねユウくん!」


「いや僕はそんなつもりじゃ……」


(ああ、やっぱりこの人はこうなんだな)


 相変わらずニコニコとお姉さんアピールをしてくるカオルを見て、僕は呆れながらも朗らかな気持ちになった。彼女の態度にも耐性がついて、この少しの抜けた感覚がクセになったかもしれない。


「もうそろそろ解析も終わる頃だろう。外に出る前にシャワー浴びといで」


 そうだ、昨日はあのまま眠ってしまったんだった。この人のアジト内でお風呂に入るのは色んな意味で危ない気もするけど、ここはお言葉に甘えさせてもらおう。


「シャワールームはあっちだよ。──お姉さんと一緒に入る?」


「ッ……いい! 一人で大丈夫!」


「残念、フラれちゃったか♪ あ、着替えはこっちに置いとくから上がったら着てね」



 ~~~~~



「まったく、いい加減にしてほしいよ。あのサキュバス」


 シャワーを浴びながら崎谷薫の無自覚さを恨む。いくら今の僕が子どもだからって、あれはからかいすぎだ。あの美貌、あの格好で「一緒に入る?」なんて言われたら、さすがにドキっとしてしまう。


「こんな日が来るなんて、考えてもみなかった」


 18年もの年月を兵士として過ごしてきた。その中で老若男女問わず様々な人と出会い、──殺した。崎谷薫を捕獲するという名目の下、幼い頃から数々の戦場を連れ回され、訓練代わりに幾人もの相手を殺してきたんだ。


 そして今、その崎谷薫と時を共にしている。実際に立ち会ってみて、彼女は僕が聞かされていたような人物ではないことを知った。カオルにはカオルなりの使命があって研究していたこと、その研究を利用され、彼女が傷ついていたことも理解した。


 僕の前では明るいお姉さんとして振る舞うよう心がけているみたいだけど、たまに見せるあの悲しそうな目には、深く重い自責の念がこもっている。


「だけど楽しかった……カオルも喋っているときは楽しそうだったな」


 出会ってからそう時間は経っていない。なのにカオルは自分のことを色々と語ってくれた。それだけで、彼女がいかに孤独だったかが伝わってくる。

 彼女が偶然男の子好きで、さらに偶然僕がこうなってしまったことも原因の一つだけど、それを含めてもカオルは話しすぎだ。ずっと誰かに聞いてほしかったんだろう。共感してくれる相手が欲しかったんだろう。痛いくらいによく分かる。僕も、ずっと孤独に戦わされてきたから。


「…………。」



 ~~~~~



「おっ、上がったかいユウくん、それじゃ次は私が入るから。気になるなら覗いてもいいよ♡」


 シャワーを終え、再び少年らしいシャツとズボンを着ると、まだ下着姿のカオルが出迎えてきて、性懲りもなく誘惑された。からかいだと分かっていても赤面してしまう。


「覗かないよ! いいから早く服着て!」


 僕は真面目にカオルのことを考えていたというのに、自分がバカみたいじゃないか。


「これからお風呂に入るんだから今着てもしょうがないだろう。上がったらちゃんと着るから、ユウくんはあっちで待ってて」


「うぅ……分かったよ」


 ショタコンのサキュバスがこうも恐ろしいとは。


 これ以上彼女を見ているとどうにかなってしまいそうだったので、僕は促されるまま、あの機械がひしめくメインルームらしい場所へ行った。



 〜〜〜〜〜



「お待たせ~、さあユウくん、お風呂上がりのお姉さんだぞ。何か感想はあるかな?」


 ようやく白衣姿のカオルが現れた。中はキャミソールにジーンズ、妙に見覚えのある服装だ。


「別に何もないよ……それよりその服、昨日も着てなかった? まさか使い回してるの?」


 馬鹿らしいやりとりを躱しながら聞く。僕は戦場で何日も同じ服を着た経験があるけど、やっぱり同じままだと汗や汚れの蓄積がどうにも気持ち悪かった。カオルは気にならないのかな。


「そんなことはしていないさ。私は気に入った服を何着も所有するタイプでね、白衣とそれに合う格好を模索した結果これになった。科学者らしさと絶妙な色気があって私のイメージにぴったりだろう?」


「似合うとは思うけど……」


 ──グゥゥゥゥ


 受け答えに困っていると、僕のお腹が鳴り出した。そういえば転移してから何も口にしていない。


「フフ、だいぶ早いが朝ごはんにしようか。大したものはないけど何か口にしないとね」



 〜〜〜〜〜



 ああは言っていたけど、食料はそれなりに備蓄してあるのか、トーストにベーコンエッグというそれらしい朝食が出てきた。これらは本来長期間保つ食材ではないけれど、冷凍保存の技術が向上した現在なら十分食べられる。


「おいしい?」

「うん。おいしいよ、カオル。ありがとう。」

「それは良かった」


 これはきっとなんてことない会話。だけど僕には今まで縁のないものだった。

 フィクションでしか見たことがなくて、ずっと憧れていた朝の会話。なんだかカオルが本当の姉のようにすら思える。いやこの場合は母親なのだろうか。どちらも僕には遠い存在。でも今のカオルを見ていると、まるで本当の家族ができたような気分になる。


 どうしてだろう。この姿になってから、心がずっと温かいままだ。向こうにいる間はこんなことなかったのに……



 ピコーン、ピコーン


 穏やかな時間を楽しんでいると、そこに似つかわしくない音が響いた。


「やーっと終わったかー! どれどれ、この辺の環境は~っと」


 音の主である機会へ向かっていくカオル。そういえば、外に出たいけどまだ早いとか、解析がどうとか言ってたっけ。


「どう? カオル。ここはちゃんと異世界だった?」


 まずはそこだ。結局僕らはこの研究所の中から一歩も外に出てはいない。実は人間界のままだったなんてオチは困る。


「間違いなく転移している。このラボは山の地下に作ってあったが、今はどこかの高原の上だ。山地という意味では転移前と同じだけどね。酸素濃度も安定しているようだし、外に出ても大丈夫そうだ」


「そっか、良かったねカオル。それじゃあ行ってらっしゃい。僕も何か、ここで目標を見つけてみせるよ」


 少し名残惜しい気もするけど、ここでお別れだ。僕みたいな戦場しか知らない危険な存在が一緒にいると、どんな不幸を招くか分からない。


「何を言ってるんだユウくん、君も行くんだよ」

「え?」

「何度も言っただろう、これから2人で楽しい甘々異世界ライフを送るんだ」

「いや、でも……」


 あれは僕をからかって言っていると思っていた。だって、崎谷薫の目的に、僕はまるっきり関係ないし、必要もない。


(あ、だけど)

 考えながら、転移する瞬間のことを思い出した。


 “あなたも付いていてあげて、あの子には、きっとあなたが必要になる”


 あの声は一体なんだったんだろうか。いやきっと幻聴の類だ。


「短い時間だったけど、カオルがいい人だってことはよく分かった。一緒にいたらすごく楽しいのも分かった」


「……」

 黙ったまま僕を見つめる彼女。まただ、またその悲しそうで優しい目。


「だけど一緒に行くことはできない。偶然とはいえあの世界から逃げるきっかけをくれたことには感謝してるよ。でもだからこそ、“あなた”の負担にはなりたくないんだ」


 ここからは、宿敵でもなければ仲間でもない、ただの他人だ。人生を変えるチャンスをくれた人の足を引っ張るような真似はしたくない。


「……さい」


「虫のいい話だけど、僕のことはもう忘れて……」


「うるさい!!! 行こう!!!」


 どんっ!! という効果音が聞こえそうなほど、力を込めた声で叫ぶカオル。だけどその顔はとても清々しくて、悩みなんて全て吹き飛ばす夏の太陽のように美しく、可憐な、満面の笑みだった。


「なーんて、一回言ってみたかったんだよねコレ。あ、一緒に行きたいのは本心だよ」


「カ、カオル……」

 “うるさい”なんてめちゃくちゃな勧誘をされたのに、嬉しさが溢れ出す。全身が熱くなって、彼女に抱きついてしまいたい気持ちになる。


「どうせここも長くは保たないだろうし」


「え?」


 感動の涙を流そうとしていたところを不穏な言葉で遮られた。


「このラボを動かすのにどれだけのエネルギーが必要か分かるかい? ここは異世界、今のところ電力の供給源はない。予備のバッテリーがあるとはいえ、せいぜい数日分だ。融合炉を積んでいれば良かったんだが、あれを転移させるのはリスクが高すぎてね。向こうに置いてきてしまった」


「え? え?」


「水や食料もそう多くは残ってないよ。なにせ私一人が食べる計算だったし、シャワーにも使ったしね。あ、そうそう、ここを拠点とは言ったけど、あれは『ちょっとした寝床』くらいの意味だよ」


 まさしく牙城を崩すような情報をたたみかけてくるカオル。絶望的なセリフの割に、口ぶりはウキウキして心底楽しそうだ。


「今のところ他にあてはないだろう? しかし残念ながらラボはあと数日でチェックアウトだ。 ああ可愛そうなユウくん。君はこのまま唯一の足がかりすら失い、その短い生涯を終えようとしているんだね」


「そ、それは……」

 確かにあてはないけど、しばらくは一人でも活動できる、はず……


「まあ君がなんと言おうと、お姉さんの魅力で連れて行ってしまうつもりだったんだけどね」


 言うやいなや彼女は目を輝かせ、艶めかしい角と尻尾を顕にした。ああそうだ、この人はサキュバス。その気になれば男を操ってしまうこともできるかもしれない。


「さあどうする? このままラボと共に眠りにつくか、それとも少しだがこの世界について知識があって、見知らぬ土地でも十分やっていける力を秘めているであろう超絶美人なスタイル抜群お姉さんと一緒に生活するか。賢いユウくんならもう分かってるよね?」


「せめて公平な二択にして?」

「煮え切らないなぁ……ほら、もう外に出ちゃって!」


 しびれを切らせ、僕のを手を引き研究所の外へ歩く。



 出入り口を抜けると、そこは異世界だった。


 視野を限りなく広げて目の前の景色を確かめる。今僕が足をつけている場所はどうやら高い山の中にある原っぱのようで、少し走って行って下を見ると、暗闇を裂きながら昇ってくる朝日に照らされた森があった。

 確実に、元いた場所じゃない。それに、空気が明らかに違う。風景そのものは人間界にも似たようなものがあるかもしれないけど、この空気だけは違う。


「分かるだろう、ユウくん。ここがどういう世界であれ、子どもが一人でやっていけるような所じゃないことはハッキリしている」


 追いついたカオルが後ろから僕の首根をつかまえるような言い方で囁く。さっきまでとは違う、重く張り詰めた雰囲気。


「何にせよ、君は私に命を預けるしかないんだ」


 崎谷薫は、僕に初めて悪魔のような表情を見せた。

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