ライセンス・トゥ・キル LICENSE TO KILL

宝輪 鳳空

第1話 父と母

 俺の胸の中に一人の女がいる

 冷たい闇を抜け、木洩れ陽を纏いやって来た

 彼女は言う

 あなたの殺害許可証は取り上げた

 染みついた血と硝煙の臭いは洗われ

 寄せる肌と肌に委ねられた……


 ****


 一九一六年、俺は南部の貧農一家に生まれた。

 父親は働き者で母親も献身的だった。

 俺が生まれた頃は親の背丈以上だったはずの玉蜀黍トウモロコシも俺が物心ついた頃には俺の肩より低くなっていた。

 日照りと水不足、害虫そして近代化が俺たちの家族を年々苦しめていた。

 町の農業協同組合がよこしたトラクターに俺は身がすくんだ。


 奴らは親父に言った。

「スタンスさん。これからはもう人の手じゃ追いつかねえ。地主は俺たちを雇うと。こいつを動かせる俺たちを」

「何だって? 聞いてねえぞ。そんな勝手は許さねえ、ここは俺の」

「じゃねえだろ? 地主さんのもんだ」

 このトラクターこそ害虫だ。バカでけえ害虫だと、子供心にそう思った。


 一家はそれから別の町に移り住んだ。

 親父は食肉加工工場で働き、お袋は乾物計量の内職を始めた。

 俺は三人兄弟、男ばかりの末っ子だった。

 近所のガキどもによくいじめられた。

 ガリガリに痩せていたから鶏ガラみたいだとからかわれた。


「ウィルは虫も殺せない優しい子だよ。お前たちが守ってやんなきゃいけないよ」

 お袋はそう兄貴たちを叱った。

 米を買えず芋しか食えない日もあったがお袋は水しか飲んでいなかった。

「ウィル、いいからお食べ。お前が食べてるのを見て母ちゃんはお腹いっぱいさ」


 お袋は優しかった。心底愛してくれた。

 俺が病いで喘ぐ背中を一晩中さすってくれた。寝ずにそばにいてくれた。

 だが親父は荒れて飲んだくれてた。

 工場の仕事に馴染めずいつも腹を立ててた。

 よそ者だ顔貌かおかたちが違うと蔑まれ、揉め事を起こしては金を羨んでた。

 酒に飲まれて人が変わって素面シラフでも酒に侵されてた。

 変わっちまったんだ。


 土にまみれてるのが好きだったんだ親父は。

 木造貸家の小さな庭で芋や豆や胡瓜も作った。

 鶏も飼ってた。

 ある日親父が食うために鶏を捌いていたのを見て、俺は言った。

「どうしてそんなかわいそうなことするの?」

 親父は黙って手を止めた。親父は俺を殴り、鶏を山に捨てに行った。

 いつしか畑もやめ、工場勤めも辞めた。


 俺が十五の時、兄貴たち二人は戦争に行った。

 行って金持ちになると手を振った。


 ****


 あれは陽炎が揺らめく気の遠くなるような真夏の日だった。

 町の野球チームの補欠だった俺は脱水で倒れたやつの代打でバッターボックスに立った。

 そこで逆転ホームランを打ち、チームに勝利をもたらした。

 生まれて初めて人に喜ばれ、長身とはいえ細い俺の身体は軽々と胴上げされた。

 そして浮き足立ってバットを掲げて家に帰った。

 ヒーローになった俺を早くお袋に教えたかった。


 家にたどり着く前に、玄関から洒落た服装の小綺麗な男が出てくるのが見えた。

 歩幅を緩めゆっくり近づくとその男はひきつった顔で走り去った。

 家の中から物音がする。入ると物が散乱していて寝室からお袋の叫び声が聞こえた。


「や、やめとくれ、あんた……」

「おう? そんなに若い男が好きか? 俺が寝ている隙に、ふざけた真似しやがって!」

 親父がお袋の首を絞めていた。

 歯をむき出した親父と口から泡を吹いていたお袋。

 俺は唸り声を上げ、手にしていた金属バットを親父の頭に振り下ろした。

 鈍い音だった。

 血が飛び散り、シーツを赤く染めた。

 お袋が洗ったシーツを汚し、お袋がいつも磨いていた床を汚した。

 それでも俺は憑かれたようにまたバットを振り下ろした。 



 お袋は気を失っていた。

 俺は我に返りお袋の肩をさすり、介抱した。

 目を覚ましたお袋はよれた髪を汗と涙で濡らした。

「ああ、ウィル……どうして……」

 俺はぶるぶる震え、彼女の肩にただすがりつく。

 俺たちはそれからしばらく、血を流し横たわる親父を見て固まっていた。


 時間は容赦なく過ぎてゆく。

 柱時計が冷酷に胸を叩いた。


 お袋は両手で俺の頬を撫で、言った。

「……ウィル。この人を山へ埋めよう」

 落ち着いて落ち着いてとキスをする。

「……ご、ごめんよ、母ちゃん、俺……」

「あんたが悪いんじゃない。きっと父ちゃんも悪くない。……私が悪いんだ」

「どうしてだよ! 母ちゃんは悪くない!」

「……きっと……世の中がこんなだから。いいかい、これは事故だよ……あんたは、母ちゃんを守ってくれたんだろ?」


 お袋は人に見られないように納屋へ行き、芋を入れる大きな麻袋を持ってきた。

 仕方なかったんだと俺を慰めながら親父の遺体を血のシーツに包んで麻袋に詰め込む。

 床を流し雑巾で拭きそれもバットも何もかも車の後部座席に二人で押し込んだ。

 外が暗くなってから遠くの、人気のない遠くの山中へお袋は車を走らせた。

 俺はまだ手も唇も震えが止まらない。


「……ど、どうして、父ちゃんは……母ちゃんの首を?」

「父ちゃんはね……早とちりしたんだよ。農協の人に父ちゃんの仕事の面倒見てほしくて家に来てもらったのに……。早とちりしたんだよ……」

 そしておよそ人が寄りつかない山の麓に穴を掘って親父を埋めた。

「ウィル。この事は黙っていなさい、絶対に。父ちゃんは事故で亡くなった。あんたは生きるんだ。償いたいと思うなら……生きて、父ちゃんの分まで生きなきゃ、だめだよ」

 泥まみれで泣きながらお袋は俺を悲しく抱きしめた。



 数日後、お袋は家で高熱を出し倒れた。

 病院に運ばれ、肺炎で還らぬ人に。

 俺を産み、愛してくれたただ一人の人をそこで失くした。

 俺は嗚咽し、がたがた震えた。

 お袋の母親、祖母がやってきて俺を抱きしめた。

 葬儀で帰ってきた兄貴たちとはそれっきりだった。

 もともと孤児だった親父のことは誰も気にも留めず行方不明とされたまま、俺は祖母のもとに預けられた。



 目の悪い祖母と何年か暮らした。

 つらかったろう、つらかったろうと口を開いては言う祖母は優しく、よくカプチーノを淹れてくれた。

 何も知らされなかったそんな祖母もやがて老いて死んでった。

 一人になった俺は導かれるように戦地へ狩り出された。

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