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 車窓の移ろい行く様子を二十分ほど見つめてから、僕たちは適当な駅で降車した。そこは近くの住宅街に住む人たちの交通のため建てられた駅みたいで、僕自身、降りたのは初めてだ。音切が降りてみたいなんて言わなければ、人生で一度も降りることなどなかっただろう。改札を抜けてからも、観光のできそうな場所や、施設の案内すら見当たらなかった。北口、南口と矢印で示され、バス停と交番があるくらいで、本当に何もないところだ。駅構内は通勤ラッシュとお昼の合間のせいか、がらんとしており、客は暇を持て余す老人か、幼い子どもを連れた親子くらいしかおらず、制服を着る学生の姿は一瞥されるくらいには浮いていた。

 駅を出てから、僕たちは適当に散策をしている。南にある国道まで出てから、乗ってきた電車と同じ進行方向へと歩く。地図アプリを見たところ、少し行ったところに公園があるらしいので、そこを目指すことにした。大きな道路なのに、あるものと言えば個人の経営しているコンビニもどきみたいな商店くらいしかない。お昼は公園で食事を取ろうと決めて、その店で買い物をした。

 茹だるような暑さが、上からも下からも迫ってくる。元々、汗はよく掻く方なので、夏場は特に辛い。こうして歩いているだけでも、顎先から水滴が滴り落ちていくのが分かる。拭いたところで何度もそうしなければならないのだから、結局は一緒だ。一方、音切はほとんど汗を掻いていない。暑いとブツブツ独り言ちても、生まれた時から汗腺なんてものを持ち合わせていないのでは、と疑ってしまうくらい、綺麗な肌をしている。なんだかんだ、暑さには強いのだろう。

 歩いていると、木々が生い茂り、辺りより薄暗い入り口が見えた。横にある錆だらけの看板には公園の名前が書いてある。木陰になった道は、国道側よりもかなり涼しい。植木からは沢山の野良猫が道行く人々を見つめていて、中には人馴れしているのか、堂々と道のど真ん中で寝そべっている猫もいた。

 そんな道を抜けると、視界は急に開け、青々とした緑の広がる空間へと出た。草木がそよ風に揺れて葉擦れの音が響き、暑さのせいで充満する、噎せ返るようなにおいが鼻の奥まで届く。辺りの緑の中には、白や仄かなピンク色の花が見え隠れしている。公園の真ん中には大きな池があり、鴨が穏やかな顔をして浮かんでいた。僕たちはここを目指して歩いてきたのに、まるで地図に載っていない、秘密の場所へと訪れたような気分だ。

 散歩をしている人たちに混じりながら遊歩道を歩き、点々と設置された適当なベンチに腰掛けた。ここにいるのも、ほとんどが初老の人たちばかりで、どうやら挨拶を交わすくらいには顔見知りらしい。僕たちは初めて来たのもあるし尚且つ、高校の制服を着ているせいもあって、訝しげな視線を時々向けられる。そのせいで、僕は居心地が悪く、どことなく落ち着かないのだけれど、音切は何も気にしていないらしく、寧ろいつもよりもニコニコしているくらいだった。

「ねえ、僕たち、ちらちら見られてるみたいだけど」

 我慢できずに僕は聞いてみる。隣で音切はさっき買ったジュースを開けていた。炭酸の破裂音に思わず肩が跳ねてしまう。

「そうかな。別に何にも気にならないけど」

 彼女は何も気にしていないらしく、返事をしてからすぐ開けたばかり飲み物を飲み始めた。場所を変えないか、と提案するために横を向くと、ちょうど彼女がペットボトルを仰いでいるところだった。液体を飲み込む度に動く喉、眩しさを遮るために閉じられた瞼、光を集める硝子細工を連想させるボトルと、それを優しく支えるか細い指。彼女を見ているとなんだか、自分の言おうとしていた提案が、馬鹿らしいことのように思えてしまい、僕は口を噤んだ。

「歩いたからお腹空いたし、食べましょ」

 ビニール袋の中からメロンパンを取り出し、彼女は早速食べ始めた。やっぱり音切はパンしか食べないみたいだ。そんなにパンが好きなのだろうか。半袖から伸びる腕は、心配になってしまうくらいに細い。余計なことは言わず、僕はおにぎりを取り出して齧る。味はどこにでも置いてあるコンビニのものと大差なかった。

 学校の階段は陰になるところがあるから良かったけど、太陽の光が容赦なく降り注いでくる。とにかく暑くて仕方ない。汗だくになりながらご飯を食べていると不思議なことに、食事という行為が苦痛に思えてくる。水の上で涼しそうにしている鴨が羨ましい。

「私もおにぎりとかにすれば良かった」

 メロンパンを食べながら音切は呟いた。口元からぽろぽろと生地がこぼれ落ちていく。

「どうして?」

「湿気でべっとりしてて、あんまり美味しくない」

 そう言ってパンを半分残すと、ビニール袋の中へとしまった。僕は食べかけのおにぎりを口の中へと詰め、飲み込んだ。一人だけ食べていると、なんとなく急かされているような気がしてしまう。

「音切って、ご飯粒も食べるの?」

 前々から疑問に思っていたことを、この際なので聞いてみる。彼女の足下の落としたパンくずには、小さな黒い蟻が群がっていた。

「食べるよ。あんまり好きじゃないけど」

「そうなんだ。いつもパンばっかり食べてるからさ、食べないのかと思って」

 そんなことないよ、と彼女は返してから、会話は途絶えた。

 池にいる鴨は相変わらず優雅に泳いでいる。高そうなカメラを持つ老人にレンズを向けられても、寧ろ見せつけているかのような態度だ。でも、水面下で必死にバタ足をしているのだろうと考えると、ちょっと可愛いとも思える。綺麗に見せるだけの術が、彼らにはあるのだろう。そういえば昔、湯船に浮かべて遊ぶ鴨の玩具を、祖母に買ってもらったことを思い出した。発条を巻いて、水に浮かべると泳いでいくものだ。すごく気に入っていて大事にしていたのに、いつの間にかどこかへやってしまった。引っ越しをした際に捨ててしまったのか、それとも、今も押入れの奥底で眠っているのか。どちらにしても長い間、手に取っていない。きっと、もっと大切にしていれば、この歳になって遊ぶなんてことはないにしても、今も手元にあったのだろう。昔に感傷を覚えたわけではない。ただ、どうにも自分が情けなく思えてきた。

「ねえ、君はさ、自分のしたことで他人に迷惑をかけたら悪いと思う?」

 音切が急に聞いてきたので、僕はちょっと驚いて隣を向く。彼女はつま先で蟻の群がるパンくずを、器用に転がしていた。周りにいる小さな群れは、あたふたとしながらも、必死に餌に食いつこうとしている。俯き、垂れる髪のせいで、彼女がどんな顔をしてその様子を眺めているのかまでは見えない。僕は同じように目を伏せて、自分の足下を見遣る。手入れの施されていないローファーは、傷だらけだった。

「もちろん、僕は悪いと思う。だって、少なくともその人の人生に害を加えているわけだしね」

 音切はどうなの、とほとんど呟くような声で僕は問い返す。視界の端には彼女の足が映っている。靴は踵の部分が少しすり減っているくらいで、ほとんど新品同様に綺麗なままだ。

「私は、悪いなんて思わないかな」

 ローファーのつま先で弄んでいたパンくずを踏みつぶしながら、彼女は答えた。本当に、自然とそうなるのだろうと予想できてしまうくらい、静かな動作だった。

「それは……どうして?」

 戸惑いながらも僕は理由を追求してみる。横で彼女が顔を上げる気配があった。僕の視線は踏みつぶしたまま退ける素振りを見せない、一つの処刑道具のような黒い靴へと釘付けになっている。いや、実際のところは、彼女の顔を見る勇気がないだけだ。

「やりたいと思ったことをやっているだけだから」

「そのせいで周りに迷惑をかけているのなら、悪いと思うのは当然じゃないか」

「どうして? 自分の気持ちに素直になった方がいいと思うんだけど」

 彼女はさっきしまったメロンパンを取り出して一口だけ齧った。またパンのくずが地面へと落ちていく。僕は返事に困ってしまい、黙ったまま何を言えばいいのか考える。その間も、音切はパンを片付けていくだけで喋らない。辺りの音が、いっそう僕へと迫ってくる。まるでこぼれるくずが、答えを出せと迫る砂時計のようにさえ思えてしまう。だけど、何も反論を思い浮かべられないまま、音切はパンを食べきってしまった。草の擦れる音や、鴨の間抜けな鳴き声が、嘲笑うみたいに響く。

「私はね、この世に罪なんてないと思うの」

「罪が存在しないのなら、刑務所も裁判所も必要なくなってしまう。それに、好き放題やってる連中がいれば、秩序は保たれなくなる」

「それは社会っていう枠組みに当てはめた時の話でしょう? たしかに、君の考え方はそっちの方なら当然よね。やりたいことをやって、それで他人が迷惑を被るのなら、きっとそれは何かしらの形で裁かれるべきだと思う。だけどね、私が言いたいのは、もっと根本的な部分。そうね……人間本来の姿の話なの」

 僕は音切の話を黙って聞くことにした。池の鴨はいつの間にか、一羽増えていた。

「私たちはね、社会性を得なければ、今頃は自然に生きる動物と変わりなかったのよ。いえ、ここにいる蟻とか群れで暮らす動物にも、秩序のある社会が存在していると言えるね。じゃあもっとも違うものって何だと思う? それはね、理性があるかないかだよ。自制できて、自省できる。自分の行動の齎す結果を予測できる力。ある種のストッパーみたいなものよ。当たり前のことを言うなって思ったでしょ。でもね、私は理性なんてただの錯覚だと思うの。他の動物たちとは違って、心を用いて私たちは繁栄を続けてきた。その中で生まれた社会があったからこそ、私たちは本能とは違う理性を得られたの。だけど、結局それを外してしまえば、私たちは動物と同じ存在なの。フロイトって知ってるかしら。有名な心理学者なんだけど。彼はね、心は意識と前意識、無意識の三つに分けられるって言ったの。そして、私たちがこうして認識している意識というものは、氷山の一角に過ぎなくて、もっと奥底には目にすることができないくらい、膨大な無意識があるって言ったのよ。理性だと思っているものって、結局はちっぽけなものに過ぎないんじゃないかしら。私たちが心を得て、本能を封じるために得たストッパー。そして、そのちっぽけなものが幾重にも編み込まれた社会を重んじて私たちは生きている。背くものは悪で、従順なものは善だと。なんだか、現実逃避をしているみたいじゃない? 私たちは根本的には動物と何も変わらないのにね。人間は動物と同じだって、信じたくないから、理性という言葉を使いたがっているように思えるのよ。いえ、寧ろ、理性だって人間の本能なのかもね。種を存続させるため、それこそ無意識のうちに使っているのかもしれない。だからね、この世に罪なんてものはないと私は思うの。理性なんて拘束があって、それに反したことをするから、罪という幻想がまた出来上がってしまうの」

 そこまで話すと、彼女は立ち上がって伸びをした。下からだと太陽の光へ指先が届いているみたいに見える。息の漏れる音と共に音切は脱力し、腕を重力のままぶら下げた。僅かに揺れた空気は生暖かい。

「罪なんて幻に溺れているから、みんな本当の自分を見失ってしまうの。真の姿が汚いように見えてしまうの。人間は他の全ての頂点に立つ存在だと、信じたいだけなの。本当は汚いと思い込んで、抑えているその姿こそが真実で、いるはずもない怪物に囚われている姿こそが偽物なのよ」

 頭の上から聞こえる声は、どういうわけか高尚なものに聞こえてしまう。音切はふらふらと池の方へと向かい、転落防止用のフェンスに凭れかかった。後ろ髪が風によって、カーテンみたいに揺れている。ついて来いと言われている気がして、僕も重い腰を上げて立ち上がった。ちらりと隣の地面を見ると、平らになったパンくずに、潰れた蟻の死骸が沢山くっついていた。

「……だったら、音切はどうなの? そんなものに囚われていないって言うのなら、悪人って言われることになると思うんだけど」

 同じように、僕もフェンスに手を掛けて彼女の隣へと立って言った。水辺が近くなると、心なしか風も涼しい。音切は池を覗きながら妖しく笑う。

「ふふ、そうだね。本当は私も悪い人かもしれないね。だったら私とつるむの、もうやめる?」

 答えを考えたけれど、何を言うべきかまた困惑してしまう。やめると言えば、きっと彼女は今すぐにでも僕の元を離れていくに違いない。だけど、やめないと口にすると、僕はもう完全に後戻りできなくなる予感があった。深淵を覗くだけではなく、深淵へと身を投じるような、覚悟を問われている気がする。また、沈黙と共に時間が過ぎていくのを待つ。どこへも行くことのできない水草が、水面の上に浮いていた。その様子は、ハッキリと動いているはずなのに、静止画のように見えてしまう。答えを出すまで無限にその時間が続きそうだった。

「冗談。私は何も悪いことしてないし、やったこともないよ」

 ケラケラと笑いながら、彼女は言った。思わず苦笑いをしながら安堵のため息を漏らしてしまう。彼女はそんな様子を見てまた笑った。しばらくぶりに面と向かい合えた気分だ。内心ではまだ、不安を消し去れてはいない。彼女の目の奥にはまだ、仄暗く燃える闇がある。触れてはならない、大きな闇が。

 笑い合っていると、池の畔に大きな鳥が止まった。細長い白の身体は、まるで一つのシンボルのようだ。鳥は笑い合う僕たちへ、造り物みたくぎょろりとした目を向けてくる。悠々としていながらも、どこか威圧的な態度にも思えた。

「でもね、私はきっと自分の気持ちに素直になる日が来ると思う」

「……どういうこと?」

 微かに残った不安の火種が燻りだした。僕たちは向かい合ったまま、お互いを見つめ合う。決定的に違っているのは表情だ。音切は微笑んでいて、僕はそうじゃない。視界の端っこには静まり返った二人を比較する、あの鳥の姿があった。

「天国へ行くために必要なことなの。この身体がないとどうしてもできないことだから」

「つまり、行く行くは罪を犯すって言いたいの?」

 問い質しても、音切は沈黙を破らない。太陽が肌を焼いていく。暑さと緊張で喉は渇ききっている。答えを待たれていたのに、今度は待つ側へと変わってしまった。やっぱり僕は今一歩、確信へと踏み切れない。いや、踏み切ろうとしていないの間違いだ。不安が糸となって僕の脚へと絡まって、先へ進むのを躊躇させてくる。彼女のしたいこととは一体、何なのだろう。色々と思考を巡らせてみたけれど、皆目見当もつかない。

「さあ、どうでしょう。その時になったら、きっと君にも分かるよ。私はまだ、覚悟ができていないだけだから」

 随分と長い間、待たされた気分だったが、答えは曖昧なものだった。暑さも相俟って、自分でも大人気ないと思うくらい苛立ってしまい、はぐらかすなと怒鳴りそうになったが、ベンチへと戻っていく彼女の背中を目にすると、そんな気は失せた。背後で事の顛末を見届けた鳥が、羽音を響かせながら飛んでいく。呆然としてしまい、その場で佇んだ。

 何が音切を作っているのだろうか。どんなものを背負って生きているのか僕には分からない。

 ただ、彼女の網膜に映る世界の色彩はモノクロームなような気がする。こうして立っている僕も、生い茂る草の緑も、鴨の薄い茶色も、点と線で結ばれて、境界を成しているだけで、色合いなんて呼べるものはちっともない。

 そんな風に生きれていたのなら、と僕は考えてしまう。もしも、彼女と違った形で出会っていれば、他の未来があったのだろうか。壊れる前に、どうにかできていたのかもしれない。

 馬鹿げたことだと分かりきっている。過去も今も、変えることはできない。それでも、そんな妄想をやめられないのは、僕があの場所にまだ帰りたいと願っているからなのだろうか。太陽は僕の影を大きく伸ばす。そして、そいつは僕を睨んでいた。あの鳥よりも、もっと明確で、もっと感情的で、もっと憎しみを込めた、どぎつい人間らしい目で。

 ベンチに広げたゴミを纏めた音切が、僕を呼ぶ。気付くと、僕のシャツは汗を吸ったせいで、重たくなっていた。

「今行くよ」

 そう言って僕は、影を踏んだ。

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