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胃を底から突き上げるくらい、潮と生物の死んだ臭いが海水浴場には溢れている。
結局、音切に引っ張られるままここへと来た。この臭いが気にならないのか、隣を歩く彼女は風を浴びながら、深く息を吸っている。
荷物を取りに行きたいと言うと、音切は教室へ戻ったら外へ出にくくなるよ、なんてもっともらしいことで言いくるめられてしまった。結局、鞄も携帯も学校に置いたままだ。手ぶらなのは楽だけど、物を盗まれないかという不安は残っている。
海岸は海開きもまだなので、漂流したゴミの数々が砂浜に散乱していた。どこの国のものか分からないペットボトル、用途の分からない球状の物体、黄ばんだビニール袋。果ては自動車のタイヤなんかも転がっている。そこを歩くと時々、プラスチックか何かが砕ける音が響いた。汚い海だと耳に挟んだことはあったけれど、想像よりも遥かに酷い。音切は慣れているかのように、前を向きながらすいすいと歩いて行くが、僕は俯いて足元を見ながら歩く。シーズンになれば海水浴客が多く訪れるのだろうけれど、この有様を知っていれば、とてもじゃないけど泳ぐ気にはなれない。
それでも、海岸線を会話もなく僕たちは歩いた。少し前を行く音切は、機嫌がいいのか鼻歌を歌っている。悪臭の混じった、気の狂いそうになる風が吹き荒れる中で、よくそんな楽しそうにできるものだ。強風のせいで、前髪は空から糸で引っ張られているみたいに逆立って、手で下ろしてもまたすぐに上へと戻ってしまう。彼女の髪も靡き、僕を誘っているかのようだった。
学校から見た時よりも近くで見る海は退廃的な趣があり、SF映画のワンシーンを彷彿させる陰気な空気に包まれている。天候が天候なので、人影は見当たらない。まあ、こんな日に海へ行こうと思うのは僕たち、いや、音切くらいしかいないだろう。
二人でしばらく歩いた後、こんな高さで波を防げるのか不安になる防波堤に並んで腰をかけた。波の音と風の音、そして時折、警報のような鳥の鳴き声が、僕たちの無言に覆い被さる。他人の奏でる雑音や、車の排気音などの喧騒と呼べるものはここにない。まるでこの世に存在している人間は、ここにいる音切と僕だけなのではないかとさえ感じてしまう。打っ遣りたい荷物も、不安定なこの先も、掻き消えそうな現実も、今はどこかに姿を晦ませていた。心の中は透明な水と化して、網膜を通して入り込む景色だけが脳裏にまで映し出される。その端では音切の髪だけが揺れていた。だけど、隣へ目を遣った時、もしかしたら消えているかもしれないという一抹の不安は拭い切れない。最初からそんな人物はおらず、僕の妄想の産物だったら。彼女の存在を、僕の中で証明できるものは、黒くて長い髪と、潮の臭いの隙間に混じる香気だけだ。
「ねえ、私たちは死んだらどうなると思う?」
音切の声に肩が跳ねる。突然、話題を振られたので、僕は不思議に思いながら、隣を見遣った。彼女は、僕の返答を待っているのか、そうでないのか、よく分からない態度をとっている。本当は他の誰かに話しかけているのではとさえ思えてしまう。
俯いて、足元に広がる砂浜へ視線を落とすと、そこには一匹の小さな蟹の死骸が転がっていた。腕はもげ、脚もアシンメトリーになっており、一瞬、何かのゴミと見紛ってしまった。甲羅は砂を被っており、何日も前に死んだことが窺える。
「……死んだら、そのまま終わるだけだ」
少し悩んでから、独り言ちるつもりで口にした。そう、終わるだけだ。世界から取り除かれて、その先を見れなくなってしまう。自分自身が主人公だなんて大それたことを言うつもりはないけれど、多少はそういう側面もあると思う。物語が閉じた後の話を語れないように、後から起こることを語れなくなる。
やっぱり、彼女はあの時、僕が飛び降りようとしていたところを、目にしたのだろうか。自らを終わらせようとしていたところを。その質問が励ましであっても、責めであっても、惨めで情けない気持ちになることに変わりはない。
「ううん、違うよ」
唐突に防波堤から音切は飛び降りると、砂浜の上に立った。波を止めるには低いけど、飛び降りるにはそれなりの高さがある。だけど着地した時、音はなかった。空を飛ぶ海鳥の羽根が優しく落ちてきて、一人の少女の姿に変わったみたいだ。
「私たちはね、死んだら天国へ行けるの」
「天国?」
「それは君の宗教的な考えかい?」
何にしても、僕たちはもう高校生だ。本格的に宗教信仰のある人や、祖父母ならまだしも、彼女はそういった人種に見えない。もしくは、新興宗教の布教のつもりなのだろうか。家族の誰かが宗教にハマっていて、その影響を直接受けているのなら。色々と背景を想像していると、疑いが表情に出ていたらしく、音切は冷たく笑った。
「信じないの? 死んだら、本当に行けるんだよ」
潮風が、僕たちの間を通り抜けていく。手を伸ばせば届く位置にいるけれど、落ちれば命は助からない深さの川が流れているかのような気がして、委縮してしまう。
「この世界はね、どれだけ願っても叶わないことで溢れていて、私たちは不自由に暮らしてるの。だけどね、死んだらこんなどうでもいい身体から解放されて、なんでも自分の好きなようになるところへと行ける権利をもらえるの」
明るく話す彼女の口元が、髪の毛で隠れる。その顔を見て、僕は些か悲しみにも似た衝動を覚えてしまう。彼女の目は打ち上げられた魚みたいに活力がなかった。最初から笑ってなどいなかった。瞳は夜の気配で暗く濁っており、感情も表情もない。目が笑っていないとは、こういうことなのだな、と思う。僕は出会ってからずっと、彼女の表面を照らす光だけを見ていた。本当は、もっと深い影のような存在なのだ。
「僕も、死んだらそこへ行ける?」
意識しないうちに、生唾を飲み込んでいた。その問いが、僕の全てを変えてしまいそうな予感がある。いや、予感なんてものではない。変わってしまう。今まで募らせてきたもの全部が。
「もちろん、行けるわよ」
人か、天使か、それとも悪魔か。僕には彼女の、音切の正体は分からない。あの階段で出会ってからまだ数時間しか経っていないのだから。ただ確かなことは一つだけあった。彼女は毒であるということだ。それも、緩やかに回り、気付いても止めることのできない毒。
「二人で行こうよ」
音切は防波堤の上に座る僕へと手を差し伸べてくる。指先は水が玉で転がりそうなくらいしなやかなのに、生気のない人形を彷彿とさせた。二人で、天国へ。一緒に死のうと言われているのと同じだ。素性も知らない女の子に、そんなことを言われてついていこうとするなんて愚かしいことこの上ない。
なのに、僕は音切の手を取った。
肉の薄い骨ばった手は無機物的な固さがある。静かな狂気が、皮膚の上を伝ってきた。思えば、初めて手を差し伸べられたかもしれない。騙されていてもいい。僕を良いように利用しようとしていてもかまわない。ただ僕は、少女と共に歩めるのなら本望だ。
僕は防波堤から腰を上げて、砂浜へと立った。彼女のように上手く着地できず、情けなくよろけてしまう。足元にあった蟹の死骸は、砂へ埋もれて消えた。
「ありがとう」
そう言った彼女の顔は、初めて心の底から笑っているように見えた。
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