第六週「隣人」

随分、昔に住んでたアパートの話なんですけどね。

あの時は大学生で、関西にある大学の近くのアパートに下宿してたんですよ。


あれは4年生の時でした。卒論に追われてたんで、よく覚えてます。

その時の私は課題と卒論の提出期限に追われてて、結構、深夜までパソコンに向かっていたんですね。

大体、いつもヘッドホンをして、洋楽やネットラジオを流しながら、キーボードを叩いていました。


深夜の2時頃ですかね、いい加減、寝るかー、と思ってヘッドホンを外したら、びっくりしたんです。


隣の部屋から結構、大きな物音がしてるんですよ。


ギシギシ、ギィギィと床が軋む音や、ガチャガチャと何かを動かすような音。

しかもそこに……男と女の荒い息づかいや喘ぐような声も重なっていました。


当時、そのアパートの2階の203号室に住んでたんですが、近所づきあいとかはまったくなかったですし、隣近所にどんな人が住んでいるのか知らなかったんですね。

で、その音は隣の202号室から聞こえる。


私も若かったんで「おいおい、こんな時間にかよ」なんて思いながらも、心なし、そわそわしていました。

ですが、まぁ時間も時間ですし、これから寝ようというのに、そんな音を出されてたらかないません。


卒論に追われて寝不足が続いて、イライラしていたこともあり、これは一言、何か言わないとと思った。

ただ、部屋を出て、202号室の前まで来たんですが……そこで怖気づいちゃったんですね。


何せ隣にはどんな人が住んでるのか、まったく知らない。

もし、文句を言ってやろうとして、出てきたのが怖いお兄さんだったらどうしよう。しかもこれからも隣で生活するのに。

そうしてドアの前でやきもきしてたら、


バン!


と、ドアが開いた。201号室のドアが。

そこからタンクトップに短パンの50過ぎくらいのおっさんが出てきた。



「おう、兄ちゃんもここの奴に用か」



こう言っちゃなんですが、一目で苦手なタイプだと思いました。

何というか、いわゆる典型的な関西のおっさんというか。やかましいタイプというか。



「ここのヤツ、さっきからうっさいよなぁ」



そう言うと何の躊躇もなく、男はバンバンと202号室のドアを叩き始めました。



「おい! さっきからうっさいねん。ちょっと出てこい!」



こっちが慌てて止める間もなく、ドアを叩きながら男が怒鳴ると、ギィとドアが開きました。

どんな人が出てくるかと身構えていると、ドアチェーン越しに出てきたのは、若い女性でした。私と同い年か数歳しか離れていなかったと思います。


綺麗な女性でしたが、思わず後ずさりました。

何せその女性の顔なんですが、口の端が切れて血が滲み、右目がひどく腫れて、まるで試合後のボクサーのようでした。どう見ても誰かにひどく殴られたようにしか見えません。



「お、おう……あんたここの住人か?」



さすがの201号室の男性もその様子に少したじろいだようで、言葉尻が濁っていました。

女性はこくりと首を縦に振ります。



「隣のモンやけど、こんな時間にやかましいねん。わかるやろ? この兄ちゃんも、やかましゅうてかなわんから出てきたんや」



「……すみません。気を付けます」



消え入りそうな声でつぶやくと、女性はドアを閉じました。



「なんやけったいな……」



そんな事を言いながら男性も自分の部屋に帰っていきました。


何というか、すごく気まずい時間でした。

まぁ、でもあの男性が強めに言ってくれたし、もう大丈夫だろうとは思いました。






それで次の日なんですが、また卒論のために結構、深夜まで頑張ってたんですね。


一区切りついたんで、ヘッドホンを外したら……また隣から音が聞こえてきたんですよ。

昨日よりは大分、静かでしたが、なんというか機械の駆動音って言うんですか。

電動ドリルを回している時のような「ウィーン……ウィーン……」という音が断続的に聞こえる。


いやいやいや、声を抑えているからって、そんな音させてちゃ……ねぇ?

昨日のアレはハードなSMだったのかな、なんて思いつつも、まさか2日連続でそんな音させるとは思ってなくて、びっくりしましたよ。


それで、これはまた言いに行かないといけないかなー……とは思ったんですけど、昨日の女性の様子を見て、またあの顔を見るのは嫌だなー、とも思っていたんですね。

それに今度は男の方が出てくるかもしれない。女性の顔をあんなになるまで殴るような男が、ですよ?


で、行こうかなどうしようかなーと、迷っているとドアが「バン!」と開けられる音がする。

おそるおそるドアスコープを覗くと、視界の端に201号室の男性が202号室のドアを何度も叩いているのが見えました。


そりゃまぁ、昨日の今日で、そんな騒音立てられたら当然と言えば当然ですよね。

私はその様子を見て、彼女とも顔を合わせるのも嫌だし、もう201号室の男性に任せようと思ったんです。

リビングに戻るとさっきまでの機械音は消えていて静かなものでした。

いや、あの手の無遠慮でやかましい、おっさんは苦手でしたが、この時ばかりはありがたいと思いましたね。


これで静かに眠れる……と思った明くる日でした。

またあの音がするんですよ。「ウィーン……ウィーン……」って例の機械の音。

いやいや冗談だろ、と。これはもうわざとじゃないのか、と。

それでまたドアスコープで廊下を覗くんですが、今夜は留守にしているのか、それとももう諦めたのか、201号室の男性は出てきません。


これはどうしたもんかな、と頭を悩ませました。


正直、自分が出て注意するような真似は極力したくありませんし、201号室の男性がアレだけ強く言っても聞かない相手を自分が説得できる気はしません。


そこで少し考えて、もう管理人さんにお願いしようと思いました。

赤の他人の住人ではなく、住んでるアパートの管理人の話なら聞くだろうと。


その夜はガマンして、翌朝、大学に行くついでに1階に住む管理人を訪ねました。

管理人さんは60代の女性で、会うのは入居以来でしたが、騒音の件を相談すると、快く引き受けてくれました。






これでもう一安心かな、と思い、大学で授業を受け、夜になってアパートに帰ると……ゴミ捨て場にあの女性がいたんです。


スレンダーというより、疲れ切って、げっそりと痩せた身体に、よれよれのカーディガンを羽織り、傷だらけの顔には絆創膏や眼帯が貼られ、とても痛々しい様子でした。

彼女はちょうどゴミを捨てようとしているところで、嫌なタイミングで出くわしちゃったなー、と。


見つからないように自分の部屋に行こうとしましたが、目が合ってしまいました。

彼女は私に気が付くと小走りに近寄ってきて「隣の部屋の方ですよね」と詰め寄ってきた。そして



「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」



と、頭を下げて何度も謝った。



「うるさくしてごめんなさい。わたしもしずかにしたかったのごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」



「ちょ、ちょっとやめてください」



彼女の肩に手をかけ、謝るのを止めさせました。

アパートの前で顔が傷だらけの女の人に謝らせているのを、誰かに見られて勘違いされるんじゃないかと気が気じゃないですし、何より抑揚のない声でひたすら呪文のように謝り続ける彼女が怖かったんです。



「もういいですから。顔をあげてください」



そう言うと、ようやく彼女は謝るのをやめてくれました。



「あの……毎晩、うるさくしてるのって、あなただけのせいじゃないですよね? あの部屋、他に誰かいるんですか? その顔の傷とか……」



その言葉に彼女はひどく狼狽うろたえ、両手で顔を隠すなど落ち着かない様子だった。



「実は……」



と、彼女が言葉を切り出した時に「あ、踏み込み過ぎたな」と後悔しました。


彼女いわく、同居はしていないが、頻繁に部屋に来る恋人が酷い男らしく、会う度に無理矢理、乱暴に犯すだけでなく、暴力は振るうわ、物は壊すわ、金を奪うわで典型的なDV男らしい。

当然そんなの放っておくなり、警察に任せるなりすべきだと思ったんですが……彼女の話を聞いている内に、何とかしてあげたいと思ったんですね。

正直、彼女が同世代だし、顔は怪我してましたけど、その……結構、かわいかったのもあると思います。



「ボクでよければ力になりますよ」



なんて、ガラにもないこと言っちゃったんです。

そしたら彼女の方も、ぱっと明るい顔を見せてくるじゃないですか。

内心ひやひやしてましたけど、その笑顔を見たら、良いトコ見せたいなぁ、なんて。


彼女の方もその酷いDV男とは何とかして別れたいとのこと。

そこで相談されたのが、彼が暴力を振るう様を一部始終、記録して欲しいとのことでした。



「明日の夜の10時にウチに来てもらえませんか」



何でもそのDV男は、来るときは大体、夜の11時過ぎに来る。

なので、その前に部屋のクローゼットに隠れてもらい、そこからスマホで一部始終を撮影してほしいとのこと。撮影して証拠さえ掴めば、あとは警察に任せることができる。

そこまで事情を聞いてしまった以上、断ることもできず、協力をせざるをえませんでした。

撮影について承諾すると、さっき謝ったのと同じような勢いで、彼女は何度も何度も私にお礼を言いました。


自分の部屋に帰ってしばらく考えたのですが、複雑な気分でした。

まるで探偵のような体験ができるのでは、と思う反面、厄介なことを引き受けてしまった後悔もあります。当然、途中で見つかったりする危険だってあります。

それでも、一度、勇気を出せば、安心して眠れる夜が戻り、なおかつ隣人の女性が助けられるなら悪くないじゃないか、と自分に言い聞かせました。


そんなことを考えて翌日、いつものように大学で講義を受けて、自室で彼女の指定した時間まで課題に取り組んでいました。

10時までは大分時間がありましたし、夕飯を済ませ、期末に向けた課題を片付けていました。


そしたら……間抜けな話なんですが、居眠りしちゃったんですよ。

スマホのアラームのスヌーズで飛び起きた時には、時間はまさに10時ちょうど。

慌てて、部屋に行かなきゃと思いました。

寝起きのぼんやりとした頭で、スマホを持ち、部屋を出ようとした、その時でした。



「きゃあー!」



隣の部屋から彼女の悲鳴が聞こえたんです。

しかも何か男と言い争う声と、ドタバタと物の壊れる音まで。

しまった、と思いました。自分が寝過ごしたせいで、取り返しのつかないことが起きたのではないかと背筋が冷たくなりました。


今更、手遅れかもしれません。それでも大急ぎで部屋を出ました。

相手がどんな男か分かりませんが、まだ止められるかもしれない。あとは野となれ山となれと思って。


勢いよくドアを開けた先には……屈強な男がいました。

なぜ私の部屋の前に見知らぬ男がいるのか。男は混乱している私の肩を強く掴むと、



「危険です。部屋から出ないでください!」



---その男は警察官でした。

なんで警官が? という疑問が浮かびますが、その時の私は彼女のことが心配で仕方がありませんでした。

むしろ警察が来ているとなると、いよいよ只事ただごとではない。彼女の身に何かがあったにちがいありません。


隣の部屋からはバタバタと誰かが激しく暴れるような音と、彼女の悲鳴、男の怒号が飛び交っています。

部屋へ戻るように指示する警官と押し合いになりつつ、彼女の安否を案じていると、隣の部屋のドアが開きました。


すると数人の警察官に囲まれて出てきたのは---手錠をされた彼女でした。


彼女は私を目にすると、夕方に会った時とは別人のような……鬼のような形相で私の首めがけて飛び掛かってきました。



「どうして!!! どうして!!!」



直前で警官2人が覆いかぶさるようにして止めてくれなかったら、彼女の両手が私の首を絞めていたのは間違いありません。



「どうして!!! どうして、時間通りに来なかったのよぉ!!!!」



組み伏せられた彼女は無理矢理、警官2人に引きずり起されると、アパートの外まで連行されていきました。私はその一連の逮捕劇を呆然と見送ることしかできませんでした。


彼女を乗せたパトカーが去った後、深夜にも関わらず、バタバタと大勢の警官が現れ、部屋へ殺到し、同時にドアの外をブルーシートで覆います。


やがて、数時間後、警官の1人が私の元へやってきました。



「すみません。203号室の方ですよね。今回の件でお話があるので、車までお越し願えますか」



頭は依然、混乱していますが、警官に導かれるまま、パトカーへ乗せられました。



「あなたも関係者なので、今回のお話をします。ただし内容については口外しないように」



---と、念押しされた上で、語られた内容は下記のとおりでした。




彼女には確かに付き合っている男性がいました。

彼女の言う通りの酷いDV男でした。

ところが、2日前。つまり私と201号室の男性が苦情を言いに行ったあの日。


度重なるDVに耐えられなくなった彼女は情事の後、ベッドで眠っている男を殺すべく、キッチンにあった包丁で何度も刺した。


意外な話だったが、女性の力で大の男を包丁で人を刺し殺すというのは、余程の急所をつかない限り、難しいそうだ。

よくドラマや映画で腹を刺されて一撃で死ぬ、というシーンがあるが、現実ではそんなことはまずないらしい。

彼女は背中や腹を何度か刺したが、男から反撃を受けた。

それでも一時間近い格闘の末、失血によって反撃する力を失った男の頭を何度も殴打し、首をタオルで絞め、やっとのことで殺害した。


私が201号室の男性と彼女の部屋を訪れた時、その時、男はもう反撃する力もなくリビングで倒れ伏していた。

---私たちが去った後、首を絞められ、殺されたそうだ。

死んだのか確信できなくて、一時間近く絞めていた。


その翌日、彼女は電動のこぎりで死体を解体した。

音が漏れにくく、血を流せる浴室で、鉈と電動のこぎりを使い、身体の端から少しずつ死体を解体していた。……あの機械の音は電動のこぎりの音だったんですね。


ところが、その音に隣人が……201号室の男性がやってきた。

彼女はその時、彼を部屋の中に招いたそうです。

そして今度は自室内で201号室の男性を殺害した。


「地蔵背負い」って言うんですね。

小柄で腕力のない女の人でも、人を絞め殺せる方法で、背後から相手の首にロープや縄を巻き、背中合わせになるようにして相手を背負って、頭を下げるんですって。

それが一番、力もいらないし、相手の顔を見なくて済むから、誰でも、首を絞められるそうですよ。

死体は1人目と同じように浴室に寝かせていたそうです。


その翌日……つまり今日の午前中に来たのが管理人でした。

そしてやってきた管理人も彼女は殺害しました。同じように首を絞めて。


警官もびっくりしていました。

ここまで来ると、って。


警察に通報したのは、管理人と同居している娘さんでした。

実は昔、注意に行った住民とトラブルになったことがあり、以後、娘さんに行き先と決まった時間に戻らなかったら警察に通報するように取り決めしていたんです。

今日の午前中、202号室の彼女の部屋に行ったきり、戻って来なかったので、通報したんですって。


警察が見たのは三人の死体。

201号室の男性と管理人の絞殺体はそのままでしたが、最初に殺された若い男は手首と足首がなくなっていました。電動のこぎりで切除できたのはそこまでだったようです。


バラバラにされた指や手足は翌朝、ゴミ捨て場で発見されました。

私が彼女と話をしたあのゴミ捨て場です。

あの時、生ごみに混ぜるようにして、男の手足を捨てていたそうです。






---あの夜、もしも私が寝過ごしてなかったら。

彼女は部屋に招いた私をどうするつもりだったんでしょうね。


もうそのアパートは引き払いましたが、今でも夜にひとりでいると彼女の顔を思い出します。

連行される最中、半狂乱で叫び、警官2人に取り押さえられながらも必死に暴れていた彼女の顔……あの時ですね、最後、その姿が見えなくなる一瞬、


「お前で最後だったのに」


と、確かに言っていたんですよね。彼女。私のことを、じっと見て。

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