メビウスの山手線(ショートショート集)
権俵権助(ごんだわら ごんすけ)
メビウスの山手線
月曜の朝。サラリーマンにとっては憂鬱の代名詞。
山手線の車輌にぎゅうぎゅう詰めにされている彼らの大半は「スーツを脱ぎ捨て、どこか遠くへ行ってしまいたい」と思っている。しかし背負ったものはそう簡単には捨てられず、それぞれ今日も憎き弊社の最寄り駅で順に降りていくのである。
……その男を除いては。
降りるべき駅はとうに過ぎ去った。通勤ラッシュが収まり、すっかり落ち着いた車内。乗客はまばらだ。鞄を抱いてひとり静かに座り、窓の外を流れる景色をボーっと眺めていた。
入社四年目にして初めてのサボり。三年間は我慢しろと言われたから我慢した。でも何も変わらなかった。だからサボった。
(やってしまった……)
不安。焦燥感。罪悪感。脳にこびりつく負の感情を閉じ込めるようにギュッと瞼を閉じる。
(このまま……このままどこか知らない場所まで連れて行ってほしい……)
しかし、そこは悲しいかな山手線。ぐるりと29の駅を巡った先に待っているのは「振り出しに戻る」である。
(次の駅で一周か……)
目を開けるのが怖い。まだ現実を見たくない。しかし電車は彼の思いを汲み取ってはくれない。残酷にもアナウンスが駅名を告げた。
(……降りよう)
このまま乗っていたら、一度は遠ざかった会社がまた近付いてくる。そう思うと自然に瞼が上がった。その目の前には。
ネガの世界が広がっていた。
ネガポジのネガ、である。白いものは黒く、黒いものは白い。視界の色が反転していた。自分の目がおかしくなったのかと疑ったが、どうやら違う。手足も、スーツも、抱いた鞄も元の色のままだ。つまり、自分以外の景色だけがネガ反転していた。他の乗客は? 見渡すと、いつの間にか乗っているのは自分ひとりになっていた。
「どうなってるんだ……」
電車が停止し、扉が開く。確かに「どこか知らないところへ連れて行ってほしい」とは願ったが、得体の知れない場所へとは言っていない。思わずプラットホームへ飛び出したのは、このまま乗り続けていればさらにおかしなところへ連れて行かれそうな気がしたからだ。
「ここは……」
見慣れた地元、上野駅。その名が書かれた吊り下げ看板は片側が天井から外れて今にも落下しそうだし、改札の上にある壁画はヘドロのような液体によって汚され、異臭を放っていた。
(誰もいない……)
外へ出ても荒廃した景色は続いていた。地面のコンクリートには大きな亀裂が走り、駅前の歩道橋は階段部分を残して崩れていた。自宅のある方角へ目をやったが瓦礫の山が続いているばかりで、とても無事に家が残っているとは思えなかった。
「あれは……?」
崩落した建物の向こうに見慣れないものがあった。ここから数kmは離れているのではっきりとはわからないが、何か石でできた巨大な建造物……ゆうに30mは超えるだろうか……立方体のピラミッドのようなものが幾つも建っていた。
「石棺には近付かない方がいいよ」
声に振り向くと少女が立っていた。折れそうな細い体。腰まで伸びた暗い紫色の髪。高校生くらいに見えるが、妙に落ち着いた佇まいで実年齢を読ませない。
「あなた、表から来たんでしょ?」
「……表?」
「表と裏があるのよ、山手線」
言っている意味がわからず男は混乱していたが、少女は構わず続けた。
「メビウスの輪、知ってる?」
「え? ……たしか、長方形の両端……その片方の端を裏返してくっつけると、表と裏が繋がるっていう……」
「そ。山手線の2周目は裏側に繋がってるの。で、裏を一周するとまた表に戻る。知らなかった?」
「バカな」
「じゃあ、あなた生まれてから今まで山手線を2周したことあった? そして今あなたが見てるものは何?」
そうやって詰められると返す言葉が無い。
「あなた、表がイヤになってここへ来たんでしょ? だったら、ちょっと私に付き合ってよ」
※ ※ ※
「そこ、足元崩れてるから気を付けなよ」
少女は慣れた足取りで瓦礫の山を飛び越えていく。
「……君はいつからここに?」
「生まれた時からだよ」
「……君以外に誰か住んでるのか?」
「今は私とお婆ちゃんだけ。昔はもっとたくさんいたけど、みんな表に行っちゃった」
「…………」
見渡す限りの廃墟。その中にぽつんと灯りの点いた一軒家が立っていた。
「あれ、私の家」
※ ※ ※
「お婆ちゃん、久しぶりに表からお客さんが来たよ!」
居間。ひとり静かに正座する老婆がいた。白髪に猫背。そこまでは普通だが、その顔は大仰なガスマスクに隠されて見えなかった。
「……何度も言ってるじゃろう。この世に表も裏もないわ」
マスクでくぐもったしゃがれ声は機械で加工されたように聞こえて、人間のものだとは思えなかった。
「あの……ここは一体何なんですか?」
「お前たちが捨てた世界だよ」
マスクで表情は見えないが、その声には怒気が籠っていた。
「繰り返す天災に人災。その度に次代への負の遺産が蓄積されていった。だがお前たちは『前を向く』と言って、ここを捨ててもう一つの山手線を作ったんだ」
「ほら、これ」
少女が壁にかけられた絵を指さした。あちこち破れて色褪せていたが、見覚えのある図だった。山手線の路線図。だが、それは男の知る山手線ではなかった。駅が一つ多かったのだ。
「……なんだ、この高輪ゲートウェイって」
「30番目の駅さ。まだ災いの無かった頃を模して作られたお前たちの山手線には存在しない、ね」
本当にそんなことがあるのか。男は恐ろしくなって後ずさった。少女はそれを見てため息をついた。この人もダメか、という落胆である。
「前を向けば下は見えない。見なくて済む。そうやってお前たちはこの世界を無意識下で無視してきたのさ。言ったろ、この世に表も裏もないと。すべては地続きなん……ガホッ」
ガスマスクの隙間から紫色の血液が漏れ落ちた。
「……貴様が今考えていることはわかるぞ。逃げ出してきた自分の世界の方がまだマシだった、とな」
男には返す言葉が無かった。
※ ※ ※
「本当はこっちの世界にいてほしかったんだけど」
駅まで見送りに来た少女が名残惜しそうに言った。
「……俺、表に戻ったらこっちの世界のことをみんなに知らせるよ。そして、きっと君たちを助けてみせる」
「それはうれしいね」
電車は動き出し、再び巨大な輪を描き始めた。その輪が今度こそ一周を終えて色彩を取り戻した時、男の意識と記憶の中に少女はいなかった。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら男は思う。ああ、仕事に行くのイヤだなあ……と。
そのため息の奥に、かすかに紫の血の味がした。
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