僕は恋をしてしまった。
かずみやゆうき
第1話 引っ越し
大学入学を機に東京から移り住んだ大阪。
初めての関西は色んな意味で発見も多く、僕はとても気に入っていた。
大学から斡旋してもらったアパートは御堂筋線の中津駅から徒歩十五分の場所にあったのだが、中津という街は、梅田まで歩いて行けるという絶好の立地にありながらも開発が手つかずのエリアが多く、とても住みやすい街だった。希望する会社へ就職が決まった際に、初めて引っ越しのことを考えたものの、結局、卒業後も四年間この部屋で過ごしたのだ。
そんな僕が、昨日、このアパートに別れを告げたのである。
急な引っ越しの情報は会社スタッフにも知れ渡り、数人に理由を聞かれたものの、その度にただの気分転換で押し通した。しかし、本当の理由は、一緒に住んでいた瑠依子と半年前に別れたことだった。この部屋は思い出がありすぎて、ことある毎に瑠依子の面影を感じてしまう。このままでは僕は前に進めない。この部屋を出なければならないと決心した僕は、毎日ネットで不動産情報サイトを閲覧し、新しい部屋を探し始めたのだった。
そして、ある時、ふと目に止まった物件に、間髪入れず申し込みを実行したのだ。そして、僕は今、奈良市郊外の小さな一軒家にいる。
「神谷さん〜。いはる〜? 荷物やで〜」
宅急便のおじさんの声が狭い一軒家に響き渡る。
「はーい。ちょっと待って」
僕が細くて急な階段を降りて行くと、すでに玄関先にはダンボールが積み上がっていた。
今回の引っ越しに際し、今まで使っていた冷蔵庫、炊飯器、テレビ等の家電製品や、整理棚、タンスなどの家具類も全てリサイクルショップに売却してきたので、僕の荷物は中型のダンボール五箱しかない。差し出された端末の液晶部分に人差し指でサインをすると宅急便のおじさんは額からの汗も拭わぬまま、「ありがとさん」と踵を返し小走りで駆けて行った。玄関越しに見える青空には、むくむくと沸き立つような入道雲が広がっている。
長雨が続いた六月が終わり七月になると急に暑くなった。カーテンがかかってない窓からは容赦なく夏の陽射しが入ってきている。大阪よりここは暑いのかもしれない。僕は、そう思いながらダンボールを一つずつ二階へ上げていった。
ここは、奈良市山陵町。「みささぎちょう」と読む。そう、ここは、君主、天皇、皇后のお墓(古墳)が沢山ある街なのだ。だからここは昔から「みささぎ」と言われて来たのだろう。
自然がまだ沢山残る長閑な街ではあるが、最寄り駅の近鉄平城駅から、会社がある大阪梅田までは、二度の乗換はあるものの、約六十分と案外近い距離なのだ。そして、今回この街への引っ越しを決意させたのが、大阪では考えられない破格な家賃だった。一階は十二畳のリビングと四畳のダイニングキッチン、独立した風呂と洗面、トイレが有り、二階は六畳二部屋という一人では申し分ない、いや、ちょっと広すぎる位の物件が、なんと月五万五千円。共益費の五千円を加えてもたったの六万円なのだ。しかも、年季は入っているが備え付けの家電や家具は、自由に使って良いとの事。勿論、この物件は、築二十五年と築浅ではないが、大家さんがしっかりと管理をしていたのだろう。外装も内装も全くそのことを感じさせない清潔さを保っていた。
二階へ上がり、型古のクーラーの電源をONにする。思ったよりすぐに部屋が冷えてきた。
運び終えたダンボールを開け少しずつ荷物を片付け始めた時、ふと観音開きの小さな棚に目がいった。とても精巧に出来ているようだ。素人の僕でもそう思うのだからこれは値が張るものかもしれない。
両手でゆっくりと開けてみる。全く音を立てず静かにその扉は開いた。中は、十五センチ程の正方形の引き出しが九つ、そして二段の引き出しがあった。その正方形の一つをゆっくりと引いてみる。こちらも無音でなめらかに動く。
僕は、全ての引き出しを順番に開け、その感触を楽しんでいた。くたびれた革袋に詰めこんでいた小物類をダンボールから取り出す。筆箱、眼鏡ケース、手彫りの印鑑、小銭入れ、zippoのライター等々……決して高価なものではないがとても気に入っているものたちだ。それらを、正方形の引き出しの中へ入れていく。
そうだ、祖父の形見のロレックスもこの引き出しに入れておこう。
そして、二段になっている大きめの引き出しには、僕の唯一の趣味であるカメラ関係の雑誌や風景写真集を入れていく。次は衣服類だ。クローゼットの扉を開くと一人では十分過ぎる空間が目の前に広がった。ここには、衣服以外に掃除機なども入りそうだ。
こんな調子でゆっくりと荷物整理をしていった。ダンボール五箱の中身は、一時間も掛からず備え付けの家具類に見事に収まった。
まだ昼前だが朝食抜きだったせいかお腹が空いてきた。
履き古したスニーカーを引っかけ平城駅前のショップ柴田に昼ご飯を買いに出かけた。このストアは、狭いものの、広いジャンルの商品が所狭しと置いてあるので重宝しそうだ。海苔弁当とノンアルビール一缶をレジに置くと、レジ番をしていた背が低いおばちゃんに話しかけられた。
「あんたなん? 線路渡って右にちょっといったとこの石崎さんが管理してはる空き家を借りたっちゅうのは?」
「あっ、そう。僕です。神谷尊人っていいます」
「関西の人ちゃうんやな」
「はい。やっぱり分かりますか。生まれは東京なんですよ。大学から大阪に来ていて。結構長く住んでるんだけど、未だにえせ関西弁しかしゃべれないんです。この辺、初めてやからまた色々と教えてください」
じっとおばちゃんは僕を凝視していたが、小さい声で、「大丈夫みたいやな」と言った。ん? 一体何が大丈夫なんだろう? だが、おばちゃんは、お釣りを僕に渡すとレジ裏にある扉を開け、急にいなくなったので、問い返すタイミングを逸したまま僕は店を後にした。
さあ、食べよう。この弁当はどうやらあの店で作っているようだ。とても美味しそうな匂いがしてくる。
リビングからは新緑が見え、蝉の声も聞こえる。たまに通る近鉄電車の音もそんなに気にならない。
海苔弁当を食べ終えた僕は、小さな庭に面した窓を開け、タバコに火を灯す。ここに決めて本当に良かったと心から思っていた。
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