第6話
くるり、という形容詞の似合う可憐な仕草で振り返った黒条さんは、先程までの凍り付くような眼差しから一転。慈愛に満ちた笑みを浮かべながらコチラへ歩み寄ってくる。
「さぁ、立って白柳さん。いいモノを見せてあげる」
差し出された手を掴むと、そのまま引っ張り上げられた。
足が痺れていた為、前のめりにふらつく私を黒条さんが優しく受け止めてくれる。
「おっと、大丈夫?」
「‥‥‥う、うん。平気‥‥‥それよりも」
視線を床板の上に倒れている、木村さんたちへ向ける。
「心配いらないわ」
黒条さんは、コチラの云わんとすることを鋭く察すると。
「あの人たちなら今ごろ夢を見ているはずよ」
「でも、このままここに置いていったら、皆、風邪ひいちゃうよ」
「‥‥‥」
その言葉にしばらく唖然とする黒条さんは、次の瞬間、クツクツと笑い出した。
「やっぱり、アナタ変わってる。自分を襲おうとした相手を心配するなんて、そんなの普通の人には出来ないことよ。思った通り、白柳さんって、すごく面白いね」
「う‥‥‥っ!」
思わぬ言葉に地味に傷つく。
「ごめんなさい、別に皮肉を言ったわけじゃないの」
ガラの悪い大人たちを前にしても怯まなかった黒条さんが慌てる姿が新鮮で、私は思わずクツリと笑みを漏らしてしまう。
「何か、おかしかった?」
「ち、違うの‥‥‥!」
不思議そうに首を傾げる黒条さんへ、私は慌てて言いつくろう。
「‥‥‥‥何だか変な感じだから」
「変?」
この状況そのものが。とは流石に言えなかったので、慌てて代案を口にする。
「いや、だって、私たちって‥‥‥ほとんど話したことなかったのに、それがこうして危ない所を助けられるなんて、ホント考えもしなかったから‥‥‥」
言葉尻をごにょごにょと窄めながら顔を伏せていると、黒条さんの指先が私のおとがいをクイッと上向かせた。
「こ、黒条さん?」
激しく困惑する私の額へ、コツンと自分の額を重ね合わせながら。
「いいえ、違う」
玲瓏な水晶のような瞳は割れた窓から差し込む月明りを呑み込んで爛々と輝いていた。
「こうなることは最初から決まっていた。だって、それが私たちの運命なんだもの」
「運命?」
その言葉を口中で反芻しながら、私はそれとは全く別のことを考えていた。
亡くなった母は、私が落ち込んだり、泣いたりすると、決まって額を重ね合わせて話を聞いてくれた。奇しくもソレは、黒条さんがやっていることと同じで、なんだか母と会話をしているみたいで、柔らかな温もりが胸の中にジンワリと広がっていくのを感じた。
「さて、されじゃあ行きましょうか?」
「い、行くってどこに?」
「フフッ、直ぐに判るわ」
悪戯っぽく微笑むと、おもむろに私の体に細い二本の腕が回された。
三か月前にここで踊ったときと同様、その華奢な腕からは想像もできない力で。
次の瞬間、足の裏側から硬い床板を踏む感覚が途切れた。
慌てて視線を下げるや、甲高い悲鳴を上げた。
「きゃああああああああ‥‥――――ッ‼」
反射的に黒条さんへ縋るように抱きつく。
「と、飛んでる⁉」
そう口にする間にも、床板との距離はどんどん広がっていく。
「しっかり捕まってて」
黒条さんが耳もとで小さく囁いた直後、全身に急激な圧力が加わり、風景が滝のようにグングンと下へ下へと流れ落ちていく。
「~~~~~~~~~…ッ‼」
叫び声は、空気を切り裂く飛翔音によってかき消された。
目を開けていられず、ギュッと固く閉ざすこと十数秒。気が付けばさっきまでの飛翔音は消えて、代わりにファーッという緩やかな風音に変わっていた。トントン、と肩を優しく叩かれ、恐る恐る瞼を持ち上げた先に広がる光景に、思わず息を呑む。
雲の上は広く、果てがなかった。そっと足元を見下ろせば、煌々と瞬く夜の東京が見える。凍てつくような空気に、吐いた息が白く凍ってキラキラと流れていく。
昔、母さんに読んでもらったことのある『不思議の国のアリス』。その主人公の少女が、それまでと違った世界に眼を輝かせるのと同じように見入っていると、耳元で黒条さんがそっと呟いた。
「ねぇ、もっと上を見て」
「――――ッ‼」
言われるままに頭上をふり仰いだ。
そこには濃紺のキャンバスに無数の星々が拡がっていた。
地上から見る景色とは違う、手を伸ばせば届きそうなくらい星が近い。
どれだけそうして星に見入っていたのだろうか、気付けば頬を涙が伝っていた。
それは、これまでに流したどんな涙よりも、暖かく、胸の奥につっかえていた何かを優しく溶かしていく。これはきっと、世界の美しさに感動しているからだろう。
「ありがとう、黒条さん。私を‥‥‥こんな素敵な場所に連れて来てくれて」
「私もね、時々寂しくなったり胸が苦しくなったりすると、こうやって星を見に来るの」
「黒条さんでも、そんな時があるの?」
「フフッ、私だって人間だもの。悩みもするし、生きることを辛く思う時だってあるよ」
「ご、ごめんなさい。‥‥‥そうだよね。私、黒条さんって完璧超人で、私みたいに悩んだり、泣いたりしない強い人だって思ってたから‥‥‥。それなのに私、何も考えずに無神経なことを‥‥‥」
もごもごと尚も謝罪の言葉を探していると、「いいわよ別に、気にしてないから」と優しくフォローされた。
「やっぱり、アナタ変わってる」
「そ、それ‥‥‥さっきもそんなこと言ってたけど、私ってそんなに変かな?」
「変でしょ」
「うぅ‥‥‥」
「フフッ、でもそれは悪い意味じゃない。むしろその逆」
「え‥‥‥?」
「私って、可愛いし、頭いいし、家はお金持ちだし、非の打ちどころがないでしょ?」
「‥‥‥‥う、うん」
こうもハッキリ自己肯定されると、何と返せばいいのか分からない。
そんな私の反応を気にせず、黒条さんは話を続けた。
「だから昔から、その事で妬まれたり、大人たちから変な目で見られたりしてきた。クラスメイトたちですら、そんな私に近づこうともしなかったし、近づいてきたとしても、それは独りぼっちで可哀そうな相手に話しかけてあげてるっていう自己満足。もしくは、黒条財閥の一人娘にゴマすりしようとしてくるような奴ばっかり。そんな人たちとの空っぽの関係なんって、私は欲しくもないし、作りたくもない」
全て私自身に言われているような気がして、正直、ドキッとした。
でも、ようやく解った。黒条さんがどうして誰とも関りを持たず、常に美しい孤立を保ち続けてきたのかを。
私とは悩みの質がまるで違う。
やっぱりこの人は凄い人なのだと、改めてそう思った。
そんな人と今こうして空の上にいるのは、夢のようではあるけれど。
「だから、白柳さんが初めてなの。私のことを特別視しないで接してくれるのって」
「そ、そんなことないよ! ‥‥‥私、黒条さんのこと、ずっと私なんかとは違う別世界の人なんだと思ってた。ずっと独りでいるのも知ってたけど、それは黒条さんが私とは違って、強い人だって、思っていたから。‥‥だから‥‥‥私は、黒条さんが言うような人間じゃ‥‥‥」
早口で言い切ろうとする唇を、ほっそりした人差し指が塞いだ。
「ううん、それは違う。言ったでしょ。私はずっとアナタを見ていたって」
「‥‥‥‥‼」
何に対しても興味を示さなかった黒条さんが、私のことを見ていた。という話は、やはり俄かには信じられず、でもそれが嬉しくてたまらない。鼻先がつんと赤くなるのも、寒さだけが理由ではないだろう。
「アナタが自分の事をどう思っているのかは、ずっと見てきたから何となく解るわ。でもね、それは間違いよ。アナタはアナタが思っている以上に特別な存在だわ。少なくとも私にとっては三か月前の、あの夜に出会った時からずっと‥‥‥」
一瞬の前を空けて、私の方へ向き直った黒条さんは真剣な眼差しで続けた。
「ねぇ、白柳 華さん。私とお友達になってくれませんか?」
「と、友達?」
ええ、と白銀の頭が縦に揺れる。
そこで私の涙腺は限界を迎えた。止めどなく零れる涙が、雫となって地上へと落ちていく。
「私‥‥‥私‥‥‥ずっと独りだった。父さんと、母さんが死んでから‥‥‥、私には誰とも繋がる資格なんかないんだって‥‥‥だから‥‥‥だから‥‥‥」
こみ上げてくる熱のせいで声が震える。
涙で顔をグシャグシャにする私へ、黒条さんは慈愛に満ちた眼差しを向けていた。これまでの心に空いた穴を埋めるように、栗色の頭を何度も何度も撫でてくれた。それはやっぱり、お母さんとの思い出を想起させ、涙はしばらく止まりそうもなかった。
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