第51話公爵令嬢(6)

 クリスティーナは薔薇庭園の入口まで来ると、迷わず中に入った。


 行って何をしようというのか。自分でもわからない。けれど、とにかく足は、体は、前を行けと言っている。


 しばらく進むと、道が二股に分かれた。一体どちらに行ったのだろう。乱れた息が肩を上下させる。


 迷っていると、片方の道からアレクシスが現れた。


 クリスティーナを見ると目を丸くしたものの、すぐに表情を変え、こちらに向かってくる。


 クリスティーナの腕を掴むと、もうひとつの道を迷わず進んでいく。




「アレクッ」




 名を呼ぶものの、これ以上何を言ったらいいのかわからなくて、クリスティーナはアレクシスに付き従った。


 両脇に並ぶ高い緑の壁。流れる視界に、赤、黄、桃色へと薔薇が次々と色を変えていく。大輪がほころび、開いた花弁がふたりを奥へと手招く。芳しい香りが重なり、鼻腔をくすぐった。一歩進むごとに、世界から切り離されていくようだ。


 いくつ角を曲がったか数え切れなくなった頃、アレクシスはようやく立ち止まった。クリスティーナの手を離す。




「アレク――」




 クリスティーナはアレクシスの顔を見上げた。名を紡ぐことしかできなかった。その表情が何を物語っているのか、わからない。


 けれど、フリダが一緒でないということは、別れてきたのだろう。内心、ほっとした。




「アレク、あの」




「どうして黙っていた?」




 ここに騙して連れてきたことを怒っているのだろう。




「ごめん。でもアレクのためだと思って――」




「俺が言ってるのはそのことじゃない」




 クリスティーナの顔に手を伸ばす。




「この傷のことだ」




 今、それを口にするということは、真実を知ったに違いない。嘘をついたのが気まずくて、顔を伏せた。




「あ――それはアレクが心配すると思って……」




 アレクシスが瞳を揺らした。


 クリスティーナの腕を引っぱり抱き寄せる。




「アレクッ――」




 突然のことで、クリスティーナは声をあげた。


 耳元で喋るアレクシスの声。




「俺のためだと言ったな。俺とあの女をくっつけたかったのか?」




 力強い腕に囲まれ、身動きできない中で、首を振った。




「違うよ。本当はすごく嫌だった」




 アレクシスがほっと息を吐いたようだった。




「ならいい。これからは黙っていずに、俺に守らせろ」




「それって、役目が逆なんじゃない?」




 反論すれば、腕に力が込められる。




「俺を従者ひとりも守れない不甲斐ない主にさせたいのか」




 精一杯の言い訳だったが、クリスティーナは信じたようだ。




「ごめん……」




 謝れば、アレクシスは腕の力を緩めた。顎をそっと掴んで、上向かせる。頬に指をあてる。




「傷、残したら承知しないからな」




 クリスティーナは戸惑った。




「そんなこと、わからないよ」




「なら、責任とらないとな」




「責任?」




「お前を一生そばにおいておく。――ついでに、公爵家は取り潰してやる」




 結婚相手より大事にしようと決めたところで、クリスティーナが飛び上がった。




「なに言ってるの? わたしは従者なんだから、そばにいるのは当たり前じゃない。それに取り潰すなんて駄目だよ!」




「そういう意味で言ったんじゃないんだが――。まあ、嫌ならその傷を治すんだな」




「アレクは大袈裟だよ。こんな傷、舐めておけば治るよ」




 そう言うと、アレクシスはクリスティーナの顔をじっと見下ろす。




「なら、俺が舐めてやろう」




 クリスティーナは今度も飛び上がった。




「な――なに言ってるの!?」




「お前が言ったんだ。舐めておけば治るって。自分じゃ届かないだろ?」




 アレクシスは、クリスティーナの傷を覆った布を外した。信じられない状況のせいで抵抗らしい抵抗もできずにいると、アレクシスの顔が近づいてくる。クリスティーナの頭はくらくらした。たちこめる薔薇の香りのせいなのか、羞恥によるものなのか。香りが先程よりも更に甘く感じられた。


 柔らかな感触が頬に触れる。それは舐めるというよりも、口付けに近かった。


 クリスティーナの顔が真っ赤に染まった。




「あの――もう、いいよ、離れて」




 動かないアレクシスに、これ以上は耐えられそうになかったクリスティーナは喘いだ。


 恋人同士ならいざしらず、王太子と従者の格好をしたふたり。密やかな逢瀬として使われてきた薔薇庭園は今、過去最高の働きをしたに違いない。


 ようやくアレクシスが顔をあげた。


 真上から見下される瞳に吸い込まれそうになる。その炎の中に身をおいて、焼き尽くされたら、どんな感じがするのだろう。きっと全身が喜びで震えてしまうかもしれない。


 魅入られていると、アレクシスが口を開く。




「これから毎日してやるぞ」




「ええ!?」




 こんなのを毎回されたら、心臓が破裂してしまう。必死に首を振った。




「そんなの、駄目だよ。わかった、治すよ。綺麗に治すから」




 何が気に入らないのか、アレクシスが眉を寄せる。




「遠慮するな」




 それ以上何を言えばいいかわからず、たまらずその場から逃げた。




「あ、こら」




 アレクシスは呼びかけるも、止まらないクリスティーナに嘆息した。




「そんなに嫌か?」




(俺は理由がなくたって、毎日、お前に触れたいのに)




 切ない溜め息をはいたアレクシスの目に、薔薇が映る。クリスティーナのご機嫌とりに、一番美しく咲いている薔薇を手折った。


 当初の目的を達成して、アレクシスは微笑んだ。帰る道すがら、麗しいアレクシスと見事な一輪の薔薇の構図は、人々の視線を集め、溜め息を誘ったのだった。








 頬の傷が無事治り、このまま傷跡も残るまいとなった頃、クリスティーナは、フリダがヘロイーズの侍女を辞めたことを知った。本当はもっと前に辞めていたらしいのだが、敢えてその名を耳に入れたくなかったため、知るのが遅くなってしまった。


 王妃に気に入られたわけではなかったのだと思い、クリスティーナはほっと安堵の息を吐いたのだった。






 少しだけ時間は巻き戻り、ヘロイーズが優雅にお茶をすすりながら言う。




「あの娘が侍女を辞めてくれて、良かったわ。あの娘、自分でわたしの侍女を志願したのに、いつも自分の侍女を連れているんだもの。一体何のために侍女になったのやら」




 ティーカップを置き、呆れたように息を吐く。


 アレクシスが横目で睨んだ。




「なら、母上がすぐに辞めさせれば良かったでしょう」




(そうすれば、クリスも傷つくことはなかったのに)




「あら、あなたがあの娘を選ぶかどうか試したのよ。わたしの息子に見る目があって安心したわ」




 口の端をあげたヘロイーズに、アレクシスが頬を引きつらせた。


 部屋にはふたりしかいなかったため、そんな親子の会話がなされたことを、クリスティーナはもちろん、誰ひとり知ることはできなかったのである。

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