第11話 養殖オム・ファタール少年

 帰りのHRも終わり、帰っていく級友たちを見送る。深波は頬杖をついて、校庭を見おろした。いつも乾が仕事を終えて迎えに来るのを待っている。乾が無理なら宇佐木が来たり、深波の家の者が来たりする。熊野が来たことはない。当然と言えば当然だが。


 深波は立ち上がる。制服を伸ばし、帽子を被った。

 鞄を背負って、歩き出す。


 よーし、逃げちゃお。

 なんか最近、みんな構ってくれないし。


 決めてからは早かった。階段を駆け下り、校庭や校門前に乾などの姿が見えないことを確認し、一気に駆け抜ける。市街地まで出れば自由だ。人が多くて紛れられる。

 るんるん歩きながら、キッチンカーでフランクフルトを買って食べる。今頃乾が学校に着いているかもしれないが、そんなことは気にしない。たぶん怒られるだろうが、最近は怒られるどころか誰も深波を見ていないのでそれよりはマシだ。


 カラオケとか行っちゃおっかなー、とスキップしながら歩いていると、背中に何か当たった感触があった。それから少しずつ冷えていく。どうも濡れているらしい。地面に転がった缶コーヒーから中身が流れ出しているのを見て、何が起こったかを理解した。

 振り向くとそれを投げてきたと思われる中年の男が、踵を返して去っていくところだった。周囲の人間が眉をひそめながら避けていくのを見るに、その男で間違いないと思う。


 深波は顎に手を当てて「うーん」と考えてから、軽やかにその男を追いかけた。


 近づいてみると、「私立の中坊が歩いてんじゃねえよ……親の金で、全部親の金で……」と何かぶつぶつ言っている。深波は空咳をして、「おじさん」と声をかけた。男は仰天した様子で、「いっ!?」と言いながら深波を見る。

 深波は缶コーヒーを掲げて、「これ落としていったでしょ? 届けに来たよ」と微笑みかけた。男はそれを無視して足早に去ろうとする。


「ねえねえ、おじさん。どうしてこれ投げてきたの? 痛かったなぁ、制服も汚れたし。人に缶コーヒー投げちゃダメなんだよ? しかも半分ぐらい残して。これいくらだった? 百円? 百五十円? 七十円分ぐらい無駄になったね。おいらの制服のクリーニング代と合わせたら一万円ぐらいかな。ねえどんな気持ち? なんで何も言わないの? 人に迷惑かけて、なんか反応が返って来るとは思わなかった? なんで? あなたの世界にはあなたしかいないから? みんなあなたを見ないから、ついに世界にひとりきりだって確信したの? 大丈夫だよ、おじさん。世界にはおじさん以外にもたくさん人がいるからね、一人じゃないよ。だから人に迷惑かけちゃダメだよ。謝ろうね」


 男は立ち止まり、深波を見た。深波が見返すと視線を逸らし、「……すぞ」と小さく何か言う。「何?」と訊き返せば、今度こそ男は深波の胸倉を掴み「殺すぞ」とはっきりそう言った。

「テメェ、なめてんじゃねえ。俺はもうなんもねえんだ、人殺して人生終わったって構わねえんだ。テメェ、テメェ……後悔させてやる」

 鼻息を荒くする男に深波はふっと微笑んで、そっと男を抱きしめる。


「そんなこと言わないで、おじさん。可哀想なひと。あなたがひとりぼっちな気がしているのは、世界があなたを見ないからで、全部世界のせいなんだよ。ぼくにはあなたが見えているし、こうして触れるよ。ねえ、ぼくのことわかる? ぼくがあなたとこうして抱き合っているのは、あなたがここに確かに存在している証明だよ」

「はっ……? てめ、なめやがって……」

「あったかいね。こうやって抱きしめ合うのっていい気持ちだよね。ねえ、おじさん。ぼく、あなたのためにあたたかいスープを作るよ。毎日作るよ。一緒に生きていこう」

「い、いかれ、」

「ぼく、おじさんみたいに可哀想なひとって大好き」


 しばらく無言でいたが、やがて男が力を抜くのが分かった。深波は目を細めて、「おじさんの家、どこ?」と尋ねる。





 それから男の家にたどり着いた深波は、その惨状を見て「うわ……きったな……」と呟いた。




*****



 人をダメにするクッションに寝そべりながら熊野が、「うわっ」と声を出す。金子が顔を上げると、熊野は携帯電話を片手に眉をひそめていた。

「またかよ、あいつ……」

「どうしたの?」

「深波からだ。誘拐されたから助けに来いと」

「誘拐??」

「どうせ自分から誘ったくせに勝手に萎えたんだろう。被誘拐願望の性悪のガキだからな、あいつは」

 熊野がため息をついたその時、その手の中で携帯電話が震えた。右耳にそれを当てた熊野が、「ああ……いや、今ちょうど連絡があったところで……ご丁寧に位置情報までくっつけてるから行けるけど……いやまあ、ほっといてもしょうがないからな。行く行く。行ってから考える。じゃあまた~。愛してるよ、ちゅっちゅ」と言って電話を切る。最後ので、相手が誰なのかはなんとなくわかった。


 それから熊野は頭を掻きながら立ち上がり、「ちょっと行ってくる。夕飯までには深波と一緒に戻る」とジャケットを羽織る。そのまま玄関を出て行った。熊野が出て行ってから金子は慌てて「いってらっしゃい」と呟く。


「誘拐……されたい? なんで?」と金子は一人で首をかしげていた。




*****




 位置情報を頼りにやってきた古いアパートの前で、熊野は「よお」と片手を上げる。三階の廊下から見下ろす深波が「おっ、早かったね」と言った。

「いい加減にしろよ、乾ちゃんも心配してたぞ」

「熊野さんは?」

「あ?」

「熊野さんはおいらのこと、心配してた?」

 呆れた顔の熊野が盛大にため息をついて、「帰るよ。宇佐木が帰ってくる前に戻ってないと怒られんぞ」と深波から視線を外した。


「へぇー、そういう態度? じゃあ、おいら帰らないから。ここのおじさんと幸せに暮らす」

「呼んどいてなんなんだ。そっちの態度のがおかしいからね、助けてつったから来たんですよ。それに断言するけど、このボロアパートで暮らしていくなんて君には無理だ。虫とか出るぞー? 風呂も五十年前のまんまだよ、たぶん」


 ムッとした深波が、ちょっとアパートの方を振り返る。それからまた熊野を見て、「じゃあこの家じゃないとこに行くよ。金さえあればどこへでも行けるもーん」とあっかんべをした。

 一瞬腕時計を見た熊野が、ふっと短くため息をつく。

 それから、両腕を広げて深波を見上げた。


「帰って来いよ、深波。お前がいないと寂しいよ」


 深波は仏頂面のまま、「えー?」と手すりに寄りかかる。「いま時間見たじゃん。もうだるくなってるよね? 早く帰りたがってるよね?」と指摘した。

 頭を掻いた熊野が、「めんどくせえこと言ってんじゃねえよ、クソガキ。帰りてえに決まってんだろ。見捨てて行かないだけ感謝しろよな」と吐き捨てる。


「……ねえ熊野さん」

「ん?」

「なんで迎えに来たの? いつも、なんで来るの?」

「何度も言わせんな。お前がいないと寂しいよ」


 ふーん、と深波は手すりに頬杖をつきながら言う。「へえ~、どうしよっかな~」と明後日の方向を見たりした後で、にんまり笑いながらちょっと後ずさりした。それから勢いをつけ、手すりを飛び越える。

 空を切るわずかな時間。熊野は焦りもせずに両腕を広げたまま、深波を受け止めた。


「ったく、手間かけさせんな」

「そんなこと言っちゃうんだ?」

「お前、自認はピ◯チ姫かもしれないけどとんだアバズレですからね。取り返しのつかないことになっても知らないんだからね」

「取り返しのつかないことになりたーい」


 熊野は思わずという風に鼻で笑う。面白くない顔の深波が、「馬鹿にして。本気なんですけど?」と熊野の首に腕を回しながら言った。

「君は一度痛い目を見た方がいいが、君の場合の“痛い目”っていうのが即取り返しのつかない事態に発展しそうだからどうしたもんかね」

「ねえおいら、攫っていってほしいだけなんだよ。どこか遠くに、もう戻ってこれないくらい遠くに。できればあなたに」

「今日の夕飯知ってっか?」

「何?」

「カレーだ」

「何してんの? 早くおいらのこと連れて帰ってよ」

 やれやれと言いながら熊野は深波を抱いたまま歩き出そうとする。


 その時、後ろから「片付けたぞ!!」と大声が聞こえた。

 熊野が振り返ると、中年の男がパンツ一丁でアパートの部屋から出てくるところだった。

「おい!! 部屋片付けてやったぞ!! 入れ!!」

「あれが……今回君がたぶらかした男か?」

「人聞きの悪いこと言わないでよね。励ましてあげただけだよ」

「俺に毎日スープ作ってくれんだろ!? 一生一緒に生きていくんだろ!!??」

「たぶらかしてんだろうがよ」

 面倒そうな顔をした熊野が、「おっさん。こいつ僕んだから。知らなかったとはいえ人のツレに手ェ出しちゃダメだよ。今回は見逃したげるけどね」と肩をすくめる。「は!?」と男は手すりから身を乗り出した。


「ごめんねぇ、おじさん。彼ぴが迎えに来たから帰るね」

「大体こいつにスープなんか作れるわけないだろ、お湯も沸かしたことないおぼっちゃまだよ?」

「ま……待て待て待て」


 縋るように男が「じゃあなんだ? さっき言ったのは噓か? 俺、俺と一緒に、」とどもりながら言う。深波はあっけらかんと「だって部屋汚いんだもん」と言って、男が絶句した。


 そしてその場に泣き崩れ、「とらないで……」と嗚咽まじりにうずくまる。


「あーあ」と熊野が言い、「あーあ」と深波も目を丸くした。

「お前ねえ……」と熊野が深波を小突く。「これ、おいらのせいなの??」と深波は眉をひそめた。


 本日何度目かのため息をついた熊野が携帯電話を取り出す。


「……もしもし? 今ねえ、深波の馬鹿がたぶらかしたおっさんがガチ泣きしてて困ってる。来てもらっていい? 場所はこの後送るから」


 言って、電話を切った。「誰に電話したの?」と深波が訊ねる。「乾さん? 乾さんだよね?」と確認するも、熊野は答えない。


 しばらくして走って表れた宇佐木の姿に、深波は「うわああ、なんで宇佐木さんのこと呼ぶのさ」と熊野の背に隠れようとした。

 熊野が未だ泣きべそをかいている男を指さすと、宇佐木は一瞬頷いてそちらに向かう。こちらからは何を喋っているのかわからないが、何か励ますようにして宇佐木は男を部屋に連れていく。


 十分、二十分と時が過ぎていき、熊野は近くのコンビニで買ってきた棒アイスを口に運んでいる。駐車場のバリカーに乗っかって足をぶらぶらさせている深波を見て、「怒られんのが嫌ならやるなよ」と熊野は言った。深波はふてくされた顔をしている。

 やがて部屋を出た宇佐木が、アパートから真っ直ぐこちらに向かってきた。深波は無言で熊野の背中に隠れる。


「こら!!」


 仁王立ちした宇佐木が、回り込んで深波の前に立った。


「何度言ったらわかるんだ、深波」

「うへぇ~」

「こっちを見なさい」


 背中越しにそんなやりとりを聞きながら、熊野は平然とアイスを食べ続けている。深波が「助けてよ」と耳打ちするが無視をした。


「いいか? 世の中には、いっぱいいっぱいで何とか生きている人たちもいる。もうバケツに水がいっぱいで、表面張力で何とか耐えている人たちだ。それをわかっていていたずらに水を一滴たらしてみるようなことを、遊び感覚でやるんじゃない。一生懸命生きている人をからかって反応を見るなんて、お前は一体何様のつもりなんだ? それが目的でないなら尚更、人を巻き込むんじゃない」

「でもぉ、あのおじさん、おいらに缶コーヒーぶつけたんだよ。制服も汚れちゃったし、痛かったんだ」

「そうなると話が変わってくる。一言いってきてやるからな。待ってろ」


 間髪入れずに走っていった宇佐木が、男を引きずって戻ってくる。男は泣きながら「すみません……おぼっちゃんの言うとおりでした……誰も俺のこと見えてないと思って……やっちゃいました……すみません……」と頭を下げた。ドン引きしながら深波は「……。おいらもごめん……」と言う。解放された男が、「すみません、もうやりません。ありがとうございます。俺、これからしっかりやります」と言いながら帰っていった。その後ろ姿を見守りながら、宇佐木はうんうんと頷いている。


「さて。まあ今回のことは、あの人もよくわかってくれたみたいだから、いいとしよう」

「助かった」

「しかしお前、こんなことはそろそろ本当にこれっきりにしろよ。あまり人をからかうものじゃない」

「本気だったんだもーん。家ん中見るまでは」


 ため息混じりに片目を瞑り、宇佐木は熊野を見る。「お前もお前だ」と指させば、熊野は「僕ですか?」と嫌そうな顔をした。

「お前の存在が悪い影響を与えていることは明らかだ。深波、今度お前がこのようなことを繰り返したら、その時は壮汰を家から追い出すことにする」

「オイオイオイオイ」

 慌てた熊野が「なんで僕なんだよ。こいつ追い出せよ。家あんだぞ、こいつ」と深波を指さす。

「ちょっと! さっき『お前がいないと寂しいよ』とか言っておきながら手のひら返しが早すぎるんだけど!」

「自分の住処の方が大事に決まってんだろ。大体なんで君の不始末に巻き込まれなきゃいけないんだ。二度と僕の手を煩わせるんじゃないぞ」

「こんなところで騒ぐんじゃない。迷惑になるだろう」

 熊野が深波を小突きながら歩く。やり返そうとする深波が突進していくのを見ながら、宇佐木はちょっと笑った。


 それから三人で、家路を歩いた。

 もうすぐ七月になるこんな今日の夕暮れは赤くて、すっかり日が伸びたなと宇佐木が言う。

 ふと、深波が「あっ」と背中に手を回しながらくるっと回った。


「そういえばおいらがあの家に住み始めたころさ、」と後ろ向きに歩きながら熊野と宇佐木を見た。「たまにこうやって三人でコンビニ行ったりしたね」と言う。

 熊野と宇佐木は顔を見合わせた。それから思わずという風に笑う。「何?」と深波が頬を膨らませた。

 それから宇佐木が駆け寄っていき、深波を抱き上げる。


「そんなに寂しかったのか?」「まったく仕方ないよな、深波くんは」

 深波はちょっと虚を突かれながら、どのように反応するのが正しいか考えた。「そうだよ。だからもっと構ってよね」とそのまま宇佐木に抱きつけば、「調子乗んな」と熊野からまた小突かれた。




*****




 家に帰り、宇佐木が「お、カレーだな」と嬉しそうにする。美味しそうな匂いが外まで漂っていた。

「ただいま、乾ちゃん。僕のためにカレー作ってくれてありがと」

「カレーを作る時に誰かのためだったことはない。オレはいつもオレのためにカレーを作っている」

「わからないでもない」

 玄関を上がると、金子が「おかえり……」と言いながらじっと深波を見ていた。「なんだよ」とたじろげば、金子は静かに深波に近寄っていく。


「誘拐されたいの?」

「は? だったらなんなの? お前に関係ないじゃん」

「なんで誘拐されたい?」


 お前に関係ないじゃん、ともう一度深波は言う。

 金子はしきりに首をひねりながら「一生、外に出られなくなってもいいの?」と尋ねた。


 なんでなのかわからなかったので訊いた。だけだった。

 金子はそれが嫌だから逃げてきたが、逆にそれを好む考えがあるのなら理解したかった。

 深波は何も言わない。当惑しているようだった。


 だが深波は見る見るうちに顔を赤くし、「お前に……関係ない」とまた言って、金子を避けるようにしてリビングに向かう。


「え……効いてる……効いてんじゃん」

「効いてるな」

「大人から言われてもピンとこないことが、同年代に言われるとたまらなく恥ずかしくなるということはままあることだ」


 その日深波は軽口も叩かずに、夕飯を食べたらそそくさとシャワーを浴びてすぐ眠ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る