第5話
「それで会社は、その、本来のほうの会社はどうなっているんだい」
「橘が実際に就職したのはアマチュア作家のグッズ制作などを請け負う会社で、彼はその受注サイトの制作を担当していました。今は私の方で診断書を書いて、会社は休職というかたちにしてもらっています。寛解すれば職場復帰できるということで、会社の方は待ちますよと言ってくれていますが、今の状態を見る限り復帰は絶望的なのではないかと思います」
荒井はそこまで言うと力を抜いて息を吐いた。
「妄想の中では、彼はいったいどういう仕事をしているの」
「妄想の方ではもっとずっと規模の大きなWebサービスを運営している会社にいます。先進的な仕組みでサービスを提供する会社の技術部門で、一般的な会社でいう部長クラスの職位にあります」
「そこに荒井さんや君たちのその先生が仕事仲間として登場しているわけか」
「そうです。おそらく橘にとっては私や小佐田先生との思い出が居心地のいいものだったのでしょう。彼の妄想の中に私や小佐田先生を元にしたらしい人物が出てくるので、小佐田先生と協力して橘の勤務先を作り出しました。幸い先進的な企業のようなので全員が在宅のままで仕事をしています。橘をあの部屋から出さないまま、私や小佐田先生も直接顔を合わせることなくあれを演出できています」
綿貫はひげをざりざりさすりなが何度か頷いた。
「しかしその、私にはよくわからんのだけど、その本来の仕事と妄想の仕事はそれほど違うものなのか。その、なんだ、本来の仕事は彼にとっておそらく耐え難いものだったのだろう、それで妄想の中に行ってしまった。でも聞く限り私にはそんなに大きな差があるとは思えないのだが」
「それは本人のみぞ知るですが、きっと仕事の中身ではなくて、もっと客観的な要素の問題だと思います。外からどう見られるかということが橘には重要だったんです。だから新進の注目されるサービスを運営しているような会社である必要があった」
「わからんではないがね。あんな風になってしまうほど大事なのか、そんなことが」
「私も正直そこまでだったのかという驚きはありました。でも気にする人にとっては気になるんですよ。なにをするのかではなくてどう見られるのかが重要なんです」
綿貫は目を閉じて首を横に振るとモニタに向き直った。
「橘さんは小佐田先生をあまり尊敬してないのかい。どうもあの上司のことはだいぶ見下しているようだったが」
「そんなことはないと思っていたんですが、そう言えば高校時代から彼は、小佐田先生より自分や私のほうが優れているいうようなことを言うことがありました。思えばあのころから、彼は視野が狭くて短絡的に結論に飛びつく傾向があったのかもしれませんね」
「小佐田先生のあれは、芝居なのかい」
「はい。先生はもともとは物事をよく吟味して話をされる方です。今の橘は上司を見下すことで自己を保っているようなところがあるので、軽蔑しやすい上司像を演じておられます」
「あのカタカナ語のアイデアは」
「あれも小佐田先生ご自身が。カタカナ語をどっさり使って話すようなことを橘は嫌いそうだと先生ご自身がおっしゃって、あんな風にしゃべっておられます。そんなことを思いつくのもさすがですが、その思い付きでああいう芝居ができることにも感心しました」
「で、荒井さんはあの新井という同僚を演じていると」
「そうです。私はカタカナ上司を迷惑がっている同僚という位置です」
モニタの中では橘祐樹がデスクに向かってコンピュータを操作していた。綿貫はそちらを見ながら言った。
「彼は今はなにをしているんだい」
「ネットのコミュニケーションサービス上である種の発言をしたがるアカウントを集める作業をしているところです」
「それはさっき橘さん自身が言っていたあれか。短絡的に自分こそが正しいと主張する連中というやつか」
「そうです。橘はそういう無自覚に自分こそが正しいとして他人を攻撃する種類の人をひどく嫌悪しています。あの回収プログラムは橘自身が作ったもので、異常を来す前からやっていたようです」
綿貫は「根が深いね」と言って荒井を見た。荒井はモニタを見つめたまま黙っていた。
「あらゆる正しさをとなえる議論の裏にはルサンチマンがある」再び橘の画面を向いた綿貫がぽつりと言った。
「ニーチェですか」
「そのルサンチマンは無自覚なものだ。無自覚はやがて自らを侵食する。それと気づかないまま病魔に侵されることになる」
モニタの向こうの橘は夢中でコンピュータのキーボードを叩きながら不快な声を上げて笑っていた。綿貫はそれを見て身震いした。
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