第3話

 会議が終わると、橘はカップを手にして立ち上がった。薄暗い仕事部屋からリビングルームへ出ると高層階の窓は夕焼けに彩られていた。立ち上がるときに時計を確認していたのに、もうそんな時間かとあえて小さくつぶやいてからキッチンへ向かう。

「相変わらずうちのマネージャはカタカナ率が高くて参るね」

「あら、でも祐樹はぜんぶわかるんでしょう」

 サーバからコーヒーを注ぎながらぼやくと、リビングルームのソファに座っていた結花ゆかが答えた。

「もちろんわかるさ。ただ彼は自分で思っているほど頭がいいわけじゃないってことさ。きみにはわかるだろう。ケプラー的運動が脳みそのポテンツをこじつけるんだ」

 橘はコーヒーを満たしたカップを手に窓の近くへ行った。外はすっかり日が落ちて、眼下には大都市のまばゆい夜景が広がっていた。

「町が明るすぎる」と不機嫌に言い放って橘は窓際で振り返り、「プレスト」と呼びかけた。プレストというのはAIエーアイアシスタントの名前だ。AIアシスタントは言葉で指示を出すと宅内のさまざまな仕事をこなしてくれるソフトウェアで、それぞれの仕事をするそれぞれの装置をなんでも操作してくれる。おかげでユーザは個々の装置の操作方法を覚える必要がない。すべてはアシスタントがやってくれるからユーザはアシスタントに指示を出すだけでいいのだ。機械やコンピュータに強いとか弱いとかいったことはすでに過去のものになったと言える。

「どこか星の見える場所に」と指示を出すと窓から見えていた都市の夜景が光の粒になって夜空に吸い込まれ、代わって暗い平原と山のシルエットが浮かび上がり、その上の空には幾千の星が輝いた。高層階だった窓は戸建ての二階あたりまで下り、地面が近くなった。同時に部屋の照明も色と明るさが調整され、室内に虫の声が流れ始めた。もはや旅行はもちろん、引っ越しもする必要がない。どんな景色だって自分の部屋の窓から眺められる。世界のどこかのカメラがそこへたどりつけば情報が記録され、記録された情報は使われる。今や月面に引っ越した気分だってすぐに味わうことができるのだ。それがどういう仕組みで実現されているかを気にする必要はない。ただプレストに声をかけさえすれば希望は叶えられるのだ。

「どうかなこういう感じは」

 結花が口元をほころばせるのを見て頷き、橘は仕事部屋へ戻った。


 仕事部屋はもともと窓を遮光してあって暗く、コンピュータのモニタだけが煌々と光を放っていた。橘は端末の前に座るとコーヒーを一口すすってからカップをデスクに置いた。交流サービス用のソフトウェアを開いて書き込みをさかのぼる。遠い国のできごとや国際情勢、事件や事故といったニュースや明日の天気、著名人のゴシップや失言に不祥事、さらには誰でもない誰かの昼飯に至るまで種々雑多な情報が溢れかえっている。とにかく黙っていられない人が増え、そういう連中は総じて自分こそが正しいと信じきっているから始末に負えない。橘がなにか発言すればそこに突っかかってくる頭のおかしい連中がいる。こんなことがあったと書けば、〈そういうときはこうしたらいい〉と言ってくるやつがいて、そう言ってきたやつに対して、〈てめえには聞いてない黙ってろ〉と言うやつが現れる。世界は隙あらば自分の正しさでもって穴から出てくるモグラを叩きのめさずにいられないやつで溢れているのだ。たとえば政治の問題に対して情勢をまったく理解しないまま自分勝手な感想を述べているようなものを書けば〈おまえは不勉強で無知をさらしている恥さらしだ〉という趣旨のコメントがいくらでも集まる。そういうコメントを発することで自らが別の恥をさらしているということにはまったく思い至らないようだ。なぜどこの誰とも知れない相手が素直に思ったとおりのことだけを書くと信じられるのだろう。彼のことをまったく知らないはずの人が、わずか数十文字の文を読んだだけで「わかっていないこのアホに正しいことを教えてやらねばならん」と思うらしいことが不思議だ。一方で、著名人の発言に対して〈あなたはわかってないですね〉と書けば、今度は〈わかってないのはおまえだ恥を知れ〉というコメントが届く。わかってないアホに何かを教えようとするやつと、そういうやつに正しさを説こうとするやつが同じぐらい大量に存在しているのだ。言うまでもなくどちらも同じようにアホだ。大量発生したタニシとそれを食う鴨がぎっしり詰まった田んぼみたいなもので、肝心の稲はどこにもない。

「世の中はかように、おれに一言物申さねばならんと思う連中で溢れてるのだよ」と声に出すと、いつの間にかすぐ隣に来ていた結花が微笑みかけた。

「こいつらはみんな敵だ。オレを世界から疎外しようとするやつらであり、世界にとっても害悪だ。あまりに短絡的だ。誰か第三者の紹介で目に触れたぜんぜん知らない人のわずかな文を読んで、書いたのがどんな人かということにすら目を向けない。嫌悪を抱けばその原因など探ろうともせずに攻撃に移る。ただでさえ悪い頭を使おうともしないもんだからこういうことになるのだ。救いがたいことに、そういう連中は自分こそが正しいということを一瞬も疑わない。自分が読み違えてるかもしれないとは逆立ちしても思わないし、なにか意図をもって書かれたかもしれないなどとは夢にも思わないのだ」

 橘は結花を見上げながら「おれはこういう我慢ならない連中を処分してやるのさ。世界のゴキブリホイホイってわけだ」と言って自作のプログラムを走らせた。プログラムは彼の投稿に反応したアカウントを収集してデータベースに登録する。過去に釣ったことのあるものは重複登録されないようになっているけれど、それでもこの収集を始めての半年間で既に十万を超えるアカウントが集まっている。今日の回収分をモニタに表示するとそれは二百件ほどあった。ほんの一言書くだけでアホがどっさり引っかかるのだ、こいつらを粛清しなければならない、一人残らず。橘は画面をにらみながらまたコーヒーを一口すすった。

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