狂楽の回旋曲(ろんど)

涼雨 零音

第1話

 目覚ましではない。深い睡眠の底から意識を呼び戻したのは目覚ましの音ではない。そのことがはっきりと言葉になって脳裏に浮かぶ。窓に映る朝日が部屋を照らしている。たちばな祐樹ゆうきを睡眠の泥から引き揚げたのはこの朝日であったということが、すこし遅れて理解される。ベッドの上に上体を起こす。日の光に慣れない目をしばたたかせながらかゆくもない頭を掻く。朝日に先を越された携帯端末の目覚ましプログラムが指定されていた音楽を流し始める。そのままにしておくと次第に音量が大きくなる。ポコ・ア・ポコ・クレッシエンド。いつもだいたいイントロの途中で目を覚ますから歌は久しく聴いていない。今日も歌に入る前に端末を操作して音を止める。窓の光に照らされた殺風景な部屋をねめまわして口を開く。

「おはようおれの世界よ」

 寝室を出てキッチンへ行くと香ばしい匂いが漂っていた。フードプロセッサが彼のための朝食を用意し、コーヒーメーカーはその名前の示す通りコーヒーを淹れていた。キッチンもリビングルームも綺麗に片づけられ、目覚ましよりも前に一仕事終えたロボット掃除機の活躍によって埃もほとんど落ちていない。予め設定したプログラムに沿って家事は遂行される。特殊な事態でない限り指示を出す必要もない。高層階の窓からははるか眼下に朝日の沁み込んだ大都市が見下ろせる。目を覚ました彼が朝食を待つ間にするべきことはこの窓から街を眺めることだけだ。そのうちに電子音が鳴ってコーヒーと朝食が同時に出来上がる。そのようにタイミングも調整されている。彼のほうで気にするべきことはなに一つない。用意されたチーズトーストとコーヒーという朝食を採りながらスケジュールを確認する。


 橘祐樹の生活が家から一歩も出ずに成立するようになって久しい。仕事も、買い物も、娯楽も、健康診断や診察さえも、自宅に居ながらにして済ませることができる。もういつから外へ出ていないのか、それもはっきりしない。毎日完全に同じ具合に焼きあがるチーズトーストと、まったく同じ仕上がりのコーヒー。似たようなことを繰り返す日課や仕事。部屋から出ないことが日常になってしまうと、もうずっと前からこうだったような気がしてくる。ずいぶん長いこと夢も見ていないような、あるいはずっと醒めない夢の中にいるような気分だ。彼はおもむろに立ち上がり、ダイニングテーブルの前で姿勢を正すと右手を握りしめて高々と掲げ、大声で宣言した。

「天与の恍惚よ。眼下の掃きだめに蠢く有象無象。たるんだビール腹から湧き出る無尽蔵の下痢便。導かれしイカレポンチのインポテンツを」

 掲げたこぶしをしばし見つめてから腰を下ろすと残っていたトーストをほおばった。


 壁に投影されたデジタル表示の時計。時と分の間でコロンの点滅が時を切り刻んでいる。その点滅が頭の中でメトロノームとなって左右に揺れながらコチコチと橘を駆動する。端末の画面では刻一刻、世界のどこかにいる誰かの発した言葉が流れていく。世界のあちこちから投げられた言葉は一瞬で情報ネットワークを駆け巡ってどこかのコンピュータに記録され、次の一瞬で世界中に散らばった端末へと送られる。大部分はほとんど意味のないゴミのような情報だ。そのゴミが光みたいな速さで世界の隅々まで行きわたる。情報ネットワークは最新のテクノロジーを駆使してまたたくまに世界の隅々までゴミをばらまく仕組みだ。こうまで世界中ゴミだらけになるとは、この仕組みを考えた人々は思いもしなかったろう。橘にとって世界の隅々とはすなわち情報ネットワークの隅々のことであって、ネットワークが届いていない場所は世界の一部ですらないのだった。窓に目をやれば、眼下に広がる大都市には幾百万の人間がひしめいている。その中の誰かがたった今発した言葉も手元の端末に流れているかもしれない。発せられてから彼のもとに届くまで、かかる時間はほんの一瞬なのに通ってくる道のりは気が遠くなるほど長い。そんなことを思うと、この馬鹿げた種族を根絶やしにしなければならないという気がしてくる。シロップに集まったアリをまとめて踏みつぶすように。

「いくらでも湧いて出る魑魅魍魎め」と小さくつぶやいて唐突に立ち上がる。はずみで座っていた椅子がひっくり返り、部屋を満たしていた静寂を粉砕した。転がった椅子が落ち着きを取り戻すと橘は大声で叫んだ。

「粛清してくれる」

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