今終末の横浜戦

敗綱 喑嘩

 の終わる四分前、藍葉あいばは、絶望的な気分で横浜スタジアムに座っていた。終末の到来を知るのは、彼ともう一人のみであったが、それを他の人々へ伝え回ることもせずに、ただむっつりと、一塁側の最前席を占めている。世界を救う為の努力は、既に充分尽くした後であり、彼にとっては丁度、電子ゲームのバッドエンドを眺めるのと同じ図式であった。霞の掛かったような、取り返しの付く絶望。疲弊した頭を紫煙のようなそれで満たしつつ、ぼんやりと座り込んでいる彼の様子は、周囲の、いかにも日本シリーズ第七戦最終イニングに似つかわしく情熱と球団愛を汪溢させる観客らの中で、いかにも悪目立っており、一顆の疲弊した絶念がそこに凝結しているかのようであった。

 一点リードを守る二死一塁、楽天投手の黒瀬くろせは、この大舞台や、ボール先行のカウント、対峙しているハマの大砲、そして彼へ向けられる、指を五本、五本、三本、二本、五本と立てつつの、「ゴー、ゴー、ミ・ツ・ゴウ!」という大声援、それらいずれをも物ともせず、飄然とした態度を露と毀たれぬままに捕手のサインへ頷いた。黒瀬がマウンド上で苦悶している姿を、見た者は無い。何が有ろうとどうせ負けることは無いと、高を括っているのだ。

 そう。というのが、この年の、黒瀬の「異能」であった。

 そこでこの右腕は、投じたカーヴがインローへ外れ、三番打者三合みつごうを歩かせても、なお莞然としているのである。

 二死一塁二塁と変わっての、最終回一点ビハインドの得点機。ホーム側スタンド席から、怒号のような歓声が沸き立った。よくぞ繫いでくれたと言う三合への称賛と、史上最強と謳われる、次打者への期待が、この最終戦のチケット獲得に成功した、最も濃密な横浜ファンの集団から放たれている。

 無愛想に「詠哩子えりことおんなじので。」とだけ球団に依頼しているという登場曲は、この夏に流行したテレヴィドラマのテーマソングが用いられていることも相俟って、いかにも適当至極な選曲であり、当然、舞台に上がる打者自体を鼓舞することは無いのだが、しかし、横浜を推す観客らをこれほど作興し、そして、三塁側の、楽天を支えてきた者共をこれほどまでに戦かせる旋律は、他に無いのであった。

 その正体はまだ藍葉にも摑めていないが、しかし、とにかく某かの「異能」を発揮しているに決まっている、打率.439、104本塁打、193打点という、驚異的という言葉では足りぬほどの数字を、しかも僅か出場98試合で残し、当然に三冠王に君臨したこの大打者の名を、球場DJが朗々と張り挙げる。

「四番、キャッチャー、……枝音シオン紫桃シトーゥ!」

 爆発する、歓声と慄然。それらに囲まれた紫桃しとうは、いつもどおり、何も聞こえていないかのようにただ打席へ向かって来る。素振って体を解すでもなく、一吠えして投手や捕手を威嚇するなり自身を鼓舞するでもなく、ただ、静々と俯き加減で、バットを握って打席に向かうのだ。その、黒き長物を提げる右手の案配と、凍てつかせるような凄みは、断頭斧を携える刑吏の様である。この、「ハマの大魔王」、或いはもっと単純に「魔王」などと呼ばれる打者を迎えると、多くのバッテリーは、まさに罪人の気分で悚然とするのだが、黒瀬はやはりここでも平然としていた。寧ろ、紫桃のを嘲るかのように、にやつきを深め始めている。

 174センチ、77キロの二十四歳。胸許も含めて贅肉は理想的に淘汰されており、野球の為に築き上げられた筋肉は、撚った鋼線の如く高密度で、青き縦罫線の走るユニフォームに包まれた上からは、実際華奢に見えなくもない。

 打席に立ち、漸く紫桃の面が持ち上がる。その顔は、NPB選手の中で評価すると、一二を争うほどに端正なのだった。

 しかし、それもある程度は自然な話であり、この紫桃枝音は女なのである。

 つまり、二十四歳の女の、それも大して(見た目は)体を膨らませていない新人打者によって、成績と共にプライドを蹂躙されているのが、この’16年のセントラル・リーグの投手陣事情であり、また、日本シリーズ開幕からは楽天の投手も、今シーズン不幸にも横浜に属してなかったセリーグ投手らに倣うかのように、祈るような気持ちで彼女へ投球してきたのである。そして紫桃当人は、無慈悲に彼らを打ち砕き続け、出場した第一戦、第二戦、第六戦で既に延べ五本の本塁打を放ち、その全てでチームへ勝利をもたらしていた。

 そして、この第七戦。指揮官としてまさか頼りにする訳にも行かぬ、「此奴が登板すると負けない」という噂――NPBの方言を使うなら「神話」――へ、しかし、縋るような思いを為して、楽天監督が急遽救援登板を命じた黒瀬は、いつも通りぽこりぽこりと打たれながらも、すぐさま同じ点数を打線が取り返すと言う不思議により、一点リードの九回裏二死まで、とうとうチームを導いていたのである。あとワンナウト。あとワンナウトで、今年の全てが報われる。我らが日本一になれる。

 ………………

 二塁に走者が至ったことで一度寄って来ようとする捕手の島を、黒瀬が追い返す。右手を突き立てて制止した後、その手を帽子の鍔の辺りからすっと下ろして見せることによる、「さっさとマスク被り直して下さいよ。」という言外の言葉が、いや正確には、そんな不遜を演ぜられる程の余裕が、楽天軍を幾らか安堵させた。島は肩を竦めて踵を返し、内野の何処かからは、「おう、堂々と行ったれ行ったれ、東北の不沈艦アイランド!」との声が飛ぶ。

 このような泰然と対照的なのが、打席に立ち構える紫桃である。レガースもグローブもリストバンドも無い、更には肘当ても無い、可能な限り夾雑物を淘汰することに心血を注いで来たかのような姿の紫桃は、ネクストバッターサークルからの最短距離で右打席に踏み入ると、すっと、ただバットを持ち上げた。強いて分類するなら、神主打法に当てはまる構え。黒塗りのバットは、宗教的な意義を探りたくなる程に堂々と捧げられ、内股気味の足許では、右脚をしっかりと地面へ突き刺して体躯を支えており、左脚は、踵が浮くか浮かぬか程度、適度に捩じられて張り詰まっている。胸乳むなぢも含めて引き締まっている上体だけは、多少力が抜かれているようにも見えるが、これすらもまた、咬みつく直前に躍る毒蛇のような、兇悪に研ぎ澄まされた寛然なのだった。そんな緊迫の極限の姿勢のまま、紫桃はじっと動かない。島が戻ってきてしゃがむ間も、黒瀬がロージンを弄ぶ間も、じっと、バットの先すら動かず、彫像のような佇立を不気味に続ける。足場を踏み固めたり本塁をつついてみたりするルーティーンや、バッテリーの挙動に呼応して構えと弛緩を繰り返すと言う、打者として尋常な素振りも一切見せぬ紫桃は、解説者に屡〻しばしば、「ずっとあんなで疲れないんですかねえ。体も固まっちゃいそうですけど、」などと心配されることで有名だったが、バッテリー、とりわけ投手にとっては、そんな異様すらも、これ以上もない畏怖の対象なのだった。

 しかし、やはり黒瀬は動じない。そういう精神病の罹患者であるかのように、薄笑いを続け、鷹揚を毀たないのである。

 緊迫と悠然の対峙、殺意と余裕の対決。その他の者が皆揃って、燃え上がるような昂奮を一色に漲溢させる球場内で、この日本球界至高の衝突だけが、レリーフのように泛かび上がっていた。

 ――いや、もう一人だけ、異質が居る。この後の展開を百も承知な藍葉は、冷めきった目をしつつ、キャンペーンでチーズの量を増されたピザの、最後の一欠片を口の中に放り込むと、ぬるみ始めていたビールの残りを一気に流し込んだ。苦味と泡の感覚は、彼にとっては当然、世界で初めて体験した物であったが、最早すっかり嫌いでなくなっている。

 そんな藍葉は、周囲の熱狂を眺めることで、自分だけの冷淡を自覚させられた。まるで、エントロピー増大則が故障して、自身の熱が周囲へどんどん奪われているかのような、

 ………………

 マウンド上の黒瀬は頷くと、大打者を待たせちゃ悪いねと言わんばかりに、さっさと動き始めた。そら走れよがしの、ワインドアップ。横浜の俊足の二塁走者、丹菊たんぎく詠哩子えりこ――紫桃の盟友にして他の唯一の女性選手――が、そう来たかと瞠目しつつスタートを切る。緩い、逃げるカーヴがアウトローに外れると、島は、興味が無いとばかりにただマウンドへボールを返した。一塁走者の三合は動かないが、二死三塁一塁と局面が移行する。

 歓声が巻き起こる。同点の走者が三塁に進んだからではなく、勝手にワインドアップを働いたと思しき黒瀬の度胸でもなく、立ち尽くした儘の、紫桃に対してである。そう、文字通り、紫桃は立ち尽くしていた。黒瀬が振りかぶり、その無敵の右腕から第一球を投じても、足を上げる事すらなく、またミットへの一顧すらせず、紫桃は本当に、微動だにしなかったのだ。その、彫像のような姿勢をただ維持し、呼吸によってのみ肩や胸板を僅か上下させている。

 この、選球眼、と言って良いのかも分からぬ、あまりに堂々と、打つ気にならぬコースばかり見逃す紫桃の態度は、「神眼」や「不動明王」と称賛され、その威名を高めていた。今シーズンの横浜にぶっちぎりの優勝を齎した、この打者が、いつも通りの眼を発揮しているという事実。それだけで、集った横浜ファンらは励まされていた。いつも通りの紫桃ほど、心強いもの、恐ろしいものはこの世に無いのだ。

 タイムを請うた後、差し止めようとする黒瀬を無視しつつ、島がとうとうマウンドへ駈け寄った。今度勝手にワインドアップして、ホームスティールを許しては承知せんぞという旨を、言い含めているようである。ああ、そう言えばそうか、と言わんばかりに、曲者走者の居る三塁へ一瞥をくれる黒瀬へ、丹菊は、莞爾と手を振り返した。これに呆れたような顔を見せて島が本塁へ帰り始めると、「後一人、」だの、「締まっていけ、」だのの掛け声が、三塁ベンチから吠えるように向けられる。一方で、横浜からは誰も紫桃を励まさない。彼女が一度打席でバットを持つと、まるで、視覚以外は無用だと切り捨てているかのように、何も聞こえなくなると知っているのだ。

 島のサインへ、再び、微塵の逡巡も見せずに黒瀬が頷く。状況的に満塁にはおいそれと出来ず、そして捕逸も絶対に許されないと、――黒瀬の暢気を埋め合わせるかのように――惧れる島の指示は、インロー一杯の速球だった。一応、紫桃が(比較的)苦手としている(とされる)コースである。

 セットアップから黒瀬が右腕を堂々と振り、そして、――すっぽ抜かした。全てを見通したかのように、既に足を上げていた紫桃は、その、顔の高さへ力なく浮かび上がった白球へ、仮借なく、黒塗りのバットを叩きつける。三塁側からの歎きの声、一塁側からの歓喜、三塁走者の丹菊が、嬌声を上げつつ小さい体で跳ね回る。

 球場名物の花火のように打ち上がるそれは、蒼ざめた左翼手の頭の遙か上を、――越えなかった。

 夜空に翔る白球は、稲妻の如く折れ曲って執拗に分岐する軌跡を、具体的に見えるものとして、蜿蜒えんえんと宙に残している。それの黒々とした様子は、まるで、上次元界に植生する破滅の大樹が、戯れにその分枝を世界へ伸ばしてきているかのようで、事実、根元に近い方ほど逞しい。綺麗だよな、と、諦めている藍葉は暢気に思う。

 多少のスライスはすれど真っすぐ翔り進んでいる筈の白球が、何故そのように複雑な航跡を残すのか。それは、軌跡の記され方が、ペンによる筆記とは違った為だった。この、極悪の、世界を滅ぼすホームランボールは、三次元世界の空間を、砕氷船の如く叩き砕きながら進んでおり、そうして生じた世界空間の亀裂から、黒々とした虚無が、丁度深海で潜水艦の窓が割れたかのような、逃げ場の無い破滅として染み入ろうとしているのだ。

 観客の内のほんの僅かが、この崩壊の前兆に気が付いてどよめくも、残る全ては、レフトスタンドを目指す白球そのものに目を奪われている。そこで、誰一人逃げ惑うことも無く、行儀よく席に着いたり立ち上がったりしたままで、――世界が、割れた。

 上手く叩き裂かれた鶏卵の如く、スタジアムの本塁から左翼方向を境として、二つに断たれた世界がそれぞれしていく。たて方向へではない、世界の人間が初めて知覚する次元軸の方向へ、世界の大破片がそれぞれ墜落していくのだ。竪でない以上、「落下」というのは不正確かも知れないが、とにかく、破滅的な、取り返しの付かぬ方角へ一直線に引かれ、沈んでいく。限りなく三次元に近い、つまり、無限の面積を持つ断面から、虚無が放恣に進入して来た。世界の感覚では、体積と応力を持つ闇、とでも描写するしかないそれに、人々の阿鼻叫喚が続々と飲まれていったのだろう。しかし、文字通りの最前席に座していた藍葉は、一塁手や打撃コーチに続いて、殆ど真っ先に闇に侵蝕され、世界での知覚を早々喪失したのだった。


   ***


 三次元世界「SHY-82301-79」――即ち、SHY事務所が受け持った83201番目の低次元世界の、79回目の再生プレイ――での、若者「藍葉」としてのを、またそうして終えた彼は、溜め息に相当する波動をつい発してしまった。

 これを傍受した、第八軸的な意味ですぐ近くに居る仕事仲間が、

「駄目だったですねぇ。またまた、どかーん、とイカれましたか。」という旨の重力波を送って来る。彼がSHY-82301系列で演じて来た、茶畑ちゃばたけ詩織しおりという女人格の口調の影響が瞭然だった。

「ああ、……まぁ、めげずにまたやりなおそう。」

と、藍葉奏也かなやを演じていた彼が返すと、

「でもですよ藍葉さん、……じゃなかった、」

「もう、暫くは『藍葉』で良いんじゃないかな。」

「じゃあ、藍葉さん。幾ら何でも最近闇雲過ぎますし、そんな世界没入ばっかりしてないで、ちょっと落ち着きましょ、ちゃんと一回作戦を考えましょ。言ってはなんですか、此処数回で私達何か、手掛かりでもなんでも得ましたっけ?」

 藍葉は、つい口を尖らせようとして、そんな曖昧な器官など持っていないことと、光或いは光景による意志伝達を茶畑と形成している訳では無いことを思い出して、してしまった。最早相棒のことを馬鹿に出来ず、彼自身もSHY-82301、と言うより、三次元世界の癖に染まりつつあった。あんなちっぽけな低次元世界に、自己が支配されつつある。

「最近、自分が自分でなくなっていく気がするなぁ。」

「ここまで苦戦するようだと、次元洗滌も、サボらずにジャボジャボ受けた方が良いんでしょうね。」

「でも、こういう被染は、僕らの仕事において毒だけでなく武器にもなると所長は言ってたし、問題になるギリギリまでは洗滌されない方が良いんだろうけどね。」

「……えー? ちょっと藍葉さん、そいつぁ無私が過ぎません? しかも、こんな大した事でもない仕事なんかに、」

「まぁ、ほらええっと、……『弘法は筆を選ばず』みたいな言葉も有ったじゃない?」

「……多分、意味違いましたよそれ。」

「そうだっけ?」

「スポーツライター茶畑としての生涯を五十回以上送った私が言うんですから、信憑性有り有りですよ。」

「ライター経験なら、僕だって、」

「藍葉さんじゃ、一回もまともな成果でなかったでしょ! やっぱり、そもそも取材の才能無かったんじゃないですか? きっと、だから全然上手く行かなかったんですよ。」

 苦い想い出、紫桃に接触する初回からいとも毛嫌いされ、速やかに横浜球団から出禁を言い渡されるという再生を繰り返してきたそれが、藍葉の十二次元の肉体の、脳裡に相当する部分を擦過した。しかも、もしもこれだけの事実しか無かったのなら、紫桃という女は扱い難い癇癪かんしゃく持ちだなぁ、と呆れるだけで良かったのだが、実際には、茶畑の場合に一度もそんな問題が起こっていない以上、肩身が狭くなる。

「まぁ、そういう方面は今後も任せるよ、『茶畑さん』。」

「アイアイ。」

「で、何の話だっけ。」

「そう焦ってSHY-82301に没入し続けるのは止めて、一回落ち着きましょうって話ですよ。まず、このままじゃ上手く行かなさそうってのが有って、」

 「まず」という言葉の引っかかった藍葉が、

「他に、何か有ったっけ?」

「これから言う話です。藍葉さん、もうすぐ、クライアントさん来ちゃいますよ。」

「ああ、……そういえば、そんな約束有ったね。いつくらいだっけ?」

「大体六年後です。……あ、」

 とうとう時間単位までSHY-82301の物を用いてしまった茶畑をべく、両者は、諧謔的な重力波を互いに送りあった。

「六年、か。そんな瞬く間では何も出来ないし、茶畑さんは大人しく休憩でもしてなよ。」

「諒解、……あれ、そっちは?」

「少しでも、言い訳考えてみる。」

 

 その後結局、殆ど無益に思考を堂々巡らせていた彼の元に、行儀の良い重力波が飛んで来た。

 藍葉も、慎んで応じる。

「――様、ご無沙汰しておりました。」

 同時に茶畑も卒なく、邪魔にならず、それでいて漏らされない程度の重力波を飛ばして、存在を顧客に主張した。ええ、私共は、二人という頭数を割いて鄭重に応対いたしております、と、

「首尾は、どうですか?」

 このようなクライアントの語り口から、最近の藍葉はつい、血色の悪い貴婦人を想像してしまうのであった。完全な三次元癖、或いはSHY-82301癖だが、思うのは勝手な筈なので、せめて語り口には出してしまわぬようにと自分を戒める。

「生憎ですが

「何故です?」

 相変わらず、混信を恐れぬ勢いで踏み込んでくる相手だった。

「何故、と申されますと難しいのですが、……そうですね、正しく、『難しい』のです。

そんな、二千年程度で、」

「ネン?」

 想像の中の貴婦人が、訝しげに眉を寄せる。

 あ、と絶句してしまった藍葉を、茶畑が慌てて助けた。

「とにかく私共、誠意を持って慎重に作業を進めてはおりますが、定期的な進捗をお約束するのは難しい情況なのです。単純労働では御座いませんし、丁度、そう、……古代の謎解きのようなものですから。何か切っ掛けが得られれば一挙に氷解するでしょうが、それまでは遅々として進まないように見える、という性質の仕事で御座います。」

 嫌みな間が、少し置かれてから、

「古代だなんて、確かに、お義父様は些かばかり古い人間で御座いましたが、」

「物の譬えです、御不快でしたらお詫び致します。」

 すっかり主導権を奪われた藍葉は、少々どぎまぎさせられていたが、これら、茶畑の二の句が旨く貴婦人を冷却させたようで、幸か不幸か、話は実用的な方向へ流れていった。

「とにかく、私は門外漢では御座いますが、それにしても不思議に思ってしまいますよ。とある遊技――ヤキュウとか言いましたか?――において、と、が存在しており、矛盾を招いて。……これだけ、の話ではないですか。何に、そう梃子てこると仰言おっしゃるのです?」

 茶柱が言葉を籠もらせてしまったので、今度は藍葉が助け船を出す番だった。

「勿論、矛盾を除去して破綻を回避し、盆栽世界を半永続的に再生出来るようにするでしたら、いとも簡単です。その、無敵の『攻撃者』か『防禦者』の一方を、事故死でもさせれば良いのですから。しかし、……それでは、亡きお義父ちち上様の意図を読み取れるとはとても思われないのです。」

 相手の、眉の吊り上がるかのような気配の隙に、藍葉は送波を続けた。

「貴方様のお義父ちち上は、その世界盆栽の腕前で名高かった訳です。そんなお方が、無思慮に、思うが儘の創意を素材世界へ注入して、挙句破滅的撞着や自殺的終焉を内包させてしまうだなんて、およそありえない筈でしょう。つまり、我々がただ単純に破綻だけを回避したとしても、そうやって安易に得られるであろう、退屈な三次元世界の光景には、なんら意味が無いと思われるのです。それでは、作者の意図を洗い流してしまっているでしょうから。

 ですので私共は、慎重に素材世界自体やそこへ加えられた操作内容、及びその意図を精査して参りました。そう言ったことを通じて、こうざれたお義父ちち上様の御遺志を可能な限り渫い出すべく、慎重にことを進めているのです。我々のお預かりした脆過ぎる世界が、故人の意図通りのものだったのか、未完成だったのか、或いは奇跡的な誤りが含まれてしまった状態なのか、そういった所の判断から、決して過たず、一手一手行わねばなりません。」

 この、些か出過ぎたかな、と反省させられた語りに対して、ただ暫し沈黙を差し向けて来たクライアントは、何か仕返しに嫌みを返すべく考えては見たものの、ついに叶わなかったのではないかと、藍葉は後から思ったのだった。

 

 とにかく、交信が遮断された後、

「いやいや、恰好良いじゃないですか藍葉さん、お見逸れしてましたよ。……『慎重に』ってのは、だーいぶ嘘だったでしょうけど、」

「別に、今回預かってる世界盆栽は無限回再生し直せるタイプなんだから、何度も闇雲に挑みかかることは、『慎重』と矛盾しないさ。」

「まぁ、物は言い様ってことですね。」

 そう述べると、茶畑は自身の、第六次元軸の昂ぶりをぐっと抑えた。どすんとソファに腰を落としたかのような印象を、藍葉は覚える。

「じゃ、作戦会議しましょうよ藍葉さん。どーんと一発、ここで流れを変えないと。」

「……ああ、」

 藍葉も、茶畑に倣って気分や姿を弛緩させた。

「とはいえ、……急に作戦会議と言われても、何も思いつかないんだけどな、」

「そうしたら、ちょっとお任せ下さいよ藍葉さん。私、沢山アイディア用意してありますので。」

 藍葉は、眼を見開きたい気持ちになった。

「そんなものを練る暇なんて、一体いつ有ったんだい?」

「別に、『あー、今回も駄目だね。世界は終わります。目出度し目出度し、ちゃんちゃん。』となってから日本シリーズの最終戦までの、つまり消化日みたいな期間に、せめて色々考えてみていただけですけど。他に、出来ることも無かった訳ですし、」

「……成る程、」

 重力波の振幅が、一瞬、悪戯っぽく跳ね上がった。

「その反応、……もしかして藍葉さんって、そういう場合に遊び呆けてたりしてないですよね?」

「あ、いや、」目と言う器官が存在していたら、逸らしていただろうな、と藍葉は思いつつ、「基本的には、頑張って情報を搔き集めたりしていたよ。」

 少しでも終焉の姿を目に焼き付けようという名目の、日本シリーズ観戦は、少なくとも初めの内はそういう純良な動機に実際因っていた筈だったが、最近の再生回ではやや怪しくなっていた。

 茶畑は、藍葉の当惑にそもそも気が付かず、

「とにかく、作戦会議始めましょ。思いついてるの全部挙げますから、良いとか悪いとかバシバシ素直に言って下さいな。」

 そうして茶畑から飛び出してきた筆頭の「アイディア」を、藍葉は、悲鳴を上げるかのようにして即却下する。それ以降の候補についても、長い野菜を輪切りにして捨てていくかのように、次々と否定することになったのだが、藍葉にはどうにも、尻すぼみというか、段々と話が小規模になるように感ぜられたのだった。最後の、正に大根の末端のように矮小で拗けたアイディア、「横浜球団の支給するプロテインに塩を混ぜれば、選手がそれを嫌いになって成績が落ちるのではないか」を、それを伝えてくる波動ごとを叩き落とすように否んでから、

「……なんか、どんどんショボくなっている気がするのだけど、」

「まぁ、そういう順番に並べましたからねぇ。」

 再び茶畑から、挑発的な重力パルスが飛んでくる。

「藍葉さん、どうです? こうやって全部眺めてみると、最初に御披露したヤツが一番魅力的に思えてきません?」

 この言葉は、その勢いのまま、藍葉の気分を飛矢の如く捕らえた。確かに、その核弾頭のような「アイディア」によって得られるであろう成果、つまり、紫桃や丹菊(或いは黒瀬?)についての新たで詳細な情報は、とても魅力的であり、……いや、もしかするとそんなケチな話だけではなく、一挙に、世界破綻の打開までこなせてしまうかも知れない。

 しかし、……あまりにも、

 返事を待ち兼ねるかのように、

「気合いを見せて下さいよ、藍葉さん。勇気一発、ド根性です! いかに困難に見えても、これしか方法が無いなら、やってのけるしかないですよ!」

「え?」素直な疑問が、藍葉の空間野から飛び出る「茶畑さんも、一緒に挑戦してくれるんじゃないのか?」

 茶畑の発する、三度目の重力パルスは不恰好だった。

「な、何言ってるんですか、女の身でそんなこと出来る訳ないでしょ!」

「いや、丹菊と紫桃は、」

「絶対無理です、普通は無理です! 女身でNBPで戦うなんて、あんな化け物達でないと無理だからこそ、あの世界で二人は目立っているのですよ! そもそも、そういう効果も狙って、盆栽世界へ注入されたに決まっています!」

「じゃあ、そこはそうだとしても、……別に茶畑さんが、というかが、『女』という属性でSHY-82301に没入し続ける義理も無いよね?」

 茶畑の、ぽかんとした間に続いて、藍葉が、

「普通に次の没入から、あの世界で言うところの、『男』になってくれればいいじゃないか。」

「……成る程?」

 もじもじとした逡巡を洩らし伝えてくる、定常波の後に、

「でも、さっきも言いましたけど、ライターとしてまともに横浜へバリバリ取材出来るのは、だけ、というか、茶畑詩織だけなんですよ? そんな貴重な情報源を、失っていいんですか?」

 言い訳だろうな、と藍葉は直観した。恐らく、茶畑詩織の24年間を79回も演じて来たので、その人格を失い、ましてや、今更異性となるのが恐ろしいのだろう。の確乎たる意志なのか、或いはそれとも、先程世界と共に――79回目として――死亡した筈の茶畑詩織の亡霊の様なものが、余韻のように影響してを操ろうとしているのだろうか。

 いずれにせよ、にとっては良い傾向な訳がなく、次元洗滌を早期にも、なんなら今からすぐにでも施すべきなのだろう。

 しかし、

 ………………

「結果的に、筋は、一応通っているんだよな。」藍葉はそう、半ば独り言ちてから、「分かったよ、君の言う通りにしてみよう。僕は、次のSHY-82301への没入から、努力する。」

「ガッチャ!」

 そう、茶畑が突然発した、SHY-82301のどこかで憶えたのであろう俗語を、解さぬ藍葉が困惑している内に、

「そうです。丹菊選手や紫桃選手の同僚になれれば、これまで私ですら摑めなかった情報が、選手の視点でたっぷり得られる筈ですし、なんなら、そのままペナントレースの結果に干渉して、黒瀬選手・紫桃選手の対峙を自然に回避させられるかもしれないんですから!」

 藍葉は、後者については――自分も少しは期待するが、実際には――中々難しいだろうな、と想像した。横浜球団へ新戦力として自分が追加されたからといって、チームの日本シリーズ進出が叶わなくなると言うのは、およそありえ難い。自分が力不足な選手ならば、単に使われなくなってオリジナルの28人が試合に出るだけなのだから、横浜の足を引っ張ることは不可能なのだ。だからと言って、楽天の進出阻止も難しいだろう。破滅を齎す日本シリーズ進出を賭けて――正確には、その予選であるクライマックスシリーズ出場を賭けて――楽天の戦う143試合の内、横浜との試合は、僅か三試合だけである。そしてそもそも、藍葉らが介入しない世界での結果は、既に横浜の三連勝で、これ以上楽天を貶めることはほぼ不可能だった。……一応、ラフプレイを乱発して楽天の選手を破壊すると言う方法は思いつかれるが、そんな事を試みれば、高潔で名高い紫桃に自分が殺されかねない。

 そんな思索を巡らせたところで、藍葉はふと思い出す。あの、紫桃の、危険なプレイや暴力を毛嫌いする精神は、どういう意味を持っているのだろう? 勿論、そういうものを嫌うのは人間、或いは知的生命としてとても自然な、有りうる挙動だとは思うのだが、しかし、それにしたって紫桃は度が凄まじかった。あれが、もしも世界盆栽職人の意志によっていたのならば、どういう創意がそこに籠められているのだろう?

「どうしました?」と茶畑に促されて、はっとした藍葉は、

「ああ、いや、なんでもないんだけど、」

 藍葉は誤魔化しがてら、自分の五次元ライブラリから、過去のSHY-82301における群をとり出して、ざっと第四軸方向へ通し眺めてから、――つまり、これまでの失敗を一通り振り返ってから、

「しかし、実現はなかなか難しいだろうなぁ。……まぁ、精いっぱい頑張るけどね。」

 とある盆栽職人によって、既に操作の加えられた低次元世界。そこへ新たな操作を、しかも元の創意を全く毀たずに加えることは、事実上不可能である。しかし、そうは言っても何もせぬ訳に行かない場合に、厳密な完全保存は無理でも、可能な限り影響を減らしつつ世界へ介入する方法として、赤児として世界へ没入するテクニックが知られていた。「嬰児法」と呼ばれるこれは、今回のSHY-82301における日本国――温暖な島国、社会水準は悪くないが人口密度が拷問的――のような、戸籍を絡めた人民管理の行き届く世界では殆ど必須とされている。例えば、素朴かつ悪い例として、適当なパーソナリティを持った成人としてこういう世界へ没入しようとすると、その両親は誰であったのか、などと言う問題がすぐに発生してしまうのだ。だからといって親を作成する操作を追加で行ってしまっては、いよいよ侵襲が大き過ぎるし、そのまた親はどうするのだ、また、彼らがその時点まで生きてきた歴史は、と、問題がどんどん発散してしまう。一方で嬰児法、つまり、それなり以上に裕福で幸福な夫婦の末子――正確には胎児――として世界へ没入する方法では、勿論妊娠以降についての改変は多少生じてしまうものの、少なくとも、過去との矛盾は起こさずに済むのである。

 つまり、藍葉は、……プロ野球選手、しかも、他でもない横浜に指名されなければ意味の無い生涯を、これから何度も何度も叮嚀に、赤児から繰り返すことになるのだった。確かに成果は素晴らしい筈だが、しかし、困難さはそれ以上だろう。子供の時に抱くような大雑把な夢を、本当に叶えねば全く意味の無い人生。

「大丈夫、多分何回目かで行けますって! 藍葉さん、野球、嫌いじゃないでしょ?」

 藍葉は、しまってから、

「『嫌いじゃない』くらいで、プロ指名されることは出来ないよ。四六時中野球のことばかり考えて練習して、その年の、高校大学社会人地域リーグを全部ひっくるめての、上位百人弱に入る名声を得て、……挙句、中でも横浜に選ばれるという、十二分の一をくぐり抜けないといけないんだ。」

 藍葉は、漫ろに自分のライブラリを揺らした。動揺による波動が、三次元世界の鈴の音のように、鏘然しょうぜんと快く伝わってくる。

「そんな挑戦を、なんどもなんども数知れずに、か。」

 一体、どこまで自分が自分でなくなるんだろうな、と、藍葉は不安に、しかし、何故か少し楽しみにもするのであった。

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