第二十五話 立ち昇る星(一)

 突然の雷雨だった。


 急いで川から上がったのは、雨による寒さからではなかった。昨年やっと声変わりが終わった、子供たちの中で一番年長だった大慶だいけいの幼い経験則による勘からだった。


 夏の終わり、この時期の夕立は、清流を一瞬で激流に変える。


 山中の渓流、岩場から、急ぎ離れるようによじ登った。白い岩肌が見えていた場所が、すでに増量した水に沈んでいる。山裾からしばらく上った山の中腹、岩場に囲まれた透明な川は、振り続ける豪雨の中みるみるうちに濁流に姿を変えていた。


「大慶!」


 岩場の下から声がした。雷雨の中、滑る岩場をよじ登る他の子どもが声を上げていた。


宇航うこうが水に飲まれた!」


 言葉を聞き、視線の先を見た大慶は、ふらつくような感覚を覚えた。


 すでに茶色く濁った激流の中、日に焼けた顔の少年が、岩に必死にしがみついているのが見えた。


「縄は!」


 大慶が叫んだ。近くにいた少年が持ってきた縄を持ち、雨で滑る岩場を慎重に降りた。


 濁流は、すでにとどろくような音の流れに変わっていた。これ以上岩を下れば自分も飲まれかねない。伸びた縄の一部を手に持ち、岩場にしがみつく少年に向けて縄を投げた。


 雷が鳴った。雨の勢いは止まらなかった。


 何度か投げては引き戻しを繰り返した中、それでも投げ続ける大慶の顔が、諦めに包まれかけていた。縄が届かないのだ。位置の問題ではなかった。長さが足りていなかった。水かさが思ったよりも増し、いつもなら立ち入れる川べりがすべて濁流にのまれていた。この位置からでは届きようがなかった。


 瞬間、頭上を何かが走った。


 緑色の、蔓だった。


 川の上、張り出した木の枝から、いばらのような緑色の蔓が、濁流を飛び越え対岸の木の枝へ巻き付くように飛び出していた。


「あいつ……」


 縄を投げていた大慶の上、別の岩場にいた少年から声が出た。


 濁流を越えて貫く、川の両岸を結んだいばらの中央で、栗色の髪をした小さな少年が、いばらの蔓に絡まるようにぶら下がっていた。


 流れてきた流木が、川の対岸へ音を出し突き破るように岩を砕いていった。

 誰一人声を上げられなかった。


「あいつ、山小屋に住んでるよそ者だ」


 大慶の上、岩場に立つ少年から声がした。


 信じられないものを見ていた。


 叩きつけるような雨の中、張り出したいばらにぶら下がる栗色の髪の少年が、その手からさらなるいばらの蔓を伸ばしていた。絡みつくように垂れ下がるいばらが、濁流に逆らい岩場にしがみつく少年の体を捕らえ、濁った激流の中を引き上げていた。











 高い空、乾いた空気の中を、ヒヨドリの鳴き声が響いた。


 日が差すようになった山肌を、日に焼けた少年が息を切らせながら登っていた。

 茂るように生えていた木々の葉は、その姿を消していた。足元のけもの道の両脇、うずたかく積もった枯れ葉の中に、新しい紅や黄の葉が強く混ざるようになっていた。


 冬が近づいてきていた。


 吐く息の白さが、疲れを示していた。

 道の途中、脇に生えた木の幹へ、手をつこうと寄りかかった。


 瞬間、乾いた音がした。

 鮮やかな緑の矢のような何かが、目の前の幹へ突き刺さった。


 反射的に後ずさりした。

 いきなりのことに、後ろを確認もできず下がったのが良くなかった。乾燥した枯れ葉が足を奪った。頭から落ちるように転び、背中に負った竹籠ごと地面へすっころんだ。


 倒れた風圧で、乾燥した落ち葉が舞った。

 視線の先に、普段見慣れないものが映っていた。


 背の高い、黄色に色づいた落葉樹の上で、栗色の髪の少年が小さな弓を構えて立っていた。


「おい」


 不愛想な声だった。

 にらむような表情のまま、少年が弓を構えて口を開いた。


「この先には入るな。冬眠前の熊が出る。気が立ってるから、見つかったら食われるぞ」


 うずたかく積もる落ち葉の中、日に焼けた少年が、仰向けに転んだまま目を見開いていた。

 しばらくの間、驚いたような表情で、木の上に立つ少年をただ見ていた。


 視線を受けた栗色の髪の少年が、木の上で困ったような表情に変わった。


「何だよ」

「いや――」


 立ち上がった褐色の少年が、枯れ葉と土を払うように衣服を叩いた後、軽快に口を開いた。


「なあ。お前、川で俺を助けてくれた奴だろ」

「知るか。早く帰れ」

「帰らない」


 横着そうな笑い声だった。

 褐色の少年に、木の上に乗った少年が、左手に持った弓を弾き絞り射るように向けた。


 褐色の少年が、へらへらとした表情のまま、おどけて手を広げて答えた。


「矢がねえじゃねえか」

「うるさいな……」


 ぎょっとした。


 めんどくさそうな言葉の後、弓の弦を引っ張る右手から、緑色の針のようなとげが生えた。


 いつのまにか、栗色の髪の少年の弓に、緑色の矢がつがえられていた。


 褐色の少年の背筋に、小さな汗が流れた。


「今のこの時期は、遊びで入っていい場所じゃない。帰れ」

「遊びじゃない」


 褐色の少年が、声を張り上げた。

 矢を向けられたまま、一歩も引かず木の上の少年を睨んで返した。


「熱さましがいるんだよ。家族がずっと熱を出して寝込んでる。この先の沢のあたりに、熱に効く草が生えてるってのを他のやつから聞いた」

「村の薬屋にいって買えよ」

「高すぎるんだよ!」


 褐色の少年から、誰に言うでもなく強く文句が飛び出した。


「俺らじゃ買えない」

「なら、せめて大人と一緒に来いよ」

「俺以外の大人は、倒れてる婆ちゃんしかいねえ」


 しばらくの沈黙の後、木の上で構えられていた弓が、静かに下ろされるのが見えた。


 栗色の髪の少年が、木の上から器用に一瞬で落ちるように降りてきた。左手に持っていた木の弓を、背後に結んだひもに挟む。


 褐色の少年よりも、頭半分ほど小さな少年だった。


「ついてこいよ」


 背に弓をさしたまま、栗色の髪の少年が先を歩き始めた。


「どうするんだ」

「解熱に効く生薬を取りに行く」

「わかるのか」

「俺の師匠が薬師だ」


 山肌を、栗色の髪の少年が猿のように駆け上っていった。


「なあ」


 後ろからついてくる褐色の少年が声を上げた。


「俺、宇航っていうんだ。お前なんていうんだ?」


 栗色の髪の少年が、木の枝をつかみながら振り向いて答えた。


明星めいせいだよ。あんまり大声出すなよ」











 目を開けると、満点の星空の中に浮いているようだった。


 真っ暗な夜の闇のような中、視線の先、小さく光る白い渦の中心から、星のように光る無数の何かが自分の周りを飛んでいくのが見えた。


 星ではなかった。遠くにある何かがが、小さく瞬いているように見えるだけだった。流れるように跳んでくる無数の小さな光が、自分を通り抜けるたびに気が付いた。


 過去、自分が見た風景だった。

 闇の中、遠く奥で光る白い渦の中心から、流れるように飛んできていた。


 一体ここはどこなのだ。

 何が起こっているのか、明星はわからなかった。視界の先から貫くように小さな光が流れてくる。闇の中、足元の感覚もなかった。浮いているようで、落ちているようで、かといって不安になるものでもない。ただひたすらに、無数の小さな光が突き抜けるかのように飛んでくる。不思議な感覚だった。


 自分は、どこにいるのだ。都に来たはず。先ほど、大柄な女に地面へ叩きつけられ、逃げた。左手が光り、弓が戻った。


 そうだ。弓が戻ったのだ。左手を見る。

 虹色の小さな石が、左手に紐で括りつけられていた。


「意識を保ちなさい」


 不意に、後ろから声がかかった。


 声で初めて気が付いた。真後ろに、栗色の髪をした法衣を着た女が、自分の肩に手を乗せ立っていた。


「誰だ……?」

「この空間に、以前から住んでる術師です」

「術師?」


 目の前から、小さな白い光の粒が、勢いよく二人をめがけて飛んできた。


「——!」


 明星が身構えていた。飛び込んでくる光が映し出すものに、見覚えがあった。


 真っ黒の、明星の体を超えるほどの太さを持つ蛇。

 とぐろを巻く大虚の触手が、参道の石畳をなぎ倒しながら明星めがけて鞭のように突っ込んできていた。


「動かないで」


 後ろに立つ女が、明星の体を抑えるように肩に力を入れた。


 真っ黒の、大蛇のようなものが、明星の体を噛み砕くようにその先端を広げた。

 食われる――。

 身構えた明星の体に何一つ当たることもないまま、光が明星を貫き消えていった。


 連続して、新たな光が明星を襲うように飛び込んできた。光が体を突き抜けるたびに、まるで過去の出来事が繰り返されるように目の前に広がった。


 砕かれた本堂の残骸の上で、宙に浮かぶ桃色の法衣の女。左手に握られた光る弓。打ち抜いた光弾。吹き飛ぶ虚の体――


 真っ暗な空間の中、明星の前でただ静かに困ったように笑う男。


 青白い光を放ち、吹き飛ぶ師匠――


「そう——」


 後ろから、小さく声が聞こえた。


「虚を殺すため、骨に願いを込めたのね……」

「あんた……誰なんだ?」


 振り向いた明星に、栗色の髪の女がただ静かに笑った。

 無言で、肩に乗せた手を視線の先に向けた。


 指の先、白く光る渦の中、残された光の粒がさらに明星を貫いていく。


 雨の中、太白に連れられ逃げるように村を出た幼いころ。右手から出るいばらを弓につがえ、初めて打った矢。

 遠く、ふもとで子供たちが遊ぶのを、山の中からただ眺めるだけの日々。


「なんだよこれ……」


 明星が声を出していた。


「こんなもの、見せたく——」

「大丈夫」


 後ろから、再度声をかけられた。


「頑張って」


 目を閉じていた明星の肩を、栗色の髪の女が強く握った。


「大虚が、あなたの記憶を飲み込んで、元の一つに戻ろうとしている」

「元の一つ……?」


 視線の先、流れていく星々のような白い光の中、その光の数が一気に増した。

 吸い込まれるように行く視線の先、明星を襲う光の密度が急激に上がった。


 ぐにゃりと、感覚が捻じ曲げられるのを感じた。前へ、体が飲まれていくよう、光の流れがその速さを増していく。

 眼前に開いた光の渦へ、吸い込まれるように突っ込んでいった。


「記憶の大本に触れる。飲まれないように意識を強く保ちなさい」







「久しぶりだな」


 照明弾が舞う宮中、遠くに照らされた大虚を臨む黒い樹木の塔の中、望天ぼうてんの目が強くはっきりと見開かれていた。


「お前……どうやって……」


 どこにも捕まらず、宙に浮いたままの白髪の男が、軽く困ったように笑いながら望天を見ていた。


「明星の中に残った『私の部分』を使って出てきている」


 望天が、無意識で口を押えていた。


「お前——」

「すまない。積もる話は山のようにあるが、時間が残念なほどにないんだ。この体もいつ消えるかわからない。それまでに、何としてでも明星を黒結晶から分離させたい」


太白たいはく


 上段の黒いとげに立っていた昴宿ぼうしゅくが、音もなく降りながら口を開いた。


「策はあるんだろうな」


 太白が、静かに無言でうなずいた。


「明星は今、黒結晶の中で、虚の意識と混濁した状態になっています。昴宿様もご存じの通り、もともと明星とこの虚は一つのものでした。それを強引に分けたのが、監正かんせいの術でまた再び元に戻ろうとしている。

 明星が自己の意識を思い出さなければ、今度こそ明星は虚に飲まれ元には戻らないでしょう」


「どうやって、その明星に自己の意識を思い出させるんだ?」


 昴宿の言葉に、太白が静かに返した。


「私と夕星ゆうせいが、中で働きかけます」

「夕星——」


 無意識にこぼれた望天の言葉が、途中で何かが詰まったように途切れた。


 遠く、甲高い金切り声が、強く夜空に響いた。

 全員の意識が、声の主へ持っていかれた。


 照明弾に照らされたナメクジのような大虚が、兵部の放った青白い「檻」を砕きながら、ゆっくりと市街地へ向けて足を進めていた。


 大虚の頭上で、虹色の光が再度光った。


「草木妖がいるな……」


 太白から漏れ出た言葉に、望天が続けた。


「あいつ、最初はこの黒結晶を狙ってきてた。だがあの光が出た後、進路を俺たちから変えてる。おそらくなんだが、大虚に、この黒結晶じゃなくて生きた人間を食わせる気だと思う」


「どうする気なんだ?」


 二人の会話に、昴宿が質問を投げかけた。


「お前たちにとっては、このまま大虚がこの黒結晶を食わずに明星さえ助かればよいという話ではないのだろう?」


 問い詰めるわけでもない昴宿の言葉に、望天が返答をためらっていた。


 遠く、鈍く建物が崩れる音が響いた。大虚の動く先、土煙を上げながら朱色の荘厳な建物が積み木のように砕かれていた。


 しばらくの後、静かに強い口調で望天から声が出た。


「明星を取り出す。そして、残りの黒結晶を——」

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