第3話 ドーナツ
朝食を終え、文則とアメリアはアパートを出た。絵麻は今日は午後からの講義だというため、ラウンジで作業を続けている。
「……」
「……」
登校時、二人の会話はそれほど多くない。もともとアメリアは、本当に女優なのかと疑うくらいに普段の感情表現は少ないのだ。街を素顔で歩いていても、じろじろと眺められはしても、本人だと気づかれないぐらいである。
しかしながら、演技をしている時のアメリアのすさまじさを文則は知っていた。
アメリア・エーデルワイス。『映画賞最多受賞者』としてギネス記録も持っている名女優、フェリシア・エーデルワイスの娘にして、ハリウッド出身の元天才子役でもある。
彼女の代表作を、アメリアの『お世話係』になってから、文則は初めて観た。
戦場を舞台にした、その映画。アメリアの役回りは、機知に長け、主人公を華麗にサポートするヒロイン役。
喜怒哀楽のはっきりとした、いかにも
圧倒的な才能を垣間見たと思い知らされた瞬間だ。絵麻のマンガ動画を見た時に覚えた感覚と、よく似ている。
まるで、アメリアがアメリアでないかのような。
誰かがアメリアに乗り移ったかのような。
そういう、ゾッとする肌感覚。
この映画への出演で、当時まだわずか八歳だったアメリアは、数々の映画賞を受賞している。
アカデミー賞。日本アカデミー賞。カンヌ国際映画祭。ゴールデングローブ賞。ベルリン国際映画祭。英国アカデミー賞。ヨーロッパ映画賞。……いずれも、映画にそれほど詳しくない文則ですら名前を聞いたことのある、世界的に有名な権威ある賞だ。
しかも、そのほとんどの映画賞の中で、アメリアは歴代でも最年少の受賞者だ。それはつまり、彼女よりも若くして、女優として才能を開花させ評価された者が誰一人としていないということでもある。
映画評論家としても知られている当時のアメリカ大統領のコメントを文則は見たことがある。
『彼女の演技を見ていると、その年齢が八歳だということを私はついつい失念してしまう。時には男を惑わす妖女のようであり、またある時には背中を任せられる頼れる相棒のようですらある。だというのに、屈託のない純粋な少女としての側面を時折見せられてしまえば、それはもう魅了されるなという方が無理だろう。情けない話だが、私もまた彼女の掌の上で転がされた愚かな男の一人さ。だから惜しみない拍手を送るのさ。彼女が決して、私のものにはならないと知りながらね!』
大絶賛だった。演技のことは、文則はよく分からない。だけど確かに、演技をしているアメリアの一挙一動にはいちいち心を搔き乱された。どうしようもないほどに、目を、意識を惹きつけられていた自分を、文則は否定することができない。
そんな演技ができる女の子が、今では日本で、プロの声優として活動をしている。だけど文則は、彼女が声を当てているアニメを一度も観たことがなかった。
正確には、怖くて観れないのだ。観れば、アメリアの才能を目の当たりにしてしまう。それが分かっているから……そして何より、
「……アメリアはどうして、声優になろうと思ったんだ?」
登校中。ときおりふらふらとどこかへ行きそうになるアメリアを、服を引っ張ったりしながらコントロールしつつ、ふと頭に浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「……?」
質問の意図がよく分からなかったらしく、アメリアがこちらを振り向いてきた。「なに?」とでも言いたげに、可愛らしく小首を傾げている。
「いや、だから……女優をやってたのに、なんでわざわざ日本でアニメの声優なんかをやろうと思ったのかって」
「変?」
「変っていうか、もったいないだろ。アニメの声優より、ハリウッド女優の方がずっとかっこいいしさ」
「なんで?」
「なんでって……だってハリウッドっていったら、世界的スターとかさ。そういうのになれたりするだろ。実際に、すごい評価だってされてたじゃないか。でも、アニメの声優って……なんで? って、そりゃ思うだろ」
「日本のアニメは面白いわ」
そういう話をしているのではない。アメリアと話していると、会話をしていてもいちいちすれ違う。
「女優と声優って、やっぱ違うのか?」
「違うわ。でも、演技はアタシ」
「は?」
「アタシは演技」
「どういうことだよ」
その問いにアメリアは答えない。あるいは、もう答えたつもりなのかもしれない。
彼女が日本に来て、女優ではなく声優になった理由は、結局分からないままだった。
「文則はなに?」
「……俺は俺だろ」
「本当に?」
何気ない問い。その問いかけに、大した意図が含まれていないことは分かっている。
だけどズキリと胸が軋む。図星を突かれたと感じている自分がいた。
「……なんでもいいだろ。ほら、行くぞ」
気づけば立ち止まってしまっていた。アメリアの服を引っ張り、歩かせる。
「聞いてきたのは文則なのに」
ほんの少しだけ、アメリアが唇を尖らせる。本当に、普段の感情表現はささやかだった。
無感動というわけではない。無表情というわけでもない。
ただ、なにを考えているのか、見ていてもいまいち分からない、というのが文則から見たアメリアの印象だった。おまけに、道を歩いていても、注意していないと時々ふらっとどこかへ消えてしまう。
今はかなり改善されたが、去年出会ったばかりの頃は本当に大変だった。真っ直ぐに歩いてくれないというか、ちょっと油断すれば興味を持ったものにふらふらと近寄っていっては何時間でもそこにいたりすることもざらだったほどだ。
それだけ、日本という街が物珍しかったのだろうか。一時期は、自動販売機を見かけるたびにしげしげと観察していたこともあった。
そんなことを思い返しながら歩いていると、不意にくいくいとアメリアが服を引っ張ってくる。
「なんだよ」
「ドーナツ」
そう言いながらアメリアの指差した先にあるのは、通学路の途中にあるドーナツショップだ。
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