パンツも穿かないくせに演技だけは天才的なお隣のアメリア・エーデルワイス17歳
月野 観空
プロローグ~あの日、彼女は~
――コミックフロンティア
その、新人賞の授賞式で、一人の男が壇上に上がった。
「えー……どうも、こんにちは。柿井文則です。本名で、一応漫画家、やってます」
そう言って、男は一礼。その時に、額がマイクにぶつかって、『ごつん』と重くて痛そうな音が響く。
会場のそこここで、苦笑とも失笑ともつかない笑い声が上がった。
「あ、いえ、今のはギャグでもわざとではなくて……その、すみません。恥ずかしいので、できれば忘れてもらえると……。っていうか、いい歳した男がドジっ子ヒロインみたいなことしても汚いだけなんで、今のなかったことにならないですかね? あ、ならない? 困ったなあ……」
本当に困った様子で、赤面しつつ男が言うと、さっきよりも大きな笑い声が上がる。その様子に男はホッとした様子を見せると、「今のは、ちょっと狙いました」と言って自分も少しだけ微笑んだ。
「えー、改めまして、柿井文則です。このたびは、新人賞を受賞した皆様方、本当におめでとうございます。まだまだ若輩者ながら、これから漫画家としての道を歩いていくだろう皆さんに、先輩としてお祝いと……そして激励の言葉を送らせていただこうかと思います。そうですね、まず差し当たっては……新人の皆さん。――ようこそ、地獄へ」
と、柿井はにっこりと笑って言った。
「ちなみにこれ、僕じゃなくて、僕のさらに先輩の言葉なんですけどね。多分、ここにいる人なら誰もが知ってる、大先輩。奥嶋ユーサク先生が、僕が受賞した時にも言ったセリフです。当時は、憧れて入った場所が地獄なんて、悪夢かよ……なんて思ったものですが、今となってはなるほど確かに地獄だな、と。そう言うしかないような業界です。まあ、でも、水さえ合えば中途半端なぬるま湯よりもずっと楽しい――そうやって断言もできる場所です」
そこで少し、柿井の顔つきが真面目なものになる。自然、会場に集まった作家、および編集者の面々も、彼のその様子に居住まいを正した。
「――少しだけ、自分語りをさせてもらおうと思います。この度は、昨年に引き続き、自作である『深夜0時に、恋の魔法をかけに来て』がアニメ化からの映画化、さらには実写映画化までさせていただき、誠に光栄なことだと思います。自分なんかが、こんな場所にまで来ることができるなんて……昔の自分に言ってもきっと、まるで信じてくれないだろうなと思います。関係者の方々には、本当に、感謝の思いでいっぱいです」
そう言いながら、柿井は会場を見渡した。その面々の中には、お世話になった先輩作家や、自身の担当編集。その他、顔見知りの出版関係者の姿もあった。
「僕にも、皆さんと同じように……新人作家だった頃があります。いや、それどころか、アマチュアの漫画家だった時期が、そしてそれよりもさらに前の、なんの未来も目標も思い描くことのできていなかった頃があります」
その言葉に、賞を受賞した新人漫画家が数人、顔を上げる。彼らからしてみれば、柿井はアニメ化に映画化、実写化までした大先輩だ。そんな人間が、自分と同じ立場だった頃があると語るのは、当然のことのはずなのに、どこか不思議にも思えることであった。
「あの頃の僕は……そうですね。はっきり言って、ガキだったと思います。世界の大きさを知らなくて、自分の小ささも知らなくて……そして何より、ひたむきになることの尊さや大切さを知らなかった。そのくせ、誰かに背中を押されたい、お前にはできるはずだと言われたい……そんな風に思っていた。そんな、『背中を押してもらいたいだけのガキ』だった僕は、ビビッて、怯んで、最初の一歩を踏み出すことを躊躇い続けていた、ゴミカスでした。うんこ製造機でした」
少し下品な物言いに、またちょっとだけ会場が沸いた。だけどそれは一瞬のことで、思いのほか真剣な柿井の表情に、再び誰もが耳を傾ける。
会場が静まったのを確認したところで、再び柿井は口を開いた。
「だけど、そんなカスみたいだった頃の自分にも、大きな転機がありました。自作……あえて、『拙作』とは言いません。自信を持って世に送り出している作品に対して、『拙い』なんて表現を使いたくはありません。――すみません、少し話が逸れました。
――あの日の出来事を、漫画家として結果を出した今でも、柿井文則は覚えている。
いや、むしろ、覚えているからこそ、ここまでやってくることができた。
あの日……そう、あの日だ。
彼女は、桜色の髪を風に揺らして、無感動な表情で、さらりとその言葉を告げてきた。
――ねえ。アタシに恋を教えて。
と――。
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