失ったもの
ニコラスを守ろうと飛び出したフィーネの行動に、ニコラスは心底肝が冷えたが、同時にそこまでして自分を庇おうとした彼女の献身さに胸を打たれた。
ニコラスの身代わりとしてライノットに刺されていたかもしれない。階段から転落して死んでいたかもしれない。永遠に目を覚まさぬまま息を引き取ったかもしれない。
フィーネが死んでいたかと思うと、ニコラスは自分がどうなっていたかわからない。
早く目を覚ましてくれと願ったことも事実だし、傷を見るたびに罪悪感が押し寄せるのも本当のことだった。
――それでも、考えてしまう。
彼女があのまま亡くなっていたら、自分はレティシアと一緒になれたのだろうかと。
フィーネをどうするかなど、あれこれ頭を悩ます必要なく、レティシアにアプローチできる。今度こそ、結婚することができる。一緒になることができる。
罪悪感はつきまとうだろうが、いずれは時が解決してくれる気がした。
そんなことを冷静に考える自分がいて、ニコラスは慌ててその考えから目を逸らした。
「……もしもあのままフィーネが目を覚まさなかったら、私とあなたは一緒になれたんじゃないかって――」
レティシアにその言葉を言われた時も、ニコラスはすぐさま否定した。そんなことを言ってはいけないと、自分に言い聞かせるように彼女を非難した。
まるで自分の心を見透かされたようで、ひどく後ろめたかった。
それにフィーネが自分のそばにいないことなど、もはやニコラスには想像できなかった。
「愛していますわ、ニコラス様」
フィーネの自分を見つめる瞳が、自分しかいないのだと請うようで、ニコラスの心を甘く満たしてくれる。
(この子には、私しかいない)
家族のことも、自分が見放してしまえば、彼女が他に頼るものは誰もいなかった。それがひどく可哀想で、同時に決して自分から逃げ出すことはできないという安心にも繋がった。
実家で療養したいと申し出たフィーネを心配しながらも、レティシアと会えると思えば、たまにはいいかと彼女の帰省を許した。
レティシアは喜んで自分の屋敷へ訪れた。ニコラスもフィーネがいない寂しさを埋めるように、レティシアと会える喜びが増した。
だからつい、疎かになってしまったのだ。
フィーネの体調を気遣う返事も、その手紙がいつになくそっけないことも、彼女の家へ訪ねることも。
放っておいても、彼女は必ずこの屋敷へ帰ってくるだろうと当たり前のように思っていた。
彼女がどんな思いで別れを申し出たのか、ニコラスは考えようともしなかった。
……本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
あっという間の出来事は、今振り返ると悪夢のような時間だったと思う。フィーネとの婚約を解消してもなお、本当にこれでよかったのか、彼女との別れは正しい選択だったのか、覚めない夢の中を歩き続けている感覚でニコラスは考え続けている。
ずっと待ち望んでいた結末なのに、心から喜べないのはどうしてなのか。喜ぶレティシアをよそに、思い浮かぶのはもうここにはいない彼女の姿だった。
「フィーネ……」
彼女が最後に見せた表情が、忘れられない。
――愛しています。誰よりもあなたを愛しているんです。ニコラス様。
(彼女は……レティシアのことを、知っていた……)
フィーネの言葉を聞いた時、ニコラスは自身の心臓に杭を打たれたような、いいや、自分で幼い少女を刺し殺してしまったような、そんな息苦しさに襲われた。
自分は、取り返しのつかないことを、彼女にしてしまった。
――あなたは私を愛していたのではありません。レティシア様によく似た少女を、レティシア様の代わりとして愛していただけなんです!
(……違う。フィーネ……きみは……きみは、レティシアの代わりなんかではない……)
確かに初めはそうだった。
けれど、フィーネと一緒に過ごしていくたびに、決してそうではないと、フィーネはフィーネだと、ニコラスは理解して、それを受け入れていた。
誤解を解きたい。謝りたい。そして今度こそ――
そう思って港へ駆けつけた時には、もう彼女の姿はどこにも見当たらなかった。彼女は、ニコラスの手の届かない国へと旅立ってしまった。彼女の意志で、けれどニコラスがそうさせてしまった。
「――ニコラス、大丈夫?」
よほど酷い顔をしていたのだろう。レティシアが、気遣う表情でニコラスの顔を覗き込んでいた。
彼女の、夏の日差しに照らされた、若い新緑の瞳。暗いところなど、少しもない輝き。
「ニコラス?」
違う、と思った。あの子は、フィーネの瞳は、もっと青みがかった色をしていた。
その色が、今は何より見たかった。
「……ああ、大丈夫だ」
レティシアの心配する手をそっと払いのけ、ニコラスは窓際に近寄った。
レティシアの顔を見るたびに、フィーネを思い出す。似ているからこそ、その些細な違いが気になって仕方がない。何かを失ってしまった喪失感を意識せずにはいられない。
暗い夜空にぽっかりと浮かぶ月が、忌々しく感じた。
おかしいではないか。あんなにも欲していたレティシアがそばにいるのに、今は、あの少女の姿が見たくてたまらない。声が聞きたくてたまらない。
もう一度この腕で抱きしめて、どこにも行かないでくれと叫びたかった。
身代わりなんかではなかった。フィーネは、フィーネだった。
ニコラスにとって、たった一人のかけがえのない存在だった。
(フィーネ……フィーネ!)
ニコラスは己を嗤った。もう、遅い。何もかも、すべて、自分が望んだ通りではないか。運命の相手であるレティシアと結ばれ、傷つけた少女の隣にも、別の人間がいる。
それでもニコラスは、いつまでもフィーネの名を呼び続けた。
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