夜を越す、傘をひらく

小林小鳩

1

 ここに一番いるべき人が、いない。

 重い海の中から這い上がってもここはまだ深海で、明かりの眩しさに目を細めたまま、手探りで冷たくなったカーテンを閉める。彼はまだ帰って来てない。

 電気ポットで湯を沸かしている間に台所で顔を洗う。まだ目が覚めていない給湯器が吐き出す冷たい水で洗い終えても、夢と現の境がはっきりしない。こうしている間にも、血はどんどんと足元へ下りていってしまいそう。立っていないと、寝てしまう。ヤカンを火にかけている間に寝てしまうのが怖くてコンロが使えなくなって、彼が電気ポットを買ってくれた。誰か、見知らぬ誰かが勝手に、大きな包丁で時間を切り刻んでいく。

 という記憶はある。

 浅瀬に打ち上げられているところを、松並の声で引き上げられた。ローテーブルの上には食べかけのカップ焼きそばと箸が転がっている。何も可笑しいことがないのに。点けっぱなしのテレビは一度も見たことがないドラマを流している。ごめんなさい、とやっと出した声は彼に届いているのかいないのか。彼は澤野が海に沈んでいたことなど、何も気にしていないといったそぶりだ。

「あっ、ケーキ買って来たから一緒に食べよう」

 そう言って彼がコンビニの袋から出したのはバームクーヘンだった。これをケーキと呼ぶのは正しいのだろうか。固まった焼きそばの続きを食べていると、彼はインスタントの卵スープが入った碗を一つテーブルに置いた。

「お風呂入ってくるけど、寝ちゃっても大丈夫だよ」

 そう言って澤野の背中をさする。耳の穴に詰まった生ぬるい水が流れ出していくような。

 優しい。この根拠のない優しさが恐ろしい。潮が引くように目が覚めた。


 頭はぬるい眠気の中に浸されているのに、夢の中に落ちることは出来ず、夜はもうすぐ終わろうとしている。彼を起こさないようにそっと布団から出て、スウェットパンツのポケットに家の鍵とスマートフォンだけ入れて出て行く。どうせ鳴ることはないのだけれど。

 思うよりも夜は明るい。街灯、コンビニ、まばらにつく部屋の明かり。環状線を車のヘッドライトが泳いでいく。こんな時間でも起きている人がいて、ちゃんと社会活動をしている。人は朝起きて夜寝るもの、という曖昧かつ絶対的なルールから外れた場所でもきちんと生きている、その人たちの輪の中にすら入れてもらえる気がしない。ファミレスから出てきた、スポーツウェアを着崩した若い男たちが大声で笑いながら車に乗り込む、その横を足早にすり抜ける。緩やかな坂を登り続けている間に濃紺から瑠璃色へ、藍色の端にピンクグレープフルーツみたいな光が混ざっていく。歩道橋に登ってしばらく空と環状線を眺めている内に、手足が冷たくなってきた。一回りしてアパートに戻る。

 冷えた身体を布団に潜り込ませると、彼の体温と湿度を感じる。人間の匂いがする。優しい寝息をたてながら眠る彼を、ほんの少しの間裏切ってしまった。ヘッドボードに置かれた彼の眼鏡をTシャツの裾で拭いて、元に戻す。大した距離でもないが歩き疲れたので、多分このまま眠ることに成功するだろう。そうして彼の居ない部屋で目が覚める。


 大体、子供の頃からなにかおかしいと思っていた。澤野が眠りの中から出られなくなったのは、今に始まった事ではない。親や学校がもう寝なさいという時間をはみ出してるけど、同級生たちが話題にするテレビ番組が終わったくらいの時間にはちゃんと寝ていた。なのに眠い。体育がない日でも眠い、授業を受けられない。二時限目の途中で寝て、起きたら三時限目も終わるところだった。それだけ寝ても午後も居眠りしてしまう。運動部でもないのに家に帰ってからも倒れ込むように寝てしまう。小学校の高学年に始まって、大学生になってもまだそんな状態が続く。土日は十数時間は余裕で眠ってしまう。薄い紙が水の中に溶けていくように、身体の全てが眠気に浸されていく。

 このままではまともに社会生活が送れない。いや、さすがに会社で居眠りはないだろう。と思ったらやっぱり寝てしまう。立っていても眠いが、椅子に座った途端に意識を失ったように眠ってしまう。外回りに出れば、電車の中で吊り革を掴んだまま降車駅を乗り過ごしてしまう。

 どうしてこんなに眠いのかがさっぱりわからない。夜更かしをしているわけでもない。緊張感にまみれているのに、眠りたくないのに、突然ストンと落とし穴に落ちるように眠ってしまう。ただただ悔しい。全力で抗っているつもりなのに。どうして自分は眠りに逆らえないのか。でもこんなことで辛いというのは、世の中が許してくれないだろう。眠れない人が大勢いるのに。みんなにこの眠気を配って回りたい。

 職を失うのは、案外あっさりしたものだった。役職者に対面で説教されて、自分だって居眠りなんかしたくないんです、と強く訴えている最中に意識がふっと消えて椅子から落ちた。ほとんどコントだ。

 求職活動をしたい気持ちは存分にあるが、目が覚めるといつも日が沈んでいて、何もかもが終わっている。身体の中まで泥のかたまりに侵食されているような眠りの中で一日が過ぎていく。嫌だと思っているのに。

 そんな状態なので、届いた郵便がすぐに開けられず、そのまま忘れてしまう。不在票が入っても荷物の再配達の依頼をすることが出来ない。重要書類とハンコが押された封筒も開封出来ない。そうした手紙の数々が、受信メールや不在着信が地層のように積み重なっていくのに。それを処理する体力がない。だから立ち退き工事のためアパートから退去しないといけないことに直前まで気付かなかった。眠りに全てを奪われていく。

 なんとか目が覚めている隙に大学時代の友達に連絡することに成功すると、一時的にではなくしばらく住んでもいいという。ただし、見知らぬ人の家に。


 松並というその男は、最近長年同棲していた恋人が出て行ったばかりで、とても一人では居られず寂しさのあまり、このままでは人生が立ち行かなくなる予感がすると思い悩んでいるという。自分の悩みがそうであるように、他人の悩みは馬鹿みたいに思えてしまう。それぞれに切実なのだが。

「家に帰っても誰も居ないのがとにかくつらいし、自分しかいない部屋にずっといるのがもう耐えられなくて。誰か一緒にいてくれる人が欲しくて欲しくてしょうがなかったんだけど。恋愛とかする気分も気力もないし……。もう、本当にどうしようもなくなって」

 初めて訪れた他人の部屋で正座をしてインスタントのコーヒーを飲みながらでも、クラゲのように半透明で柔らかな眠気が覆いかぶさってくる。こちらが眠気の海で巨大なクラゲと格闘していることなど気にも留めずに、血色の良い顔でにこやかに絶望と喜びを語ってくれる。

「とにかく誰かそばにいてくれる人なんて、望んだところで無理だろうなって思ってたから。まさか本当に見つかるなんて思わなかったよ」

 おそらく素直で良い人なのだろう。明るいものだけ受け取って育ってこれたような。手を入れすぎてもいないが、手を抜いてもいない。よれていないシャツ、汚れていない爪、荒れていない肌。白い無地のマグカップ。ベージュのカーテン。部屋も本人も、真水のようだ。

 だけど彼の唇からこぼれる言葉をうまく飲み込めない。一人でいるのが怖くて、寂しくて頭がおかしくなりそうで、眠れない。とにかく誰かにいて欲しい。表情も口調も常温の水のようなのに、飲み込めない。例えば、もっと荒れ果てた部屋で泣き喚きながら縋りつかれたら、信用出来るものだろうか。

 リビングと続きになっている寝室の方を見遣ると、大きなベッドが目に入った。この部屋に、松並以外の誰かがいたという一番大きな証拠。あのベッドね、と松並が口を開く。

「処分しようとしたんだけど……。新しくシングルベッドを買って、家具屋に交換引き取りしてもらおうと思ったら、サイズが違うと引き取り対象にならないって言われて面倒になって。処分代もかかるし、自分一人であのベッドを解体してゴミに出すのは、さすがに無理」

 一人って不便だね。そんなことを気安く言う。だからって。

 一人暮らしのために数年前に買った安くてなんだか薄っぺらい家具は、なんの思い入れもなく処分出来た。部屋が変わっても眠ってばかりで何も変われない。仰向けに寝転がって、両腕をまっすぐ水平に伸ばすと、手首の先がはみ出るサイズのベッド。

 いくら寂しいからって、よく知らない男と同衾することに抵抗はないのだろうか。ないのだろうな。寂しさを紛らわせてくれるためだったら、簡単に天秤は傾くだろう。眠気を消してくれる何かがあれば、自分だって少々の危なさに目をつぶって手を出してしまうだろうから。

 明け方と呼ぶにはまだ早い時間。ベッドの中で違和感を覚えて目を開けると。松並が澤野のTシャツにしがみついていた。

 そこにいない誰かの感触に手を伸ばしても、そこにあるのは本物じゃない。どこかへ行ってしまった。本当にいるべき人は、ここにはいない。

 松並の方はこの澤野の現状をどう思っているのか、同居の前にもしてからも訊いてみたことはあるのだが。

「そういう時期もあるよ。人生は長いから」

 そんなこと言われても。

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