第二章 輪廻草と大樹の蜜
第二章 輪廻草と大樹の蜜 その一
「おや。精霊成りだね」
「あら。精霊成りだ」
「人狩りが連れているよ」
「ヒスイ殿か。いつみても美しい瞳をしておいでだ」
「ああ。理が無ければ、抉り取ってしまいたいのに」
あちらこちらの木々の上から嬉々とした声が紬とヒスイ目がけて降り注いでくる。
物騒な言葉も聞こえるが、ただの悪ふざけであり、心根からの悪意ではないと紬は察していた。
そう断じることができたのは、ヒスイの微笑を孕んだ困り顔のおかげでもある。
「彼らなりのユーモアらしい」
と、ヒスイは付け加えた。
「ゆーもあ、とは?」
紬は、聞き馴染みのない単語に首を傾げた。
「おふざけって意味かね。よくは知らんが」
「ヒスイ様もご存じないのですか?」
「そうさね。俺の服装を何と呼ぶ?」
「洋装です」
「では聞くが、洋装の〝洋〟という言葉の意味は分かるかね?」
十年と少しの人生で洋服の語源について考えたことはない。意味を知らずに、けれど日常的に口にする。疑問にも思わなかった言葉の意味を突き付けられてたじろいだ。
「……いえ」
素直に白状すると、ヒスイは小さく頷いてから紬の小袖を指差した。
「なら和装とは?」
「えっと、古くから大和に伝わる服では?」
「では、洋とはなんだね?」
「さぁ……」
「洋とは海さね。海の向こうから伝わった服という意味だ」
紬は遅れ米以外の実りに乏しい寒村の生まれで学校に行ったことはない。勉学と呼べるものは、時折両親が買い与えてくれる本を読むぐらいであった。
本の知識によれば、紬たちが暮らす大和以外に人の住める土地はなく、他は海と大樹があるばかりだと。
そんな紬にとって、ヒスイの知識は熟れた柑橘類を齧るより鮮烈だった。
「海の向こうには、国があるのですか!?」
「昔はあったらしい。今では大樹ばかりで、人も獣も精霊も何も住んではおらんと」
「昔とは、いつごろ?」
「それを解き明かすのは、歴史学者の仕事さね」
肝心なところをはぐらかされ、限界まで膨らんでいた探求心に針を刺されて割られた気分だ。
「……ヒスイ様のお話は、よく分かりません」
紬が唇を尖らせると、ヒスイはからかうように笑んでから立ち止まった。
「つまるところ、ユーモアの語源は俺も知らないってことさね」
「ヒスイ様でもですか?」
「人狩りの知識なんぞ、そんなもんさね」
ヒスイの視線はどこを見るでもない。しいて言うなら見えないモノを見ようとしている。紬にはそう感じられた。
「分かるのは、人は文明を作るたび崩壊させ、作り直してきたってことだけさね」
今ある文明は人が初めて作り出した文明ではない。
幾度となく文明と呼べるものを人類は築き上げ、ある節目を境に衰退していく。これを幾十幾百繰り返し、幾千幾万の年月を経た果てにあるのが今の文明だ。
本の知識しかない紬でも知っている世の常識である。
人間は、全盛期には今の百倍近くいたとか。空を飛び、天の星にまで手を伸ばしていたとか。大樹は存在せず、獣は言葉をしゃべらず、精霊は想像上の産物に過ぎなかったとか。
今の常識が非常識であった世界。信じられない話だが、太古の地層から発掘される数々の資料はそれが事実であったことを物語っている。
古い時代より衰退した今を嘆く者もいれば、飽くなき闘争に身を投じ続けた当時の文明を敬遠する者もいる。
紬は過去の世界を見たいとも、暮らしてみたいとも思いはしなかった。
知りたいのは、今生きているこの世界のことだ。
「これは、何度目の文明なのでしょう?」
「さぁね」
分からない。でも分からないからこそ楽しいのだ。
ヒスイの曖昧な表情は、そう物語っているようだった。
「俺たちが着ている服も食べているものも、発掘される資料に記載があったものを自分たちなりに再現して使っているだけさね」
「私たちの文化は、真似事だと?」
「多分当時の人たちから見れば、未熟な猿真似だろうさね」
紬は知っている。故郷の村の人々がどれほど懸命に生きているかを。
遅れ米が実らぬ時は絶えず不安に苛まれている。明日はどうなるか。明後日は実るのか。雪は何時止むのか。遅れ米が実った時、誰が連れて行かれるのか。誰が涙を流すのか。
そんな不安と向き合いながら、がむしゃらに生きている。
紬は遅れ米の実りによって精霊成りと化し、文字通りの贄となった。
きっと両親は悲しく思っているだろう。
何故紬が選ばれたのだと。何故娘なのだと。
しかし村の皆がしばらく不安を感じず生きられるなら、払った代償は等価かもしれない。
そんな紬たちの生き方を見て、過去の人類は笑うのだろうか?
劣っていると。猿真似だと。
紬は過去の文明のことはよく知らないけれど、今を暮らす人々が膨張し続ける不安を抱えながら時折訪れる幸福を目指して生きていることを知っている。
「私は、今いるこの世界が好きですよ」
精霊成りと化した紬を見て、人々は理不尽を嘆くはずだ。紬が傍観者の立場であったとしても、きっと精霊成りを哀れむだろう。
理に情けはない。
誰であろうと残酷なまでに平等な規範。それでも紬には、断言できる自信があった。
「世界をよくは知らないけど、深く知ってもきっと好きでいると思います」
残酷でも理不尽でも、流れ星の瞬きのような幸せのために生きる。得られる幸せの形は違い、目指す場所も異なるが、どうであれ愚直に歩み続ける人の懸命さは好もしい。
紬の宣言を聞いたヒスイは、朗らかに破顔してみせた。
「もしも俺たちが生きている文明が昔のどれより長く続いたら、未来の人たちが褒めてくれるかもしれんさね」
ヒスイは外套の懐から掌に乗る程の麻袋を取り出し、中から茶色い粒を一つ摘み上げると、口へ放り込む。
食べ物には見えない。人狩りは特殊な仕事柄、不思議な道具をいくつも持っているという。ヒスイが口にしたのも、そう言った類のものかもしれない。
好奇心に身を任せて視線を注ぎ続けると、ヒスイは麻袋から茶色の粒を一つ取り出した。
「味見してみるか?」
「ありがとうございます」
ヒスイから粒を受け取るや否や口に放り込む。硬いのかと思いきや、唾液に触れた瞬間解けた。それと同時に人生で味わった経験のない猛烈な苦味が口の中を広がっていった。
知っている味で例えるなら渋柿と濃く出した茶を混ぜ、煮詰めたようである。到底呑み込めるものではないが、ねだって貰ったため吐き出すのも失礼と思い、唾液で流し込んだ。
「苦い……」
ヒスイを睨みながら言うと、彼は愉悦に任せてからからと声を上げた。
「大人になれば分かるさね」
「分かりたくありません!」
「そうかね……ん!?」
からかい顔から一転、ヒスイの声に強張りが生じた。
「紬、止まれ」
「ヒスイ様?」
「足元を見ろ」
言われたとおりに見ると、絹糸みたいに細い蔦の葉が蛇のように地面を這って進んでいる。しかも一つではない。百年かかっても数えきれそうもない膨大な数の蔦の葉が列をなしていた。
「紬、動くな」
ヒスイの忠告に従い、紬は立像が如く微動だにしなかった。
「ヒスイ様。これはなんですか?」
「蔦虫(つたむし)という。大樹の樹液を使って人工的に作られたものだ」
「人工的?」
「褒められた目的では、使われないもんさね」
ヒスイの顔色は昨夜仕事をした時と同じに変じている。物悲しげで、けれど殺意もちらついている。人狩りとして仕事をする時、ヒスイが浮かべる曖昧な黒。
だからこれは危ないモノなのだと、即座に理解した。
忠告を破ることは、絶対にありえないと――。
『人狩り殿! ヒスイ殿!』
聞き覚えのある声に、紬が再び足元を見る。蔦の流れに絡まって土竜が一匹もがいていた。口元の毛は蜜で汚れており、先程ヒスイの元を訪れた土竜だと分かった。
『ヘルミー! ヘルミー!』
土竜は紬とヒスイを交互に見ながら何やら叫んでいるが、言葉の意味を理解できない。
「ヘルプミーって言いたいのか?」
ヒスイが顎を撫でながら呟くと、土竜はこくこく頷いた。
「ヒスイ様、意味は?」
「助けてくれ、だったかな」
咄嗟に紬は、土竜に飛び掛かり、胸に抱いた。無意識の内の行動を後悔する間もなく、手足や胴を蔦が這いずり絡まってくる。
「あ! ヒスイ様すいません! 反射的につい!」
流れに逆らおうともがくが、蔦の膂力は全力で抵抗しても振り解ける気配がない。
『ヘルミー!』
紬の胸の中で土竜は悲痛な叫びを上げているが、ヒスイは動こうとしない。
助けに来てはくれないのだろうか?
「ヘ、ヘルミー!」
今度は紬が声を上げると、ヒスイは困り顔で後頭部をかきむしった。
「まったく……」
蔦が紬の視界を覆い尽くす寸前、蔦に飲まれるヒスイの姿が焼き付いた。
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