第一章 どこにでも現れる野良猫みたいな その4
「ばか……っ! マスクしとけ……!」
「……ワタシの可愛さがイッチーに伝わらない」
「伝わってるから……はいはい、お前は可愛いよ」
「……ふむ、不完全燃焼」
ものの数秒でマスクを口元へ戻した彼方は再び一般人オーラを装った。
なぜ俺が焦ったのかは言うまでもない。
「……これから都内に戻って仕事。名残惜しいけど時間切れ」
しゅんと意気消沈してしまった彼方。
彼女の視線が名残惜しさを訴えかけてくる。
「早いな……まだ会って十分くらいしか経ってないのに」
「……次の仕事までの時間が少し空いたからイッチーの顔を見に来た。でも往復で二時間近く。ほとんど移動時間で潰れちゃうのが誤算」
「お前、ずっと休み少ないんだろ? 仕事の前にこんなところまで来たら余計に疲れてしまうって……」
「……疲れるどころかイッチー成分を補給した。これで仕事もがんばれる」
彼方は疲れた素振りなど微塵も見せず、健気な言葉をくれる。
「……あっさり帰る前にちょっとだけ足掻く。デートっぽいことしたい」
「たとえば?」
「……ワタシがCMで紹介してるハンバーガー、一緒に買って食べよ」
積極的な彼方に手を引かれ、俺たちは駅前のファストフード店へ。
まさか店員も『自社のCMキャラクターが変装して来店している』なんて思ってもいないだろう。
注文したものを受け取った二人は、客がほとんどいない店内の隅っこテーブル席でお揃いのハンバーガーを頬張る。
去年のクリスマス以来、約四ヵ月ぶりの再会。
デートとは呼べないくらいの短時間だし、彼方に選んでもらったハンバーガーを食べただけなのに……俺たちが付き合い始めたころに戻ったような気がして、胸の奥を充実感が満たしていった。
電車で帰る彼女を改札まで送り届けたが、もうちょっと一緒にいたかったので俺も入場券を購入。西武新宿行きのホームに付き添い、電車が来るまでの数分を待つ。
「売れっ子なのにプライベートは変装して電車移動なんだな」
「……マネージャーに『恋人に会うから送迎して』なんて言えない。東京からここまでのタクシー往復、お財布に優しくない。電車が最強。イッチーもケチだから電車大好き」
「一から十まで共感できる。タクシーなんて一度も乗ったことないわ」
「……ワタシとイッチー、似た者同士。だから付き合ってる」
「出会ったころはめちゃくちゃ正反対だったろ」
「……もう忘れた。今が良ければそれでヨシ」
すぐ隣にいた彼方の指先が俺の指先にちょこんと触れてきた。
「……ワタシが一方的に握ってるだけ。気にしないで」
彼方は手を繋ぐのが好きだ。
恋愛経験の浅さなのか、どうしても躊躇してしまう俺はいつも握り返せず……恋人繋ぎが成立しない。これまで一度も、だ。
「今日は何時まで仕事なんだ?」
むず痒い空気になったときは、こうやって世間話を振る。
「……番組の収録だから正確にはわからない。たぶん深夜まで」
「帰り道はさすがにタクシーだろ?」
「……うん。家バレしないように、ちょっと離れた位置でいつも降りてる。歩くの好きだから少し歩いて帰ってる」
「夜から雨が降るらしいぞ」
「……ぬかりない」
手持ちのバッグを傾け、折り畳み傘をチラっと見せてくる彼方。
「そういや今朝のテレビで紹介してただろ……」
「……うん、小犬沢彼方の必需品。ワタシにとってのお守り」
「そんなボロ傘、いつまで使ってるんだよ。そろそろ買い替えればいいのに」
「……ううん、問題ない。穴が開いても使い続ける所存」
「国民的アイドルが穴の開いた傘を差してたらファンが泣く」
「……完璧そうな美人がお茶目な隙を見せる。そのギャップがファンの心を掴む方程式。今朝みたいにバラエティのネタにもできる」
完璧そうな美人とか自分で言っちゃうやつ。
「……そういえばイッチー、ワタシが出演した番組を見てくれてた。嬉しい」
くっそ、気づかれたか。
「夜勤明けにテレビをつけたらお前が出てただけだよ」
「……ワタシと会えなくて寂しかった? 液晶画面のワタシで会えない欲求を満たそうとした。そうだよね」
「そうじゃないです」
「……ふーん、そう」
わき腹をつんつんと肘で小突いてくる彼方。
マスクの下には調子に乗ったニンマリ顔を隠していることだろう。
『――まもなく、二番ホームに急行・西武新宿行きが十両編成でまいります。黄色い線の内側でお待ちください』
細やかで幸せなひと時も束の間、電車の訪れを予告するアナウンスが流れた。
「……次はいつ会えるかな」
彼方の何気ない一言。
しかし、数ヵ月単位で会えない日が普通になった俺たちにとってはかなりの重みを帯びており、自らの視線が足元へ逃げる。
学生のころは学校で毎日のように会えた。
多忙な社会人になってからは〝また今度〟が、とてつもなく遠い口約束に感じる。
「……来週、ワタシたちが付き合い始めた記念日。少しでも時間を作れるようにマネージャーと相談したい」
「俺も同じことを思ってた。去年はお互いに忙しくてデートは無理だったからさ、今年こそは一時間でも二時間でも……遊びたいな」
「……うん、ちゃんとデートしたい」
「俺も有休を取れるように上司と相談してみるよ」
たぶん、彼方は嬉しがっている。
やや弾んだ声音と自然に下がった目尻を見ればわかる。
――時間切れ。会話を掻き消す轟音を引き連れた電車がホームに入り、停車と共にドアが開いた。
「またな、彼方」
「……またね、イッチー」
彼方は名残惜しそうに乗車。閉まったドアが俺と彼方を遮り、合わせていた視線の距離は徐々に遠ざかっていく。
踏切の甲高い音が鳴り止んだころには、もう彼方の姿は視界から消えていた。
俺たちはデートの口約束をしたのに。
自分の胸中に期待や歓喜が渦巻くことはない。
心のどこかで『どうせ会えないだろう』という諦観が染みつき、無意識に燻っているのだろうか。
彼氏は都心から追い出され、週六勤務の三交代で毎日残業する会社員。
彼女は芸能界のあらゆる仕事を熟し、メディアで見ない日はない国民的アイドル。
そんな二人が〝人目を避けながら内緒の交際を続けよう〟と思うこと自体が高望みで間違っているのかもしれない。
最後にキスをしたのはいつだったか。
思い出すまでに時間を要するほど、恋人らしい濃密な時間は失われつつあった。
どちらか、または両方。
四月が終わっても二人の思惑が絶妙に噛み合うことはなくて。
付き合い始めた記念日どころか、五月中に会えることは一度もなかった。
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